2020年11月1日  「神の国はこのような者たちのもの」〜愛は子供のように純粋に信頼する〜
          マルコによる福音書 10章13〜15節
1.弟子たちは子供たちを連れて来た人々を叱った

@どんな状況だったのか?
 人々が子供たちをイエスの元に連れて来た。
 その目的は子供たちがイエスに触れていただくため
 →親たちは子供たちが祝福を受けて欲しいと願っていた

Aなぜ弟子たちは人々を叱ったのか?
 イエスの話は大人向け。子どもたちは対象外。
 抱き上げられる程の小さな子どもたちには理解不能
 更に子供たちの泣き声や騒ぎ声は邪魔になる
 →子供を遠ざけることが、イエスと聴衆のためだと思った

B一般的な子供への観点
 まだまだ未熟。難しいことが理解できない。
 自立もしていない。大人の世界には入れない。
 大人にとって大切な話の最中には邪魔になってしまう
 →子供は一人前ではなく軽視される存在

2.イエスはこれを見て憤られた

@子供たちをわたしのところに来させなさい
 弟子たちにとって、想定外の衝撃的なイエスの反応
 イエスのためと思ってしたことが、逆だった!?
 子供は邪魔でなく、逆に積極的に連れて来させる存在?
 →なぜ???

A「妨げてはならない」と憤られるほどの叱責!
 子供たちが、イエスの元に来るのを妨げてはならない
 子供を邪魔者扱いする思いを捨てる。重要視する
 →そんなに子供が重要?

B神の国はこのような者たちのものである
 子供は疑わないで純粋に信じる信仰の模範
 純粋に信じる者たちこそが神の国に入る
 →子供たちは、大人にはない純粋さを持っている
  言われたことを「そのまま信じ切ってしまう」素直さがそこにある

3.子供のように神の国を受け入れる

@子供のように神の国を受け入れる人でなければ天国に入れない
 子供のように神の国を受け入れる=純粋にまったく疑わないで信じる
 
 例:婚約者の誠実さを疑った行動は結婚に至らない
   婚約中に婚約者の約束を疑ってはならない。
   婚約者を疑ってしまい、念のため「他の人とも婚約」してしまうと
   はじめの婚約を破棄したのと同じになってしまう

 教会とイエス・キリストの関係は、花嫁と花婿の関係
 最終的に小羊の婚宴の時がやってくる(黙示19:6-8)
 今は婚約期間中のようなもの

 イエス以外の婚約者を作るなら、神の国に入れない
 「決して」そこに入ることはできない=厳しい断言
 「イエスも他の神々も両方信じる」ということはあり得ない

 イエスだけに信頼を置くと言いつつ、
 実際はお金に信頼を置いていたら、自己矛盾
 それは真実にイエスを信頼していることにならない
 神と富とに兼ね仕えることはできない(マタ6:24)

A疑いこそ信仰の最大の妨げ
 弟子たちは「子供」を邪魔者にしてしまったが
 「子供」でなく「疑い」こそが、信仰にとって最大の邪魔物
 大人になると知識や理解が増える分、疑いも増える

 疑うことを知らない子供たちの姿勢こそ見習うべき模範

B自分自身の中に疑いがないだろうか
 信じると口で言いながら疑っているなら、神の国に入れない。
 イエス・キリストだけが救い主。霊的な婚約者。
 神の思いと逆なものが心の中にないか吟味しよう

 →私の信仰は純粋な信仰だろうか?
  イエスだけに信頼すると思いつつも
  イエスよりもお金に信頼を置いてはいないだろうか?

むすび.子供たちをイエスのところに来させなさい
 子供たちの純粋な信仰にならう者となろう!

 子供たちは純粋に信じる模範を私たちに示してくれる
 また純粋に信じることができる幼いときにこそ、
 子供たちをイエスの元に連れて行こう!