1.神と完全に愛し合う時そこに恐れは存在し得ない @本来完全な愛には恐れがないはず 完全な愛には恐れがなく、恐れを締め出す。 神を愛する時「神を怖がる恐れ」が、そこにあるのは不完全な愛 Aなぜ神を恐れ、怖がってしまうのか? a) シナイ山で民は神を恐れている シナイ山において、イスラエルの民は神の臨在に恐れおののいていた。 ------------------------------------------------------------------------ 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、 山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。 「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。 神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。 そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」(出エ20:18-19) ------------------------------------------------------------------------ 神の臨在の前に出たら、自分たちは死んでしまうという極度の恐れが見られる。 b) 大漁の時のペトロはイエスを恐れた ペトロは、大漁だった時に、イエスに私から離れて下さいと願っている。 それは自分が罪深い存在だと認識していたからだった。 ------------------------------------------------------------------------ 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言った。 とれた魚にシモンも一緒にいた者も皆驚いたからである。(ルカ5:1-9) ------------------------------------------------------------------------ c) 人は皆、神のみ前に出て裁かれる死後の裁きを恐れている 人間は、潜在的に自分の罪に対する、神の正しい裁きを恐れている 神の義の前には、罪人である自分は立ち得ない ------------------------------------------------------------------------ また、人間にはただ一度死ぬことと、 その後に裁きを受けることが定まっているように、(ヘブ9:27) ------------------------------------------------------------------------ 神による罪の赦しを、信じ切れていないと恐れてしまう また、神の前に悔い改めていない罪がある場合も同様 何か隠している罪を持っていて、悔い改めていないのでは? 悔い改めていない罪があれば、神の裁きを思って恐れてしまう Bキリストの血によって完全に赦されたことを信じる イエスが十字架で身代わりとなって裁きを受けられた その結果、私たちはまったく刑罰を受けなくてよくなった その完全な赦しを、そのまま受け入れる信仰が必要 Cイエスによってゆるされたのだから、罪を完全に捨て去る 自分の内にあるすべての罪を悔い改め、隠さない事 人をゆるせない思いから、確実に離れること 自業自得の結果のいらだちを、人のせいにし続けない事 人をゆるせない私を、いらだつ私を、神は愛して赦しておられる 即、悪しき思いを捨て去って、神の愛に立ち返る決断が必要 プライドを脱ぎ捨てること。それこそが今あなたが乗り越えるべき壁。 D離れがたい罪に気づいているならそれを捨てるチャンスと認識する それでもなお、私を愛してゆるして下さっている イエス・キリストの十字架の血による、ゆるしの超越的大きさを 私が信じ受け入れるチャンスが、今来ていると認識する。 離れがたい罪が、自分の中にあるという認識は、 限界を超えるチャンスに他ならない。 大丈夫、あなたにもできる。そこからイエスの名によって離れ去ること。 E罪の激流に流されていたとしてもキリストの血潮はすべて清める いつまでも人を傷つけ続けていて、良いわけがない。 神に裁かれる前に、罪から離れよう! 自業自得の刈り入れをしていても、それはまた益に変えられる。 イエスの血は、罪の流れに飲み込まれたあなたの心を 完全に、リセットしてクリアしてくれる。 初期化してやり直せるのだ。 Fキリストの赦しを100%受け取ると、恐れのない愛で神を愛せるようになる そこから恐れのない、真の愛の人生を取り戻すことができる。 恐れなく神に近づける人生、神に愛され神を愛する人生が 私の身に実現する。どんな人をも愛する隣人愛の人生が実現してゆく。 2.完全な神への愛に恐れがないのと同様、完全な隣人愛にも恐れがない @隣人との間の愛においても恐れがあるのは不完全な愛だから 互いに裁き合う時、「またあの人に裁かれる」という恐れが生じてしまう 相手をゆるさないから相手が恐れてしまう→相手に恐れを及ぼす結果になる 相手からゆるされないから自分が恐れてしまう→自分が恐れる結果になる 人間関係に、恐れが残存する結果になってしまう。 愛していると言いつつ、そのような状態であるならば 不完全な愛となってしまい、本来的な愛し合う関係でない A神にお互いが完全に赦されていることを思う 相手の罪を見ないで、その罪をゆるされている神を見あげる 神が100%ゆるしているのだから、私もその人を当然100%ゆるす 相手を100%ゆるしている者同士の愛は、恐れが存在し得ない 互いに100%ゆるす愛で愛し合う時、恐れはなくなる 相手が罪を犯すことは、いつも想定の範囲内で当然という認識 相手が罪をまったく犯さないという期待は、聖書に反する (ロマ3:23) 相手にいつも完璧を求めることはできない。パウロでさえそうだった(使徒7) いつもあなたをゆるします、という心の準備が必要。 特に自分とあまりかかわりの深くない人、店員、サポートセンターなどへの言動 自分が購入者だから、自分がお客様だからといって、偉いわけでも何でもない。 受け取った商品やサービスに対して、その対価を払っているだけ。 横柄な態度が横行しているが、ゆるし受け入れ感謝する態度こそが求められている B自分を裁く相手を恐れずゆるしてくれる神を見上げる まだ神のゆるしを知らない人は、私たちをどんどん裁いてくる 私たちは完全・完璧を求められ、それができないと非難と批判が飛んでくる その時、まず神が私をゆるして下さっていることを確信する 更に、私を裁く相手も神がゆるされている人物であることを思い その人を愛する。決して恨んだり、憎しみを覚えたり、怒ってはならない。 イエス・キリストの十字架の血潮による赦しは、すべての人のすべての罪に及ぶ。 3.人を恐れることは、その人を愛していないことになる @完全な愛に恐れがない→恐れる事は不完全な愛 私は今、誰かを恐れていないだろうか? それでは、その人への愛が不完全になってしまう! 人から非難され批判されることは、恐れることでも何でもない 逆に愛のチャレンジを受けている→その人を愛そう 愛の限界の壁を、どんどん超えていこう。 A忘れるな私たちは神の子とされるほど愛されている この霊によって「アッバ、父よ」と呼ぶのです(ロマ8:15) アッバ=おとうちゃん!乳幼児と親の親しい関係 特に乳児はお父さんやお母さんを怖がらず、満面の笑み 両親は乳幼児に、満面の笑みで信頼してくれることを願う 「ミルクを頂きたいのですが、お忙しいところ申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。」 「おしめを変えて頂きたいのですが、お疲れの所申し訳ありません。」 などとは言ってほしくないはず。他人行儀でよそよそしいのは、真の親子関係ではない。 神との親しい親子関係に、私たちは入れられている。 神から、あふれるばかりの愛で愛されている。 それを、私たちも隣人に注げばいいだけ。私にもできる! B乳幼児は親を完全に信頼する=「信頼の模範」 乳幼児たちは信頼において完全。100%の信頼 素直に信じ信頼しそこに恐れがない「愛の模範」 乳幼児たちを軽んじることなく、ある面では模範がそこにあると認識する むすび.まったく恐れのない愛を目指して愛を求めよう 神に対しても、人に対しても、怖がらずに互いに愛し合う完全な愛に進もう 今日の適用 私には、愛していない人はいないか?心の中を吟味する 私には、恐れている人はいないだろうか?→恐れを捨てる 私には、ゆるしていない人がいないだろうか?→神がその人を赦している 私には、恨んでいる人がいないだろうか?→神がその人を赦している 私には、見下してしまっている人がいないだろうか?→神がその人を造られ愛している 私は誰をも、尊敬をもって接しているだろうか?→神がその人を造られ愛している