2020年12月27日  「互いに愛し合う」
          ヨハネによる福音書 13章34〜35節
1.キリストは隣人をどう愛すべきか模範を示した

@家族の様な親密さで他人行儀なところがない
 ・遠慮しない ・気を使わない ・臆さず堂々と
 ・本気で相手に対し真に重要で必要なことを語る

 家族は、遠慮しないし気を使わない。臆さず語り合う。
 家族は、本気で相手を心配し、相手に対し真に重要で必要なことを語る
 イエスと人々の関係は、親子の様な兄弟の様なまるで家族の様な交わり

 例)サマリアのシカルという町のヤコブの井戸に来た女性
  初対面でいきなり、イエスは遠慮なく水を求めている
  一番触れられたくない夫のことをあからさまに問うている
  一番大切な永遠の命について核心を突く説明
  家族のように親密に親が子を諭すように語る姿 まったく気を使ってない

  もし気を使って、「夫のことを聞くのはデリカシーがないかな?」
  「一番気にしている事にふれたら、いけないかな?」などと言っていたら
  この人は真理に辿り着いていなかっただろう。
  デリカシーも遠慮も気遣いも、救われるためには必要なかった

 例)パンがなかった時のフィリポ
  「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」
  フィリポを試みるためで、御自分ではパンを増やそうとしていた。
  ちょうどまるで父親が子供に、
  「こんな時はどうしたらいいと思う?」と聞いているよう

  父親が答えを知りつつ、子供に問いかけているような
  そんな温かさを感じる言葉

A自分に死んでいる (嫌われようが反対されようが...)
 ・人に好かれたい、人から評価されたい、人に認められたいという思いがない
 ・顔色を伺わない ・相手に調子を合わせない
 ・反発されようが嫌われようが構わない ・自分に死ぬ

 例)ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して
  「偽善者たちよ、イザヤの預言『この民は口先ではわたしを敬うが、
   その心はわたしから遠く離れている。』の通りだ」
  彼らはつまづいてしまった。反感を持たれるようになった。
  しかしイエスは「彼らは盲人の道案内をする盲人だ」と断言

 例)ボアネルゲスと呼ばれたヤコブとヨハネ
  イエスを歓迎しなかったサマリア人に対してボアネルゲスたちが
  「天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った時
  「そうだよね〜、その気持ちは良くわかるよ、でもね」などと言っていない
  イエスは即座に振り向いて二人を戒められている 悪に対しては完全に拒絶

Bいざという時には相手のために本当に死んでいる
 自分が認められなくても、悪霊の頭と言われようとも意に介さない、そんな
 自分に死ぬ姿だったが、最後には人を生かすために十字架で本当に死んだ
 人々のために、嘲られ、屈辱と痛みを受け続けられたが
 最後には人を生かすために十字架で本当に死なれた。口先だけでなく命を捨てる愛

 人に対して厳しかっただけでなく
 自分に対しても、極めて厳しい姿をそこに見る。
 人のために命を捨てて、完全に死ぬ姿が十字架の死

◎イエスの示された愛は厳しさを伴っていた
 「少しぐらい悪くたっていいよ」という妥協を含んだ全面的な受容ではなく
 核心をつく厳しい言葉で罪を指摘し、少しの妥協もせずに悔い改めを迫っていた
 永遠の命を持たなければ何にもならない、表面的な仲良しではなく真剣な愛

 そのためには厳しい言葉を語り、厳しく対応されていた
 親密にそして厳しく真剣に救われることを願っている姿をみる
 優しく微笑み合うだけが、真実の愛なのではないことがわかる

2.隣人愛を妨げる怒りの感情に正しく対処する

 もしも私たちが、遠慮なく、気を遣わずに、堂々と語ったらどうなるだろう?
 イエスの様には、いかない。なぜなら罪人ゆえ、言葉に罪が混じってしまうから。
 核心をつく言葉の中に、自己中心的な言葉や悪い言葉が混ぜ込まれてしまう

 その結果、けんかになったり、相手に怒りを持つようになったりしてしまう
 隣人愛の妨害をするもの、それは罪であり、罪から来る「怒りの感情」である
 これを、正しく処置する必要がある
 そこが罪のなかったイエスと、我々の決定的に違う点

@怒りの感情は捨て去るべきものと認識する
 怒りの原因=自分に死んでない=十字架を負っていない、自分の十字架で死んでいない
  自分に死んでいるなら、どんなに悪い処遇でも意に介さない
  死体に何を言っても無反応なように、自分に死んだ人は何を言われても意に介さない
  自分が生きていると、「なんだと!」という怒りがこみあげる

 怒りの本質=心の中での殺人行為
  カインは怒った (創4:5) → 怒ったカインはアベルを野で殺した
  実際に殺す前に、怒りを覚えた時点で、カインはアベルを心の中で殺していた
  心の中の殺意が、殺人となって表れた。→ 怒りの本質は、心の中での殺人。
  兄弟に腹を立てる者はだれでも、人を殺した者と同じように裁きを受ける。

  カインは怒りを捨て、アベルへの殺意を消し去らなければならなかった
  「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
  カインはそれができなかった。アベルを愛するのではなく、殺してしまった。

 怒りの行動=報復行動に続いている
  怒るから復讐に走る 復讐はしばしば殺人に至る
  例)怒ったアブサロムは復讐心に燃えて、アムノンを殺した
  復讐は神だけがすること、人はしてはいけない=人が行う復讐は罪

A怒りの感情は神に祈ってぶつける 
 怒るなと言われても、無理。どこかで怒りが生じてしまう
 けれども、神が私の怒りの感情を変えて下さる
 神に怒りをぶつけて祈る時、自分に死ぬことができるように変化する。

 例)怒ったヨブ
  ヨブは神に対して、怒りをぶつけている(ヨブ30:20) 義人と言われたヨブでさえ怒った
  ヨブは神の言葉によって、怒りから解放されてへりくだった(ヨブ40:4)
  ヨブは自分に死んだ  (42:6 自分を退けます=自分を拒否します,自分を軽蔑します)

 その日のうちに、神に怒りをぶつけて祈って、心を変えて頂き
 翌日まで怒りを持ち越さない事が必要
 人に怒りをぶつけてしまって、罪を犯さないように。

B感情的に怒りをぶつけられたときも怒りで返さない
 怒鳴られている時、「怒鳴られている私は最低最悪な人間だ」と自己卑下しない
 怒鳴っている人こそ、本来してはならないことをしていると認識すべき
 怒鳴っている人は、口から汚い物を出している。嘔吐と同じ。

 怒鳴られているあなたが最低なのでなく、怒鳴っている本人の問題
 あなたの具合が悪くて、彼が嘔吐しているのではなく、
 彼の体調がすぐれないから、彼が嘔吐している。あなたの体調に原因はない。

 嘔吐している人に向かって、あなたも嘔吐仕返す必要はない
 逆に嘔吐している人の具合が良くなるように、介助する
 その人の嘔吐物に耐えられなければ、遠ざかれば良い 距離を置く

 もちろん怒鳴る原因を作った事に対して、自分も反省して直すことはするが
 怒鳴られたからといって、自分は最低な人間だと考える必要はない
 神の愛は、誰に怒鳴られようとも変わることはない

 例)キリストの十字架は人々の怒りの結果
  「十字架につけよ」という怒号が鳴り響いていた
  怒鳴られているキリストが悪かったのではなく
  怒鳴っていた群衆こそ誤解して、キリストを罪人にしてしまっていた
  しかしキリストは「父よ彼らをおゆるし下さい」と祈られた

3.キリストが愛したように互いに愛し合う

@人を愛するということは自分に死ぬこと→決して人に対して怒らない
 キリストの十字架の愛は怒らずに自分に死ぬ愛
  地に落ちる一粒の麦になれ。一粒の麦は地に落ちて死ななければ実らない
  自分の十字架を負え。十字架は死刑の道具。自分に死ぬためのもの。
  自我(好かれたい,評価されたい,認められたい)に死ぬ

   世に流されない 世は地位や名誉を求める人々であふれている
   いかに多くの人々に好かれるか、いかに多くの人々に評価されるか
   それを求めている。そういう「人よりも自分を生かす世の生き方」に流されない。

A人を愛するということは相手を真に生かすこと
 十字架の愛は、相手を真に生かす愛だった
  自分のためでなく、相手のため
  自分の喜びのためでなく、相手の喜びのため
  自分の幸せのためでなく、相手の幸せのため

 その場しのぎではなく、永遠に相手を良くして生かす
  一時的な助けではなく、永遠に続く助けを与える
  空腹を満たすだけでなく、永遠の命に至るパンであるキリストを与える

 その人の、真の必要を満たすことを語り行う

B真実な愛には尊い犠牲が伴う
 受けるよりも与える方が幸い。愛は犠牲の上にある
 犠牲を伴うものを、力の限り思い切って隣人に与える
 逆に、相手の犠牲の伴った愛もそのまま受け取る

むすび.キリストの愛を模範にして互いに愛し合おう
 キリストが愛して下さったように、互いに愛し合う
 キリストの愛は自分に死んで、人を生かす愛
 私たちも自分に死んで、相手を生かす

 いかに自分の欲望や、罪に打ち勝つかが問われている
 何もしなければ、湧き上がる怒りには勝てない
 怒りは愛の逆をゆくもの。愛を妨げてしまう。

 祈りの中で力を頂いて勝利しよう。怒りから解放されよう。
 そして、怒りを捨て隣人を自分自身のように愛して
 互いに愛し合う関係を築き上げよう!