1.弟子たちは子供たちを連れて来た人々を叱った @どんな状況だったのか? 人々が子供たちをイエスの元に連れて来た。 その目的は子供たちがイエスに触れていただくため →親たちは子供たちが祝福を受けて欲しいと願っていた Aなぜ弟子たちは人々を叱ったのか? イエスの話は大人向け。子どもたちは対象外。 抱き上げられる程の小さな子どもたちには理解不能 更に子供たちの泣き声や騒ぎ声は邪魔になる →子供を遠ざけることが、イエスと聴衆のためだと思った B一般的な子供への観点 まだまだ未熟。難しいことが理解できない。 自立もしていない。大人の世界には入れない。 大人にとって大切な話の最中には邪魔になってしまう →子供は一人前ではなく軽視される存在 2.イエスはこれを見て憤られた @子供たちをわたしのところに来させなさい 弟子たちにとって、想定外の衝撃的なイエスの反応 イエスのためと思ってしたことが、逆だった!? 子供は邪魔でなく、逆に積極的に連れて来させる存在? →なぜ??? A「妨げてはならない」と憤られるほどの叱責! 子供たちが、イエスの元に来るのを妨げてはならない 子供を邪魔者扱いする思いを捨てる。重要視する →そんなに子供が重要? B神の国はこのような者たちのものである 子供は疑わないで純粋に信じる信仰の模範 純粋に信じる者たちこそが神の国に入る →子供たちは、大人にはない純粋さを持っている 言われたことを「そのまま信じ切ってしまう」素直さがそこにある 3.子供のように神の国を受け入れる @子供のように神の国を受け入れる人でなければ天国に入れない 子供のように神の国を受け入れる=純粋にまったく疑わないで信じる 例:婚約者の誠実さを疑った行動は結婚に至らない 婚約中に婚約者の約束を疑ってはならない。 婚約者を疑ってしまい、念のため「他の人とも婚約」してしまうと はじめの婚約を破棄したのと同じになってしまう 教会とイエス・キリストの関係は、花嫁と花婿の関係 最終的に小羊の婚宴の時がやってくる(黙示19:6-8) 今は婚約期間中のようなもの イエス以外の婚約者を作るなら、神の国に入れない 「決して」そこに入ることはできない=厳しい断言 「イエスも他の神々も両方信じる」ということはあり得ない イエスだけに信頼を置くと言いつつ、 実際はお金に信頼を置いていたら、自己矛盾 それは真実にイエスを信頼していることにならない 神と富とに兼ね仕えることはできない(マタ6:24) A疑いこそ信仰の最大の妨げ 弟子たちは「子供」を邪魔者にしてしまったが 「子供」でなく「疑い」こそが、信仰にとって最大の邪魔物 大人になると知識や理解が増える分、疑いも増える 疑うことを知らない子供たちの姿勢こそ見習うべき模範 B自分自身の中に疑いがないだろうか 信じると口で言いながら疑っているなら、神の国に入れない。 イエス・キリストだけが救い主。霊的な婚約者。 神の思いと逆なものが心の中にないか吟味しよう →私の信仰は純粋な信仰だろうか? イエスだけに信頼すると思いつつも イエスよりもお金に信頼を置いてはいないだろうか? むすび.子供たちをイエスのところに来させなさい 子供たちの純粋な信仰にならう者となろう! 子供たちは純粋に信じる模範を私たちに示してくれる また純粋に信じることができる幼いときにこそ、 子供たちをイエスの元に連れて行こう!