2020年7月19日  「愛は高ぶらない」
          コリントの信徒への手紙一 13章5節
1.「愛しなさい」とは「高ぶらないでいなさい」ということ

@神の命じられたことの逆を行えばそれは罪 (1ヨ2:4)
 神の言葉の逆を行ったら罪。十戒 (出エ20)の逆は罪
 「互いに愛し合いなさい」の逆も罪 ∴愛さない=罪

A「愛は高ぶらない」のだから「高ぶり」は罪
 高ぶらないの逆=罪 ∴高ぶる=罪 罪は滅びに至る
 偉大と自称したシモンは洗礼後も尚悪(使徒8:9-24)
 高ぶって滅びてしまったヘロデ王 (使徒12:20-23)

B隣人に対する高ぶりを捨てる事は隣人を愛する事
 隣人に対して高ぶっている=隣人に罪を犯している
 隣人に対して高ぶらずに謙遜=隣人を愛している

2.聖書には高ぶらない姿勢の模範が示されている

@模範1 弟子の足を洗われたイエスの姿(ヨハ13:4-5)
 高ぶらない=自分が隣人の汚れた足を洗う尻ぬぐい
 高ぶる=自分では何もせず「洗え」と命じて批評する
       やってもらって当然、感謝の言葉もない

A模範2 幼子たちの自分を低くする姿 (マタ18:4)
 私には力がありません。私にはできません。
 私には経験も知識もありません。「俺ならできる」の逆

B模範3 人の姿で十字架で死なれたイエス(フィ2:6-8)
 神の身分なのに人間の姿になられた
 「私は神だ私を拝め」とは言わず人と共に歩む姿
 十字架の死に至るまで神に従順に歩まれた

3.高ぶりをやめるにはどうすればよいか?

@高ぶるという言葉は「ふいご」を語源にもつ:膨らます
 高ぶりやすいのは、自分を大きく見せたいがため
 裏を返せば、ありのままの自分に自信が持てない
 そのままで神に愛されていると確信する (ヨハ1:12)

Aイエスを信じたら自動的に高ぶらなくなるのでない
 信仰を持ったら自動的に愛の人になるのではない
 愛は聖霊が結ばせる実 ∴聖霊に満たされる必要
 自分自身を聖霊に明け渡す=自分に死ぬ(ガラ2:20)

B信仰の導き手であるイエスの姿にならう(ヘブ12:2)
 信仰の創始者また完成者であるイエスを見続ける
 弟子の足を洗い十字架に至るまで従順な姿が模範
 イエスが歩まれたように自らも歩む (1ヨハ2:6)

むすび.隣人に対して決して高ぶらず逆に仕えて行こう
 言葉だけでなく行いをもって愛し合おう(1ヨハ3:11-18)