1.聖霊降臨後に使徒たちはイエスの復活を語った
1.1 ペンテコステの日に、ペトロは復活を語った (2:14-36)
最初のペンテコステの日に、祈っていた人々に聖霊が降って異言で話しだした
それを見て驚いている人々に、またあざけっている人々に、ペトロは語り始めた。
「しかし、神はこのイエスを死の苦しみから解放して、
復活させられました。
イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、
ありえなかったからです。(使徒2:24) 」
「神はこのイエスを復活させられたのです。
わたしたちは皆、そのことの証人です。(使徒2:32) 」
「それで、イエスは神の右に上げられ、
約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。
あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。(使徒2:33) 」
復活したイエスこそ、本当のメシア救い主であって
復活したイエスが私たちに聖霊を注いでくださったのだと語っている。
1.2 足の不自由な人を癒した後に、ペトロは復活を語った(3:12-26)
美しい門の所にいた人が、ペトロとヨハネによってイエスの名で癒され
神殿の境内で歩き回って、神を賛美しいていた。
それを見た人々は驚きあきれたが、その驚いている人々にペトロは語っている。
「あなたがたは、命への導き手である方を殺してしまいましたが、
神はこの方を死者の中から復活させてくださいました。
わたしたちは、このことの証人です。(使徒3:15) 」
この時もペトロは、イエスの復活を語った。
そして、復活したイエスを信じる信仰が、
この人を癒したのだと語っているのである。
「あなたがたの見て知っているこの人を、イエスの名が強くしました。
それは、その名を信じる信仰によるものです。
イエスによる信仰が、あなたがた一同の前でこの人を完全にいやしたのです。(使徒3:16) 」
1.3 議会で大祭司たちの前で、ペトロは復活を語った(4:5-12)
ペトロたちは「何の権威によってやったのか?」と尋問された
そこでペトロは、病人の癒しがなぜ起こったかということからはじめて、
イエスの復活を語った。
「あなたがたも、イスラエルの民全体も知っていただきたい。
この人が良くなって、皆さんの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけて殺し、
神が死者の中から復活させられたあのナザレの人、
イエス・キリストの名によるものです。(使徒4:10) 」
この人が癒されたのは、復活したイエスの名によるのだと
大祭司をはじめ、律法学者、議員、長老達の前で、大胆に語っている
ペトロは、『復活したイエスこそ、本当の救い主であって
ほかのだれによっても、救いは得られないのだ』と断言している。
1.4 最高法院の中で、ペトロは再び復活を語った(5:27-32)
再び牢に入れられ天使によって解放され神殿で教えた
そこから最高法院に連行され、そこで再びイエスの復活を語った
「わたしたちの先祖の神は、
あなたがたが木につけて殺したイエスを復活させられました。(使徒5:30) 」
神はイスラエルを悔い改めさせ、その罪を赦すために、
復活したイエスを導き手とし、救い主として、御自分の右に上げられたのだと
ここでも大胆に宣言している。
1.むすび ペトロは、繰り返し復活を語っている
このように、ペトロをはじめ使徒たちは、
聖霊のバプテスマを受けた後、大胆にイエス・キリストの復活を語っている
使徒言行録の2章、3章、4章、5章は、復活のメッセージのオンパレードなのである。
ペンテコステの日に聖霊に満たされた後、
使徒たちは、イエス・キリストの復活を語り続けていたのだ。
2.イエスの復活がなければ...イエスが救い主と証明できなかった
2.1 復活がなかったとしたら、弟子達は震えたままで宣教などできようもなかった
もし、イエスの復活がなかったとしたら、どうだっただろう?
弟子たちは十字架の直後、ユダヤ人を恐れていた(ヨ20:19)
戸を閉じて恐れて閉じこもっていたのだ。
そんな状態で大胆な説教など、できただろうか?
できなかったはずである。
恐れから解放されなければ大胆な宣教など無理
そもそも、イエスの復活がなかったなら
イエスの復活を語るどころか、部屋から出るのさえできなかった。
人の前に行くのさえ、おじけずいていたはず。
2.2 復活がなかったとしたら、聖霊を待つことも満たされることもなく力もなかった
復活されたイエスは、昇天前に弟子たちに次のように命じている
「そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、
父の約束されたものを待ちなさい。
ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく
聖霊による洗礼を授けられるからである。」(使徒1:4-5) 」
だから弟子たちをはじめとする信徒たちは、祈って待ったのである
もしイエスが復活しなければ、このイエスの命令を聞くこともなく
この命令に従うこともなく、聖霊を待つこともなく、
聖霊に満たされることもなく、聖霊の力を頂くこともなかったことだろう
イエスが復活しない→イエスの命令を聞かない→聖霊を待たない→聖霊に満たされないまま→弱いまま
2.3 神の子なら十字架から降りれたはずに反論できず
もしイエスの復活がなかったなら、イエスを異端者と誤解していた人たちの
誤解はとけていなかったことだろう。
「十字架から降りて自分を救ってみろ」(マル15:30)
「メシアなら自分を救え」(ルカ23:35)
イエスは自分自身を救えない。だから、イエスはメシアではない。
自分を救えない ≠ メシア
復活がなかったなら、反対者や民衆にとって
「イエスはやっぱり、ただの人だった」で終わっていたことだろう。
十字架で死んで終わりであれば、反対者に対して何の反論もできなかったはず。
3.イエスが復活されたからこそ、イエスが救い主であると証明できた
3.1 イエスの復活は弟子たちを力づけ祈りに導いた
まずイエスの復活は、震えて怖気づいていた弟子たちに勇気を与えた
そして、イエスの昇天後、聖霊を待ち望んで祈るようにさせた。
3.2 イエスの復活があったからこそ、弟子たちは聖霊に満たされ大胆にされた
復活のイエスが聖霊を待って祈るように命じたから
祈って待ち望み、聖霊に満たされ、宣教の力を付与されて宣教に進んだ
3.3 イエスの復活を語ることによって、イエスが本当の神の子であることを証明した
復活によって弟子たちは恐れを除かれて変えられ、
更に聖霊に満ちて力を頂き、「復活のイエス」を大胆に語り伝えた
復活されたからこそ間違いなく、イエスは神の子救い主だと反論できた
「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、
しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、
また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。
しかし、足をいやしていただいた人がそばに立っているのを見ては、
ひと言も言い返せなかった。(使徒4:13-14)」
イエスが復活されたからこそ、反対者は一言も言い返せなかったのだ。
「メシアなら自分を救え」(ルカ23:35)と言っていた人々も、
メシアだからこそ復活して、この人を癒したんだと認めざるを得なくなった。
むすび.イエスの十字架だけでなく復活をこそ語ろう
復活こそが、イエスが本当の救い主であることを証明するもの
復活こそ私たちの希望であり、生命線。永遠の命の確実性を示すもの。
復活されたイエスは、真の救い主として
十字架で流された血潮によって私たちに罪の赦しを与えてくださる。
復活されたイエスは、永遠に生きておられ私たちに永遠の命の希望を与えてくださる。
復活されたイエスは、今も生きておられ私たちといつも共にいて下さる。
復活されたイエスは、今も生きておられ私たちを的確に助けて下さる。
復活されたイエスは、今も生きておられ私たちに聖霊を注いでくださる。
復活されたイエスと共にあゆみつつ、復活されたイエスを伝え続けて行こう!
この方こそ、本当の救い主であって、この方による以外に救いはないのだ。
この方によるなら、すべての罪は赦され、永遠の命に生きることができるのだ!