2021年12月12日  「神の知恵であるイエスを待ち望む」
          コリントの信徒への手紙一 1章30節
はじめに.アダムとエバの罪から始まった
 エデンでアダムとエバが罪を犯してしまった時、それは彼らの全子孫に対して  罪をもたらすことになってしまった。  ひとりの例外なく、すべての人間が神から離れるという  罪をもって生まれることになってしまった。全人類の罪が、そこから始まった。  人間は、罪をもたずに生まれてくることができなくなってしまった。  ここから人間世界の、すべての悪が始まった。  神から離れた人間は、様々な悪を考え行うようになってしまった。
1.神の知恵の結晶である「イエス・キリストの贖い」
@正義の神は罪人である人間の罪を容認できない
 神は正義の方。したがって、神が悪や罪を受け入れることは一切あり得ない。  神は悪を確実に滅ぼされる。そのために永遠の火がある。  諸悪の根源は悪魔であるが、その悪魔を滅ぼすために永遠の炎が用意された。  しかし人間も悪魔の誘惑によって罪を犯してしまったので、  すべての人が生まれながらの、罪人になってしまった。  その結果、人間も永遠の炎に投げ込まれる定めになってしまった。  神は罪を持つ人間全員を、その正義によって裁いて、滅ぼさざるを得なくなってしまった。
A愛なる神は罪人である人間を滅ぼしたくなかった
 神が愛するために作った人間なのに、その人間をすべて滅ぼさなければならなくなった。  しかし神は愛である。  たとえ、生まれながらにして罪人であってもその人を愛している  罪人を裁き滅ぼさねばならないのだが、神は愛ゆえ裁かずに生かしたいと願われた。
B相反する事象を同時に可能にするキリストの十字架
 罪人である人間の罪は罪として、正しく裁きながらも、  その人を滅ぼさないために、どうすればよいか?  罪のない方が身代わりに、人間の罪の罰を受けるようにすれば良い。  血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。(ヘブ9:22)  人の体中のすべての血が流されて初めて、罪はゆるされる。  しかし、すべての血が流されてしまったら、罪がゆるされる前に死んでしまう。  誰か罪のない方が、代わりに血を流せばその罪人は死なずにゆるされる。  神はそれをなしてくださった。神のひとり子イエスを世に遣わし、  人間の罪のために、身代わりになって十字架で血潮を流すようにしてくださった。  イエスはそのように、十字架で血潮を流し切って身代わりに死んでくださった。  神は、イエスの十字架の贖いを信じて受け取れば、罪が赦されるようにしてくださった。  救い主イエスの十字架上での贖いこそ、神の知恵  
2.律法学者たちの知恵は救い主を拒絶してしまった
@聖書には救い主の預言が明確に記されていた
 神の言葉である聖書には、この大事な神からの救い主イエス・キリストのことが  イエス降誕のはるか前から、予告されていた。  極めて大切なことゆえ、神は前もって救い主イエスの降誕以前に、  その予告をしておられた。   降誕の預言 (ミカ5:1,イザ9:1-7)   十字架の預言(イザ53:1-,詩22:)   復活の預言(詩16:10,ヨナ)
A律法学者は聖書に精通した知者のはずだった
 律法学者たちは、聖書をしっかりと学んでいた聖書のプロだった。  当然メシア(救い主)預言も熟知していた(マタ2:5)  → 誕生場所を聞かれてすぐに「ベツレヘム」と答えている  → メシアの前にエリヤが来る(マタ17:10)  → 愛はどんな献げ物よりも重要(マル12:32-33)
B律法学者は救い主を正しく理解できてなかった
 イエスはベツレヘムでなくナザレ出身者だ!  実はベツレヘムで誕生していた(ルカ2:4)  救い主は王の王のはず!ダビデの血統(イザ9:6)  → 王として人々を異邦人の国ローマ帝国の支配から解放してくれるはず!  イエスは言い伝えを守っていない()  イエスは安息日を破っている!  → 畑で麦の穂を摘んで食べている(ルカ6:1-5)  → 安息日に病気を治している(ルカ13:10-16,14:1-5)    ベトザタで38年間病気だった人が癒されたのも(ヨハ5:1-16)  イエスは自分を神と等しいものとしている(ヨハ5:17-18)  イエスは神を冒涜する異端者(マタ9:2-3,ヨハ10:33)
3.律法学者たちの知恵には限界があった
@律法学者たちは律法の本質を外して理解していた
 なぜ律法学者たちは、イエスがメシア(救い主)であると理解できなかったか?  律法学者たちは律法の本質を外して理解していた  本質を理解して実行するのではなく、戒めそのものの表面的な実行を徹底していた  律法学者たちは、昔の人の言い伝えという伝統を重んじ、  律法を台無しにしていた。(マル7:9)  律法の本質は「神の愛」であり「神と人への愛」だった  イエスは安息日を破っていたのではなかった!  逆に律法の本質である神の愛を示していた!
A律法学者は自分の無理解を認識できていなかった
 律法学者たちは自分の考えこそが正しいと思った  真のメシアであるイエスを誤解し異端者と決めつけた  結局神を冒涜する不届き者として十字架で殺した
B本来は無知を認めてキリストを待たねばならなかった
 律法学者たちは、不完全な自分の知恵で判断し主を排斥してしまった  実は自分で思っているほど、賢くはなかった  本来は、自分の無知を認めてキリストを待たねばならなかった
むすび.自分を低くして神の知恵キリストの再臨を待つ
 キリスト降誕は賢い律法学者たちにではなく、羊飼いや東方の博士たちに知らされた。  律法学者たちは、主の降誕の知らせを博士から聞いたが、  ベツレヘムに行って礼拝することはなかった  異邦人の博士たちの言うことに、信憑性があるはずもないという先入観があったのか  私たちは再臨の主イエスを待ち望んでいる  律法学者たちのような「自分は知者だ」という姿勢で、待っていてはならない  彼らに必要だったのは私は賢くないという認識  私たちもへりくだって、主の再臨を待ち望もう(1コリ1:27)