あっ!しまった!パンを忘れてしまった!
1.ちょうどパンを忘れた時にパン種の比喩が語られた
ある時弟子たちは、パンを持ってくるのを
すっかり忘れてしまっていました。
弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、
舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった。
マルコによる福音書 8章14節
そんな時にイエスから、次のように語りかけられます。
そのとき、イエスは、
「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」
と戒められた。
マルコによる福音書 8章15節
2.弟子たちはイエスの言葉を勘違いしてしまった
イエスが「パン種によく気をつけなさい」と言われたことについて
「パン種」という言葉に、「パンを忘れたこと」が結びついてしまい
これは自分たちがパンを持っていないからだ、と論じ合ってしまいます。
弟子たちは、
これは自分たちがパンを持っていないからなのだ、
と論じ合っていた。
マルコによる福音書 8章16節
しかしイエスの意図していたことは、そんなことではありませんでした。
イエスはそれに気づいて言われた。
「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。
まだ、分からないのか。悟らないのか。
心がかたくなになっているのか。
目があっても見えないのか。
耳があっても聞こえないのか。
覚えていないのか。
マルコによる福音書 8章17〜18節
3.パン種というのは教えの事の比喩だった
そうではなく、教えのことだったのです。
食べるパンがなければ、イエスはいくらでも与えることができたのです。
パンがないことは、その時まったく問題ではなかったのです。
当時の社会の中にあった「教え」や「考え方」こそが問題だったのです。
そのときようやく、弟子たちは、
イエスが注意を促されたのは、パン種のことではなく、
ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
マタイによる福音書 16章12節
3.1 ファリサイ派の教え「自己義認」
「自分の行いによって義とされる」というファリサイ派の教えは
自分の行動で自分を正しくすることができるという「自己義認」で、
「罪は自分ではどうすることもできない」という認識が欠けていました。
自分の行いで正しくなれるという考え方は、
罪を自分で何とかしようとするものであって、
罪の赦しを与えるイエスを、不要としてしまいます。
結局、いくら自分自身で「自分は正しい」と認めようとしても、
罪は自分の力ではどうしようもなく、自分で自分を赦すことなどできず
最後は滅びに至ってしまうのです。
3.2 サドカイ派の教え「復活はない」
「復活はない」とするサドカイ派の教えは、
「未来における罰と報い,御使いや霊の存在もない」ということで
現生にのみ視点を向けるものであって、そこに永遠の命への待望はあり得ません。
罪の赦しによる永遠の命を与えに来られたイエスを、否定してしまうのです。
世と世にあるものは過ぎ去るもので、
私たちは、やがて来たるべき世である、天の御国をこそ求めるべきなのです。
3.3 富と権力に生きていたヘロデ王
ヘロデ王は、金と権力をわがものとしていました。
この地上においては、強大な権力の元、自分の思うがままに
人を動かし、ある時は殺し、自分の欲望のままに生きていました。
この世の富と権力を得ることが、この世での成功と考えるような教えに
注意をしなければなりません。富と権力を手中に収め、
自分の意のままに社会を動かしたとしても、
最後には、正しい神のみ前で、
地上の行いに対する正しい裁きを、受けなければならないのです。
この世で富と力を手にして、欲望と快楽に生きればいいのではないのです。
むすび.永遠の命に関わる「教え」の方にこそ気を付ける
弟子たちは、舟に乗り込むときパンを忘れてしまいました。
パンを食べなければ私たちは生きていけませんが、
必要であれば、パンはイエスが与えて下さるのです。
弟子たちが最も注意しなければならなかったことは、
この世の命に関する食べ物の事よりもむしろ、
永遠の命に関わる「教え」の方でした。
「自分の罪を認め、罪の赦しを与えるイエスを信じ、
イエスに赦しを求めて赦されて、永遠の命をいただく」
このためにイエス・キリストは、この世に来て下さったのです。
この大事な救いに対して、それを無にしてしまうような教えに対しては、
よくよく警戒していなければならなかったのです。
弟子たちが警戒して、惑わされなかったからこそ今に至っているのです
【今日の聖書】
そのときようやく、弟子たちは、
イエスが注意を促されたのは、
パン種のことではなく、
ファリサイ派とサドカイ派の人々の教えのことだと悟った。
マタイによる福音書 16章12節