1.イエスはファリサイ派の不義を喜ばなかった→愛 @ファリサイ派の人々は義を行っていると自認していた ファリサイ派と徴税人の祈りの比較 (ルカ18:11-12) ファリサイ派の人々の考え=自分は誰よりも正しい Q. 本当にファリサイ派の人々は正しかったのか? Aだがファリサイ派の人々は実際は不義を行っていた ファリサイ派の不義のリストアップ (マタ23:13-39) 彼らはこれらの自分の不義に気付いていなかった Bイエスはファリサイ派の人々の不義を見逃さなかった マタイ23章の「これでもか!」というほどの鋭い指摘 白く塗られた墓だ!内側は汚いもので一杯だ! それこそ、イエスの彼らに対する愛の言葉だった!! 2.悪を容認することは愛ではなくその人を憎むこと @自分の子を懲らしめないことは子を憎むことと同じ 鞭を控えるものは自分の子を憎む者 (箴言13:24) 父は子を愛するからこそ罪を犯した子を懲らしめる 父のように主は愛する者を懲らしめられる(箴言3:12) Aイエスを異端視していたパウロは、直接戒められた 当初パウロは自分の間違いに気付いていなかった イエスに語られて初めて気が付き悔い改め受洗した もし気付かなければそのまま滅びに直行していた所 B互いに戒め合いなさいと命じられているがそれこそ愛 愛するなら隣人の悪を容認せずに正しく戒める まず2人だけで、だめなら数人で (マタ18:15-17) 戒めを受けた時に、謙虚に聞く耳を持つことが必要 3.不義を喜ばない愛で隣人を愛するためにどうするか @人を恐れずに「神を恐れる」=人の顔色を伺わない 人を恐れると罠に陥る(箴29:25)一時嫌われてもいい サウル王は人を恐れて不義に陥った (サム上15:24) A自分が不義に陥らないよう不義は不義として避ける 不義を行う人々とは行動を共にしない (箴言1:10) 不義を一緒に行うことは愛でも何でもなく罪そのもの B勇気をもって隣人の不義を指摘し戒める 不義を行なう人を見て「見て見ぬ振り」も愛ではない 不義を共に行ったり見過ごしたりせず戒めることこそ愛 むすび.愛とはただ優しいだけでなく厳しさがある 不義を喜ばないことが愛なら隣人の不義を戒める 自分の罪を認めずイエスを信じない事が最大の不義 最大の不義を指摘するのが、福音宣教。