愛とは、御父の掟に従って歩むこと
1.「父なる神の掟」=「愛に歩むこと」
1.1 ヨハネは互いに愛し合うようお願いしている
ヨハネの手紙二の宛先の婦人に対して、ヨハネは一つのお願いをしています。
それは「互いに愛し合う」ということでした。
さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。
わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、
つまり互いに愛し合うということです。
ヨハネの手紙二 1章5節
「愛に歩むこと」とも言い換えて、繰り返しています。
愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、
この掟とは、あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
ヨハネの手紙二 1章6節
1.2 愛とは、「父なる神の掟に従って歩むこと」
愛とは、「父なる神の掟に従って歩むこと」です。
「父なる神の掟」=「愛に歩むこと」なのです。
神が私たちに求めておられることは、これです。
互いに愛し合うことなのです。
1.3 互いに愛し合うことは神の掟であって命令
互いに愛し合うことは、神の掟であって命令です。
「できるだけ互いに愛し合いましょう」、ではありません。
「神の掟」なのですから、「どんな時もいつでも互いに愛し合え」なのです。
運転する時に「できるだけ赤信号の時は停止しましょう」ではありません。
「赤信号の時は必ず止まれ」なのです。それが、「交通法規」という掟です。
神の掟は「どんな時もいつでも互いに愛し合え」です。できるだけではないのです。
「100%いつでも隣人を愛して歩む」それが「愛に歩む」ということなのです。
2.「互いに」愛し合うことは一方通行ではなく双方通行
2.1 愛されることだけを願うのではなく自ら進んで愛する
私たちの本来的な生き方は、「愛に歩むこと」です。
すなわち、「互いに愛し合うこと」なのです。
ここで見落としてはならないことは、一方的にではなく「互いに」ということです。
隣人から愛されることは、とても楽しくうれしく喜ばしいものです。
ともすれば私たちは、隣人から愛されることだけを求めてしまいがちです。
しかし隣人から愛されることを求めるだけでなく、自ら進んで隣人を愛するのです。
自分自身が愛することなしに、「互いに」愛し合うことはできません。
2.2 隣人から愛されることも拒まない
逆に、隣人から愛されることを拒んでしまうこともあるかもしれません。
結婚の時のプロポーズは、ただ一人の人からのプロポーズだけを受け取り
他の人からのプロポーズは、全部断ります。
結婚相手はひとりだけですから、他の人からのプロポーズは断らないといけません。
これは正しい事です。断ることが、その人への愛の行動だからです。
「私よりももっとふさわしい人と、結ばれてください」ということなのです。
2.3 神から愛されることを拒まないのと同じ
しかし「互いに愛する」ということは、「誰かと結婚すること」とは違いますから
隣人からの愛を拒まないで受け取り、「隣人からの愛を喜ぶ」のです。
愛を受け取るということにおいて、拒んではなりません。
神の愛を拒まないのと同じです。
「こんな私は、神に愛される資格はありません」ではないのと同じです。
「こんな私は、あなたに愛される資格はありません」でもないのです。
3.愛の反対の思いをすべて捨てどんな時にも愛し合う
3.1 隣人への愛と逆の思いは捨て去るべきもの
隣人に対して、今私たちはどのような「思い」を抱いているでしょうか?
「あの人とは一切かかわりたくない」という思いだったり「無関心」だったりしないでしょうか?
過去の体験から、「不信感」や「嫌悪感」を抱いていたりしないでしょうか?
自分と比較して「妬み」や「蔑み」の思いを抱いているかもしれません。
もっと積極的に、「憎しみ」「恨み」「復讐心」を抱いていたりするかもしれません。
自分の欲求を満足させるための「自分の奴隷」のように考えているかもしれません。
けれどもそれらすべての思いは、愛の真逆です。捨ててゆくものなのです。
私たちにとって、決断は重要です。隣人に対しては、「愛以外の何もしない」と決断するのです。
隣人に対して「その人の最善を求め」その人を「生き生きと生かす」ことをしてゆくのです。
3.2 隣人がどのような状態であろうとも愛する
愛というのは、隣人がどのような状況であろうと、
「その存在自体を喜び人格を肯定する」ものです。
もし隣人が悪い状況であるなら、そこから抜け出せるよう祈るのです。
隣人の状況によって、愛したり愛さなかったりするというのは違います。
真に隣人を愛するというのは、その人の状態によらず無条件なのです。
隣人が謝罪しようがしまいが関係なく赦し、最後まで愛し抜くのです。
たとえ罪の中にいたとしても、必ず悔い改めて立ち直ると信じて接してゆくのです。
ステファノの最後の祈りが、自分自身の祈りとなるように生きてゆくのです。
ステファノの最後の祈りは、イエス・キリストの十字架の祈りから来ています。
3.3 隣人に対してきちんと謝ることは愛の重要なポイント
また自分が謝まらなければならない人には、きちんと謝罪するのです。
自分が罪を犯したのにもかかわらず、それをうやむやにしていてはなりません。
自分が悪かったと認識しているなら、その人にきちんと謝ることです。
謝らなければならない人は、少なくないはずです。
きちんと「何を自分がしてしまったか」を話して、赦しをもとめるのです。
相手が赦してくれようが赦してくれまいが、謝罪することは重要です。
むすび.神を愛して神の愛を頂いて互いに愛し合う
この限られた人生の歩みの中で、私たちが最もしなければならない事
それは「愛すること」です。神を愛し、「互いに愛し合うこと」です。
そのために、まず全力で神を愛するのです。神を愛することなくして、隣人は愛せません。
自分に対して注がれている神の愛を、良く知ってそれを受け取ることが大切です。
神の愛を受け取って、今度は心を尽くして神を愛するのです。
その時私たちは、神の力を頂いて隣人を愛せるようになります。
神を愛すること抜きで、互いに愛し合うことは不可能なのです。
今日も心を尽くして100%の思いで神を愛し、神の愛を頂いて
自分の隣人を、自分自身のように愛して生きていきましょう!
【今日の聖書】
さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。
わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、
つまり互いに愛し合うということです。
愛とは、御父の掟に従って歩むことであり、この掟とは、
あなたがたが初めから聞いていたように、愛に歩むことです。
ヨハネの手紙二 1章5〜6節