1.王権を握ったサウルは向かうところ敵なしだった @サウル王は周囲の略奪者達に対し全戦全勝していた サウル王は、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、 ペリシテ人と戦わねばならなかったが、どこででも勝利している。 負けていない。すべてに勝っている。 Aサウル王も主の霊によって力を受けていた サウルは油注がれて、主によって王とされた(10:1) ナハシュに攻められた時、神の霊が激しく降った(11:6) サウル王は、神によって選ばれ、 神がサムエルを通して油を注ぎ、王となった。 そして神の霊がサウル王に激しく降った。 サウルの力は、もちろん自分自身の力ではなく 神の霊が降ったことによる力だった。 B神はサウル王の状態によらずイスラエルを勝利させた 神の霊が降り、神に用いられたサウル王だったが サウル王は、致命的な過ちを犯していた (13:8-9) サウル王は主の言葉に従わず、越権行為を行った そんなサウル王だったにもかかわらず、 イスラエルは、周辺の国々に全戦全勝している。 なぜ? ヨシュア記によれば、アカンの罪はイスラエル全体の敗因になっている サウルの越権行為の罪が、イスラエルの敗因にならなかったのはなぜか? なぜ王が罪を犯していたのに、イスラエルは勝利できていたのか? 2.神の力と勝利は、サウルの愚かさや罪とは無関係だった @最終的にサウルは、罪を刈り取り戦いに負け死んだ サウルの越権行為の罪は、最終的にはイスラエルの敗因になっている サウルの罪は越権行為だけではなかった。神の言葉にも不従順だった。 人を恐れて、神の指示通りにアマレクを滅ぼしつくすことをしなかった(15:1-10) それらの罪が、最終的にペリシテ人との戦いでの敗北につながっている。 サウルは最後にはペリシテ人に追い詰められて、自害してしまった。 サウルの子ヨナタンも死に、王権はサウルの家系から離れることになった。 やはりサウルの罪も、サウル自身の敗因となったと同時に イスラエル全体の敗因になっている。 サウルは死に追いやられ、王権はダビデに引き継がれることになった。 A最後の戦いに負けるまでは激戦を勝ち抜き負けていない しかしサウルは、このように最後に負けて死んでしまうまでは、戦いに勝利している。 イスラエルは、略奪者たちから略奪される危機に直面していた。 周囲の敵はイスラエルを略奪していた。 (14:48) それらの略奪者たちから、イスラエルを救い出す働きをしてどこでも勝利した。 ペリシテ人との激戦をも、戦い抜き勝利している。 B神の目から見たら不適格者だったのになぜ? 越権行為の罪で、サウル王は即王位を剥奪されてもおかしくない状況。 なのに、戦いでは向かうところ敵なしという程の勝利をしていた。 王が罪を犯してしまうと、神がイスラエルを守れなくなってしまうというわけではなかった。 王が罪を犯そうが犯すまいが、神はイスラエルを周辺諸国から守ることができた。 神の力と勝利は、サウル王の愚かさや罪とは無関係にいつでもそこにある。 私たちが罪を犯してしまったら、神はもう勝利を与えられなくなるというのではない。 神は私たちの罪や状態によらず、いつでもどこでも勝利できるお方 キリストの十字架の血潮によって、罪が赦されていれば、 なおのこと、私たちの過去の罪に関わらず勝利を与えてくださる。 3.もし主イエスが私の代わりに1日を過ごしたら? @私たちは1日を自分の考えと判断で生活している 1日の優先順位を考えてスケジュールを考えて行動 自分の思いと考えで行動している そしてしばしば失敗してしまう。 優先順位を間違えたり、 欲望に負けたり、自己中心的な動機が先行したり 純粋に隣人愛だけを動機として、行動できなかったりする。 そして1日の終わりに、敗北感を味わうことになる。 Aもしイエスが私の代わりに1日を過ごしたらどうか? イエスが私の代わりに1日を過ごしたら、最善のスケジュールで 最善の優先順位のはず。そしてその行動は完璧で失敗がない。 隣人に対して、最善の言葉を語り最善の行動をするはず。 私がそれまでどんな罪を犯していたとしても、どんな状態であったとしても イエスが私の代わりに1日を過ごされたら、勝利の1日を過ごされるはず。 そこに決して敗北はない。 私たちはそのように、勝利する1日1日を過ごしていきたい。 Bイエスの過ごす1日を実際に見た後で実行したら イエスが、まず私にその模範的行動を見せてくれたら 私はそのように実行しようとする。もしコピーできたら 失敗なく完璧な一日を送ることができるだろう 勝利の1日を送ることができる。イエスのように! でも、イエスの行動を今は見ることはできない。 私の代わりに今現れて、模範を見せてくれることはない どうすれば、イエスのような1日を過ごせるだろうか? どうすれば、私がまったくイエスの御心通り、イエスの思い通りに 動けるだろうか? 何が邪魔するか?を考える。 自分自身の欲望や、自我から来る自己中心的な思いや願い。 それに死ぬ必要がある。自分に死ぬ時にキリストに生きることができる。 何が神の思いとずれているか?聖書を読んで心を探ろう。 気がついたら、神の思いとずれているものを捨て去ろう。 いつまでも握っていてはならない。自分に死んで捨て去ろう。 自分に死んで自分が空っぽになって初めて、聖霊が自由に働かれるようになる。 ステファノは聖霊に満ちていたからこそ、まるでイエスの十字架のような殉教死。 「生きているのはもはや私ではない、キリストが生きている」という状態になろう! むすび.神が戦われるときすべての戦いに勝利 神は勝利しかされない負けることのないお方 神が完全に働かれるとき人の状態によらず勝利 自分に死にキリストに生きるとき、勝利の主が自由に働かれて 勝利から勝利へと進んでいくことができる!!