1.イスカリオテのユダは敗北の人生を送った反面教師私たちは勝利の人生を歩むべく生きている。生かされている。 敗北の人生を送った多くの人がいるが、彼らの敗北から学ぼう! ユダの敗北の姿から、私たちは何をしてはならないのかを学ぶことができる。 ▼ Q.イスカリオテのユダの人生は、どのように敗北していただろうか?1.1 ユダはイエスに12弟子のひとりとして選ばれていたイスカリオテのユダは、初めから裏切者ではなく「大きなめぐみと祝福の中にいた」人物。 イエスから12人の弟子に選ばれるという、素晴らしい恵みを受けていた。 しかも財布を預かるという、責任ある立場だった 会計担当役員のように。 12弟子全員が主に派遣された時は、イスカリオテのユダも癒しや悪霊追い出しをしたはず。 イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。 汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。(マタ10:1) 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。 その際、汚れた霊に対する権能を授け、...(マル6:7〜) イスカリオテのユダは非常に恵まれた環境にいた。イエスの話を間近で聞き、 イエスのなさるいやしや、死人を生き返らせるような奇蹟を、目の当たりに体験していた。 さらに自分自身も、イエスと同じような癒しや悪霊追い出しの奇蹟を行っていた。 恵まれた環境で、主のそばにいても、最後に裏切って終わることもあるということ。 環境が大切なのではなく、どんな境遇にあったとしても本人の意志と決断が重要。 「イエスに、最後まで従います」という意志と決断が、とても大切。1.2 ユダは、罪から離れる決断ができなかったイスカリオテのユダには、「大きな罪がからみついたまま」だった。 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。 彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。 (ヨハ12:4-6) ユダは恵まれた環境の中で、お金をごまかし続けていた(不正経理) → 罪を悔い改めないままでいた。サタンに隙を与えていた。 ユダは金銭の誘惑に勝てなかった。 より多くの金を求めた。彼は金の誘惑に勝てなかった。 最終的に、イエスでなく「銀貨30枚を手に入れること」の方を選んでしまった。 「イエスより金を選んだ」 → その結果イエスは十字架にかけられてしまった!1.3 ユダはことの重大さに気付かずに後悔に捕らわれたイスカリオテのユダは、「あまりにも軽率」だった。 まさか、イエスが十字架につけられようとは夢にも思わずにいた。 そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、 銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、 「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。 しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。 そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。(マタ27:3-5) 「しまった!どうしよう?あんなことしなければ良かった」と後悔しても、後の祭りだった。 → 結局自責の念に駆られて、自分で責任をとろうとして首をつって死んでしまった。 イエスを売るという彼の行動は、「浅はか」「軽率」としか言いようのない行動だった。 祭司長や長老たちは、イエスを殺そうとしていた。 そんな人々にイエスを売ったらどうなるかということぐらい 容易に想像できなかったのだろうか? それともファリサイ派の人々や律法学者たちを、厳しく戒めていたイエスなら そんな殺そうとする人々など、何の問題もなく蹴散らしてしまうだろうとでも 思っていたのだろうか? 「イエスが負けるはずなどない」と思っていたのだろうか?1.まとめ イスカリオテのユダのような、敗北の人生を歩んではならない私たちは大きな祝福の中でイエスと共に歩き、様々な奇蹟を体験し、 多くの教えを聞いていたとしても、それで安心することはできない。罪に警戒すること。 絡みつく罪を、かなぐり捨てていかなければならない。 誘惑に勝ち、罪から離れる必要がある。 「祈らない」「神に聴かない」という軽率さからも、脱却しなければならない。 「祈って神に聴く生き方」を、続けてゆくべきなのである。2.イスカリオテのユダの敗北の原因は何だったのか?2.1 ユダは自分の罪の大きさがわかっていなかった「イエスを裏切る」という罪の大きさが、まるで見えていなかった 裏切る行為をしてしまった後で気が付いたが、遅かった。 捕らえられたイエスは、どんどん十字架刑へと進んで行ってしまった。 ユダには、自分自身の罪を過小評価していた面が見える。これぐらい大丈夫だろう... → 罪の大きさを、正しく認識することが重要だった 罪の結果の怖ろしさを、正しく認識することも重要だった2.2 ユダは自分の罪に負け罪に支配されていたイスカリオテのユダは、自分の罪に負けていた、罪に支配されて勝てなかった。 「会計をごまかす」という罪から、離れられなかった。 イエスよりも金を求め、金に心が奪われていた。 罪がやめられなかった。自分の罪に負けている。支配され続けていた。 → 人は自分の力だけでは罪に勝てない、実に弱い存在。 これは、イスカリオテのユダに限ったことではなく、すべての人に当てはまる。 罪の力は、人に神の律法を行なわせないようにしてしまう。 どんな人も律法を行おうとしても、罪の力によってできなくなっている(1コリ15:56) 逆にしてはいけないと言われるほど、それを行ってしまう。 律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。 たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、 わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。 ところが、罪は掟によって機会を得、あらゆる種類のむさぼりを わたしの内に起こしました。律法がなければ罪は死んでいるのです。(ロマ7:7-8) すべきことができず、してはいけないことをやってしまう愚かな存在。(ロマ7:) → 「自分は罪に負けてしまう存在である」ということを、知らねばならなかった。 罪の力の大きさを、認識しなければならなかった。 罪の誘惑に負けてしまい、罪に支配され続けてしまっていた。2.3 犯してしまった罪を自分自身で何とかしようとしたユダは「イエスの赦し」でなく、自力で罪の償いをしようとしてしまった。 祭司長たちに金を返しにいったが、何の解決にもならなかった。 結局、自分で何とかしなければならないと思って、自責の念にかられた。 → 死んでお詫びを → 自殺 自殺したところで、罪が消えるわけでも何でもなく 自分を永遠の滅びへと、投げ入れる結果になっただけだった。 本来は、イエス・キリストの元に持っていくべきだった。 罪は自分ではどうすることもできないものなのである。 だからイエス・キリストが、十字架で血を流して死んでくださった。 私たちは、自分の罪をキリストの元に持っていくべきなのである。3.キリストはユダのように弱い私たちに勝利を与えて下さった3.1 どうすることもできない罪に対して、イエスは勝利を与えてくれたキリストが十字架で血潮を流し死なれ、私の罪を解決してくださった 私たちの罪が赦される道を、開いてくださった。信仰によって罪が赦され救われる! → 罪は死へと続いていたが、その滅びへと続く道から抜け出させてくださった 罪と死の法則から、完全に解放し命の法則へ導かれた (ロマ8:1,2)3.2 死に対して何の力もない私たちに、死に対する勝利を下さった死は自分自身の力ではどうしようもできない、最大の事案。 罪を持っている以上、必ず死ななければならない。 ただ地上で肉体的に死ぬだけでなく、その後永遠の滅びに投げ込まれることになる これを第二の死というが、第二の死に勝利する道が開かれた。 死も陰府も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。(黙示20:14) 勝利を得る者は、決して第二の死から害を受けることはない。(黙示2:11) 第一の復活にあずかる者は、幸いな者、聖なる者である。 この者たちに対して、第二の死は何の力もない。(黙示20:6) 自分の力では死をどうすることもできなかったが、罪が十字架で解決したので死も解決した。 地上人生の終焉である死は、避けることはできないが、 第二の死である永遠の滅びは、避けられるようになった。 アダムの罪によって入り込んだ死は、キリストが解決してくださった。 私が何もせずともただ一方的に恵みとして与えられた。3.3 イエスの御名によって、一切の悪魔の誘惑に勝利することができるアダムとエバは悪魔の誘惑に負けて罪を犯してしまったが 私たちはイエスの十字架の血潮によって、罪の赦しを受けた アダムとエバの罪によって死が入り込んだが、 キリストによって死が解決し、永遠の命が与えられるようになった アダムとエバは悪魔にそそのかされ、誘惑に負けてしまったが キリストの御名によって私たちは、悪魔に勝利することができるようになったむすび.私たちはイエスによって勝利が与えられている弱い私たちが、イエス・キリストによって、罪に勝利し、 死に勝利し、悪魔に勝利している。勝利が与えられている! 勝利者として、キリストと共に勝利の人生を歩もう。