2020年11月8日  「イエスのためにこの子供を受け入れる」〜愛は小さな者を受け入れる〜
          ルカによる福音書 9章46〜48節
1.イエスに従おうとするならその子供を受け入れるべき

@イエスの元に来た子供は受け入れるべき子供
 イエスの元に子供が来るのを妨げない(マル10:14)
 イエスの元に来た子=受け入れるべき(ルカ9:46-48)

Aその子を受け入れるのはイエスを受け入れること(48)
 その子を受け入れる=イエスを受け入れる=神を受け入れる
 その子を受け入れない=イエスを拒む=神を拒む=罪・不信仰

B最も小さい者のひとりにしたのはイエスにしたこと
 最も小さい者の一人にした=イエスにした(マタ25:40)
 最も小さい者にしなかった事=イエスにしなかった事
 最も小さい者を拒否=イエスを拒否→永遠の罰 (46)

イエスに従う=イエスの御心を行う=隣人を自分自身のように愛する

隣人を愛さないことは罪→隣人を受け入れないことは罪
子供もれっきとしたひとりの隣人
子供を愛さないことは罪→子供を受け入れないことは罪

2.礼拝から子供を追い出さず一緒に礼拝する

@教会は神の家族だから当然子供も一緒の家族
 家族は新生児も乳幼児ももちろん小学生も一緒
 礼拝は家族が一緒にそろって神をあがめるとき
 成人だけの礼拝ではなく全世代の礼拝

 教会の礼拝は「大人たちだけの礼拝」にあらず
 教会の礼拝は神の家族全員の礼拝
 家族は共に集う。子供だけ「あっちにいってなさい」ではない

A子供を決して邪魔者扱いしないで一緒に礼拝する
 赤ちゃんは礼拝中に泣く→弟子たちは、だから叱った
  うるさい→他の人が話を聞けない→迷惑→連れて来るな!

 イエスはその弟子達に対して憤られた:
  憤る「アガナクテオウ」=怒り,立腹,憤慨
 泣いてもいい!赤ちゃんや母親も大事な礼拝者

B子供の騒々しさを我慢する愛の忍耐こそ必要不可欠
 愛は忍耐と学んできた。愛は口先ではなく実行すること
 騒々しい子供たちが礼拝を妨害しているのではなく
 私達の不寛容が礼拝を妨害している→忍耐の訓練

3.子供たちは次代を担う大切な教会の一員

@初代教会は家々に集まって礼拝していた
 パウロは迫害者だった時家々に押し入っていた
 家々にということは、そこが教会だったから=会堂なし
 当然小さい子供たちもいたはず。追い出さなかった

Aなぜ初代教会で信仰が続いて行ったのか?
 世代によって信仰が途切れていなかったから
 子供たちも大人たちの信仰を間近に見ていた
 信仰が次世代に継承されていった→信仰の継承

B子供たちには将来がある
 今の乳幼児は20年後力ある青年になっている
 次代を担うのは今の子供たち→信仰継承が必要不可欠
 将来立派な信仰者に育つか否かは、小さな子供の時にかかっている

むすび.イエスを愛するなら小さな子供を受け入れる
 子供が来るのを叱った弟子たちをイエスは憤られた
 隣人を愛して受け入れるが、子供をこそ愛して受け入れよう!