1.目には目を歯には歯をと言われていたが復讐はNG
人に傷害を加えた者は、
それと同一の傷害を受けねばならない。
骨折には骨折を、目には目を、
歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない。
家畜を打ち殺す者は、それを償うことができるが、
人を打ち殺す者は死刑に処せられる。
レビ記 24章19〜21節
@「目には目を歯には歯を」というように「悪を正しく裁く」からこそ正義
もし悪に対して何もしないなら悪の容認になる=不義
一緒にいる友人が、万引きしていると共犯になってしまう
A君「ただ一緒にいただけで、隣でB君が万引きしてるなんて知りませんでした」
警察「一緒にいたら、知らなくても同罪ですよ。
隣で万引きしているのを知っていながら見逃していたら、もっと罪が重いですが。」
人の目をつぶしても何の罰もない=悪の容認
「目には目を」という戒めは、傷害に対するきちんとした正しい裁き=正義
もし人の目をつぶしても何の罰もなかったら、悪の容認=正義ではなく不義
悪に対して正しい裁きで報いてこそ正義 ← 例:時代劇
遠山の金さん 「この桜吹雪が目に入らねーかー」→ 悪を正しく罰するのが正義
水戸黄門 「この印籠が目に入らぬかー」 → 悪を正しく罰するのが正義
Aこの戒めは正しい裁きを示し罪人に対して歯止めを与える
人にしたことがそのまま自分に返ってくるなら
人を傷つけるのはよそう!という思いになり
その人に、悪の実行をとどまらせる結果になる
「正しく裁かれるなら、正しく生きよう悪を避けよう」という意識になる
人間を正しく生きさせるための、「目には目を歯には歯を」という戒め
もしこれがなければ、強い者が身勝手にふるまう強権政治的社会になってしまう
Bただし被害者にとっては加害者に報復可能な戒めに受け止められる
この戒めは、加害者にならないような歯止めの戒めなのだが
もし被害者になったら、相手に報復可能になってくる
被った被害と同じだけ相手にやり返すことができる
本来は、報復をさせるための戒めではないはずが
やられたら同じだけ報復しても良いような意識が生じる
しかし、報復はしてはならないことが同じレビ記に出てくる
復讐してはならない。
民の人々に恨みを抱いてはならない。
自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
わたしは主である。
レビ記 19章18節
加害者に対して、報復・復讐という形で向かっていこうとすることは
それは復讐自体が悪であるから、悪に対して悪で報いてしまうことになってしまう。
神は私たちが復讐することを望んでおられない。
2.「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」こそが真の解決方法
イエスも「目には目を歯には歯を」という戒めについて
この戒めの様に、やられたらやり返すという報復行動をとることは、
本来的な人間の行動ではないことを、示しておられる
「あなたがたも聞いているとおり、
『目には目を、歯には歯を』と命じられている。
しかし、わたしは言っておく。
悪人に手向かってはならない。
だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
マタイによる福音書 5章38〜39節
やられたらやり返すどころか、さらにやられるままになっていなさい
という、「報復とは真逆の」ことを語っておられる
@悪人に手向かってはならない
悪魔の戦略は、人と人を憎み合わせ敵対させること
私たちの戦いは、人に対する報復行動ではない→目に見えない領域での戦い
悪を行っている人に対して、一切の報復行動をしない
悪人に手向かうことは、一見悪を抑え込めるように思えるが
実際のところ、真の解決にはなっていない
どちらかがやられて終わる。場合によっては命が失われる
真の解決は、悪人が悪を捨て去ることにある
人の内側にある内面的な問題こそが、解決されなければならない
内面的な問題を解決させるには、力づくで対抗してもダメ
内面的な問題の解決のためには、目に見えない対抗策が必要
それが愛するということ 敵を愛することによって敵の心を変えてしまう
悪に対して善、すなわち愛をもって報いることこそ真の解決につながる
A一切の恨みを抱かないで捨て去る
悪人と呼ばれている人々は、罪を抑制せずに罪のままに行動している
故意の罪を犯し続けて、それをやめようとしていない。
そこに、目に見えない敵である悪魔が付け込む
私たちの敵は目に見えない領域にいる悪魔や悪霊
悪魔はその人々を用いて、ほかの人たちを攻撃する
そして攻撃された人々にも、恨みや憎しみという悪意を抱かせてしまう
もし人を恨む思いや憎む思いをいだいたら、敵の意図通りとなり敵が喜ぶ
決して敵側を喜ばせてはならない。捨てる物は捨てる
たとえ攻撃されても、恨む思いや憎む思いを抱かず捨て去る
悪人に手向かったところで、それで解決するものではない
真の解決は、悪人に手向かわないところにある
悪魔の悪の策略を見抜こう!「仕返せ!」という火の矢を信仰の盾で跳ね返そう!
B自分自身がそれ以上赦されていることを思い出す
悪人に手向かわずにいるために、どうしたらよいだろうか?
どうやって、恨む思いや憎む思いをすてさるか?
自分自身が、それ以上赦されていることを思い出す
決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、
王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、
主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。
家来はひれ伏し、
『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。
その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。
マタイによる福音書 18章24〜27節
タラントン=60ミナ=6000デナリオンと言われているので
1万タラントン=6000万デナリオン、ということになる。
ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、
捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、
『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。
しかし、承知せず、その仲間を引っぱって行き、借金を返すまでと牢に入れた。
仲間たちは、事の次第を見て非常に心を痛め、主君の前に出て事件を残らず告げた。
そこで、主君はその家来を呼びつけて言った。
『不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。
わたしがお前を憐れんでやったように、
お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』
そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。
マタイによる福音書 18章28〜34節
自分が6000万デナリオンゆるされたのに、100デナリオンゆるせていない
60万倍ゆるされているのに、ゆるせないというのはおかしい
自分がやられたことの60万倍ゆるされているなら、当然ゆるせるはずだということ
右の頬を打たれることは、100デナリオンゆるすことと同じ
もしそれがゆるせなかったら自分の1万タラントンはどうなる?
もしも右の頬を打たれたら、100デナリオンだと認識する
私が100デナリオンをゆるすと、相手の内面が変わる
右の頬を打つ人に左の頬を向けると、相手の良心に大きなインパクトが加わる
心の悪を認識させるばかりか、それをゆるしてくれるその愛が伝わる
3.実際の生活の中で「悪で悪に報いず善で報いる」にはどうするか?
@神に復讐心から解放されるように祈る
私たちは神の愛を運ぶ、尊い運搬人であるという認識を持つ
神の愛を届けるためには、復讐心が邪魔になる
一切の報復する思いから解放されるように、神に祈るべき
そして...
キリストの十字架の姿を、自分の身でも表せるように
ステファノの最後のように決して恨まず、とりなし祈る姿になれるよう
ダマスコのアナニアのように、敵のようなサウロの所にも行けるように...祈る!
A気づかないうちに悪で報いていなかっただろうか?心を探る
私が悪で報いていることがなかったか?
私は悪で報いたりはしていません。復讐なんてめっそうもない...
本当に?もしかしたら...
知らず知らずのうちに、悪で報いていなかっただろうか?心を探ろう
正当に評価してくれない人、失礼な人に対して思いの中で報復してなかっただろうか?
こんなにやったのに、少しも評価してくれない、
何をやってあげても、感謝の言葉やお礼の一言もない、...という時
「もうあの人には何もしてあげないことにしよう」というのは悪で報いること
あの人は嫌いという感情がどこかに残ってないだろうか?
あの人はいつも悪口を言ってくる、見下してくる、...だからあの人は嫌い!
「あの人は嫌いだ」と思ってしまうことも、悪で報いること
人に対して「嫌い」という感情を持つことも、その人に対して悪で報いていることになってしまう
Bどんなことがあっても誰に対しても善を行う決断をする
生活のすべての領域で、誰に対しても善で答えるという決断をしよう
非常にシンプル いつも善!どこでも善!何があっても人に対して善を行う!
悪に対しては悪で、善に対しては善でという「切り替え」をしない
良いことをしてくれる人に、良いことをし
悪いことをしてくる人にも、良いことをする
人によって態度を変えない
神が最後に正しく裁いて下さると信じて、どんな人にも善を行う決断をしよう!
必ず神が助けて下さる!
むすび.神によって、悪に対して善を行える力を頂こう
悪に勝つのは善の行い。その力を神に求めていこう!
神はあなたを、善をもって悪に勝つことができるようにしてくださる。
善をもって悪に勝つあなたを、神の愛を届ける人として、神は大きく用いて下さる!