1.自制できずに罪を犯してしまった人々は多い 自分の欲望や感情を、抑えることができなかった例は 聖書中にも数多く記されている @怒りを制することができずに罪を犯した人は多い カイン:怒って弟アベルを襲って殺した (創世4:7-8) エサウ:父をだまして祝福を奪い取ったヤコブを殺そうとした ヨセフの兄達:ヨセフを殺そうとした ヘロデ王:博士たちの態度に怒りベツレヘム周辺の幼子らを虐殺 ボアネルゲス:天から火を降らせ焼き滅ぼし殺すことを願った(ルカ9:54) A食欲や物欲を制することができず罪を犯した人もいる 食欲自体は必要なものでありそれ自体悪くはない がエサウは食事と神の祝福を交換した(創25:32) アハブはナボトを殺してブドウ畑を強奪(列上21:1-16) B情欲を制することができずに罪を犯した人もいる ダビデ:ヘト人ウリヤの妻バト・シェバと姦通 アムノン:アブサロムの妹タマルを辱めた 自制できずに、自分の欲望や感情を抑えられず、 罪を犯し続けて生きるのが、本来の人生ではない! 2.聖霊の宮として生きる→忍耐自制→欲に負けない 私たちは聖霊の宮として造られている 私たちが聖霊の宮として生きるのなら、そこに 当然のごとく自制が生じる 聖霊の宮として生きることを心掛ける 心の中の部屋の中心に、聖霊に座っていただく 心の王座から私は降りる→王座には聖霊に座ってもらう @聖霊の思いに自分の思いを合わせてゆく 聖霊は私に聖霊と同じ思いを持ってほしいと願っておられる 私の体は聖霊の宮→聖霊によるコントロールに委ねる 聖霊に従う←運転中に教官の指示に従うのと似てる 聖霊は人を嫌わない蔑まない軽んじない⇔私はどうか? 「あっ!嫌っていた!」と気づいたら改める 聖霊の思いに合わせる A聖霊が語りたいと思っていることを私が語る 聖霊は私に聖霊が語ってほしいと願っていることを語ってほしいと願われる 聖霊は隣人に必要な言葉を語りたい ⇔ 私は自分の事を語りたい 聖霊は霊的なことを語りたい ⇔ 私はこの世のことを語りたい 聖霊は愛を動機として語りたい ⇔ 私は感情のままに語りたい 自分の語りたいことを捨てて、聖霊の望んでおられることを語る 自分の怒りの感情に任せて語るのではなく、聖霊によって語る パウロとシラスは、フィリピの獄中で怒りの叫びをあげるのではなく、賛美と祈りをした B聖霊が行いたいと思っていることを私が行う 聖霊は私に聖霊がやってほしいと願っている行動をしてほしいと願われる 聖霊は隣人を助けたい ⇔ 自分の利益を求めたい 聖霊は隣人に仕えたい ⇔ 隣人よりも上に立ちたい 聖霊は隣人に与えたい ⇔ 隣人からもらいたい 自分の利益を求めようとする行動をやめて、隣人の利益のために行動する 隣人の上に立とうとする行動をやめて、隣人に使える行動をとる 隣人からもらおうとする行動をやめて、隣人に与える行動をとる 3.忍耐と自制を与える聖霊に自分を明け渡して生きる いかに私自身を聖霊に明け渡していくかが問われている かたくなな岩のような心を、いかにばらばらにしていくか? そこがチャレンジされている @聖霊は忍耐力と自制心を私たちに与えて下さる 霊の結ぶ実は柔和,節制(自制)です(ガラ5:22-23) 神の栄光の力に従いあらゆる力によって強められ どんなことも根気強く耐え忍ぶように。(コロ1:11) 聖霊は忍耐力と自制心を私たちに与えて下さる方 いかにそれを受け取れるかにかかっている 自分自身を聖霊に明け渡すとき、聖霊は大きく働かれる A聖霊の力によって怒らずに忍び赦せるようになれる 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、 赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださった ように、あなたがたも同じようにしなさい。(コロ3:13) 聖霊に明け渡していくならば 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、 赦し合うということが、実際にできるようになる 主イエス・キリストが十字架で私を赦されたように 私たちも同じように自分の感情を制し 隣人を赦し、忍耐できるようになる。 B私が聖霊に自分を明け渡すかどうかにかかっている 聖霊よりも自分の思いや感情を優先していると負ける 聖霊を締め出さず聖霊に主導権を渡し切ってしまう 聖霊に明け渡そう! むすび.力強く働くキリストの力で闘い勝利(コロ1:29) 聖霊に明け渡すとき、私のうちにキリストの力が力強く働く そして忍耐と自制ができるようになって 勝利することができる! 自制できないために負けてしまうという状況は、克服可能なのだ!