キリストの教えを越えてはならない
教会を教会でなくしてしまうもの、それは「キリストの教えを変えてしまう教え」です。
「イエス・キリストが神なのに、人間の姿で世に来られた」ということを否定する教えは
これはキリストの教えではありません。
イエスは事実、神なのにもかかわらず人の姿で世に来られたからです。
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。
人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。
フィリピの信徒への手紙 2章6〜8節
全知全能の神であったのに、全知全能性を捨てて限界のある神の被造物の姿になられたのです。
永遠に生きているはずの神であるにもかかわらず、その永遠性を捨てて死ぬべき体を持つ
人間の姿になられたのです。事実その人間の姿で、十字架で死なれたのです。
どこまでも低くなられたお方、それが神の子イエス・キリストなのです。
ここに、真実な愛の姿を私たちは見るのです。
人を愛して人を救うために、人と同じ姿にまで低くなられたイエスこそ真の愛の方なのです。
この愛を、私たちは受け取ったのです。
この教えに、私たちはどこまでもとどまっていなければなりません。
キリストの愛を否定する教えを、受け入れてしまってはならないのです。
【今日の聖書】
だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、
神に結ばれていません。
その教えにとどまっている人にこそ、御父も御子もおられます。
ヨハネの手紙二 1章9節