2021年1月3日  「勝利の一年」
          コリントの信徒への手紙一 15章57節
1.イスカリオテのユダは敗北の人生を送った反面教師
 私たちは勝利の人生を歩むべく生きている。生かされている。  敗北の人生を送った多くの人がいるが、彼らの敗北から学ぼう!  ユダの敗北の姿から、私たちは何をしてはならないのかを学ぶことができる。  ▼ Q.イスカリオテのユダの人生は、どのように敗北していただろうか?
 1.1 ユダはイエスに12弟子のひとりとして選ばれていた
 イスカリオテのユダは、初めから裏切者ではなく「大きなめぐみと祝福の中にいた」人物。  イエスから12人の弟子に選ばれるという、素晴らしい恵みを受けていた。  しかも財布を預かるという、責任ある立場だった 会計担当役員のように。  12弟子全員が主に派遣された時は、イスカリオテのユダも癒しや悪霊追い出しをしたはず。  イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。  汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マタ10:1)  〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜  そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。  その際、汚れた霊に対する権能を授け、...(マル6:7〜)  イスカリオテのユダは非常に恵まれた環境にいた。イエスの話を間近で聞き、  イエスのなさるいやしや、死人を生き返らせるような奇蹟を、目の当たりに体験していた。  さらに自分自身も、イエスと同じような癒しや悪霊追い出しの奇蹟を行っていた。  恵まれた環境で、主のそばにいても、最後に裏切って終わることもあるということ。  環境が大切なのではなく、どんな境遇にあったとしても本人の意志と決断が重要。  「イエスに、最後まで従います」という意志と決断が、とても大切。
 1.2 ユダは、罪から離れる決断ができなかった
 イスカリオテのユダには、「大きな罪がからみついたまま」だった。  弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。  「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」  彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。  彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。  (ヨハ12:4-6)  ユダは恵まれた環境の中で、お金をごまかし続けていた(不正経理)   → 罪を悔い改めないままでいた。サタンに隙を与えていた。  ユダは金銭の誘惑に勝てなかった。  より多くの金を求めた。彼は金の誘惑に勝てなかった。  最終的に、イエスでなく「銀貨30枚を手に入れること」の方を選んでしまった。  「イエスより金を選んだ」   → その結果イエスは十字架にかけられてしまった!
 1.3 ユダはことの重大さに気付かずに後悔に捕らわれた
 イスカリオテのユダは、「あまりにも軽率」だった。  まさか、イエスが十字架につけられようとは夢にも思わずにいた。  そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、  銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、  「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。  しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。  そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタ27:3-5)  「しまった!どうしよう?あんなことしなければ良かった」と後悔しても、後の祭りだった。   → 結局自責の念に駆られて、自分で責任をとろうとして首をつって死んでしまった。    イエスを売るという彼の行動は、「浅はか」「軽率」としか言いようのない行動だった。  祭司長や長老たちは、イエスを殺そうとしていた。  そんな人々にイエスを売ったらどうなるかということぐらい  容易に想像できなかったのだろうか?  それともファリサイ派の人々や律法学者たちを、厳しく戒めていたイエスなら  そんな殺そうとする人々など、何の問題もなく蹴散らしてしまうだろうとでも  思っていたのだろうか?  「イエスが負けるはずなどない」と思っていたのだろうか?
 1.まとめ イスカリオテのユダのような、敗北の人生を歩んではならない
  私たちは大きな祝福の中でイエスと共に歩き、様々な奇蹟を体験し、   多くの教えを聞いていたとしても、それで安心することはできない。罪に警戒すること。   絡みつく罪を、かなぐり捨てていかなければならない。   誘惑に勝ち、罪から離れる必要がある。   「祈らない」「神に聴かない」という軽率さからも、脱却しなければならない。   「祈って神に聴く生き方」を、続けてゆくべきなのである。
2.イスカリオテのユダの敗北の原因は何だったのか?
 2.1 ユダは自分の罪の大きさがわかっていなかった
 「イエスを裏切る」という罪の大きさが、まるで見えていなかった  裏切る行為をしてしまった後で気が付いたが、遅かった。  捕らえられたイエスは、どんどん十字架刑へと進んで行ってしまった。  ユダには、自分自身の罪を過小評価していた面が見える。これぐらい大丈夫だろう...  → 罪の大きさを、正しく認識することが重要だった    罪の結果の怖ろしさを、正しく認識することも重要だった
 2.2 ユダは自分の罪に負け罪に支配されていた
 イスカリオテのユダは、自分の罪に負けていた、罪に支配されて勝てなかった。  「会計をごまかす」という罪から、離れられなかった。  イエスよりも金を求め、金に心が奪われていた。  罪がやめられなかった。自分の罪に負けている。支配され続けていた。  → 人は自分の力だけでは罪に勝てない、実に弱い存在。    これは、イスカリオテのユダに限ったことではなく、すべての人に当てはまる。    罪の力は、人に神の律法を行なわせないようにしてしまう。    どんな人も律法を行おうとしても、罪の力によってできなくなっている(1コリ15:56)    逆にしてはいけないと言われるほど、それを行ってしまう。    律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。    たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、    わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。    ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりを    わたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。(ロマ7:7-8)    すべきことができず、してはいけないことをやってしまう愚かな存在。(ロマ7:)  → 「自分は罪に負けてしまう存在である」ということを、知らねばならなかった。    罪の力の大きさを、認識しなければならなかった。    罪の誘惑に負けてしまい、罪に支配され続けてしまっていた。
 2.3 犯してしまった罪を自分自身で何とかしようとした
 ユダは「イエスの赦し」でなく、自力で罪の償いをしようとしてしまった。  祭司長たちに金を返しにいったが、何の解決にもならなかった。  結局、自分で何とかしなければならないと思って、自責の念にかられた。  → 死んでお詫びを → 自殺  自殺したところで、罪が消えるわけでも何でもなく  自分を永遠の滅びへと、投げ入れる結果になっただけだった。  本来は、イエス・キリストの元に持っていくべきだった。  罪は自分ではどうすることもできないものなのである。  だからイエス・キリストが、十字架で血を流して死んでくださった。  私たちは、自分の罪をキリストの元に持っていくべきなのである。
3.キリストはユダのように弱い私たちに勝利を与えて下さった
 3.1 どうすることもできない罪に対して、イエスは勝利を与えてくれた
 キリストが十字架で血潮を流し死なれ、私の罪を解決してくださった  私たちの罪が赦される道を、開いてくださった。信仰によって罪が赦され救われる!  → 罪は死へと続いていたが、その滅びへと続く道から抜け出させてくださった  罪と死の法則から、完全に解放し命の法則へ導かれた (ロマ8:1,2)
 3.2 死に対して何の力もない私たちに、死に対する勝利を下さった
 死は自分自身の力ではどうしようもできない、最大の事案。  罪を持っている以上、必ず死ななければならない。  ただ地上で肉体的に死ぬだけでなく、その後永遠の滅びに投げ込まれることになる  これを第二の死というが、第二の死に勝利する道が開かれた。  死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(黙示20:14)  勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。(黙示2:11)  第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。  この者たちに対して、第二の死は何の力もない。(黙示20:6)  自分の力では死をどうすることもできなかったが、罪が十字架で解決したので死も解決した。  地上人生の終焉である死は、避けることはできないが、  第二の死である永遠の滅びは、避けられるようになった。  アダムの罪によって入り込んだ死は、キリストが解決してくださった。  私が何もせずともただ一方的に恵みとして与えられた。
 3.3 イエスの御名によって、一切の悪魔の誘惑に勝利することができる
 アダムとエバは悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまったが  私たちはイエスの十字架の血潮によって、罪の赦しを受けた  アダムとエバの罪によって死が入り込んだが、  キリストによって死が解決し、永遠の命が与えられるようになった  アダムとエバは悪魔にそそのかされ、誘惑に負けてしまったが  キリストの御名によって私たちは、悪魔に勝利することができるようになった
むすび.私たちはイエスによって勝利が与えられている
 弱い私たちが、イエス・キリストによって、罪に勝利し、  死に勝利し、悪魔に勝利している。勝利が与えられている!  勝利者として、キリストと共に勝利の人生を歩もう。