2020年8月30日  「愛は不義を喜ばない」
          コリントの信徒への手紙一 13章6節
1.イエスはファリサイ派の不義を喜ばなかった→愛

@ファリサイ派の人々は義を行っていると自認していた
 ファリサイ派と徴税人の祈りの比較 (ルカ18:11-12)
 ファリサイ派の人々の考え=自分は誰よりも正しい
 Q. 本当にファリサイ派の人々は正しかったのか?

Aだがファリサイ派の人々は実際は不義を行っていた
 ファリサイ派の不義のリストアップ (マタ23:13-39)
 彼らはこれらの自分の不義に気付いていなかった

Bイエスはファリサイ派の人々の不義を見逃さなかった
 マタイ23章の「これでもか!」というほどの鋭い指摘
 白く塗られた墓だ!内側は汚いもので一杯だ!
 それこそ、イエスの彼らに対する愛の言葉だった!!

2.悪を容認することは愛ではなくその人を憎むこと

@自分の子を懲らしめないことは子を憎むことと同じ
 鞭を控えるものは自分の子を憎む者 (箴言13:24)
 父は子を愛するからこそ罪を犯した子を懲らしめる
 父のように主は愛する者を懲らしめられる(箴言3:12)

Aイエスを異端視していたパウロは、直接戒められた
 当初パウロは自分の間違いに気付いていなかった
 イエスに語られて初めて気が付き悔い改め受洗した
 もし気付かなければそのまま滅びに直行していた所

B互いに戒め合いなさいと命じられているがそれこそ愛
 愛するなら隣人の悪を容認せずに正しく戒める
 まず2人だけで、だめなら数人で (マタ18:15-17)
 戒めを受けた時に、謙虚に聞く耳を持つことが必要

3.不義を喜ばない愛で隣人を愛するためにどうするか

@人を恐れずに「神を恐れる」=人の顔色を伺わない
 人を恐れると罠に陥る(箴29:25)一時嫌われてもいい
 サウル王は人を恐れて不義に陥った (サム上15:24)

A自分が不義に陥らないよう不義は不義として避ける
 不義を行う人々とは行動を共にしない (箴言1:10)
 不義を一緒に行うことは愛でも何でもなく罪そのもの

B勇気をもって隣人の不義を指摘し戒める
 不義を行なう人を見て「見て見ぬ振り」も愛ではない
 不義を共に行ったり見過ごしたりせず戒めることこそ愛

むすび.愛とはただ優しいだけでなく厳しさがある

 不義を喜ばないことが愛なら隣人の不義を戒める
 自分の罪を認めずイエスを信じない事が最大の不義
 最大の不義を指摘するのが、福音宣教。