どん底にこそ現わされる主の恵みのみわざ
1.イエスはラザロが死んでしまってから到着した
ラザロが死んで4日経ってから、イエスはそこにやって来られました。
しかし、人々はすでに死んでしまったラザロのために嘆き悲しんでおり
イエスが来られても、その悲しみの只中にいました。
「まだ若かった(であろう)ラザロが死んでしまった。」
「墓に葬られて4日もたってしまった。」
「まだ生きている内にイエスが来てくれていたら、癒されたであろうに!」
「もうだめだ。もはやこれまで、もうラザロは帰って来ない。」
そのような絶望のどん底に、マルタもマリアも投げ落とされ、
そこにいた人々も、そのような絶望の中に悲しんでいました。
2.もしあの時〜というやり直せない過去を振り返る言葉
マルタはイエスに語ります。
マルタはイエスに言った。
「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。
ヨハネによる福音書 11章21節
マリアも、イエスに語ります。
マリアはイエスのおられる所に来て、
イエスを見るなり足もとにひれ伏し、
「主よ、もしここにいてくださいましたら、
わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。
ヨハネによる福音書 11章32節
「あの時イエスがここにいてくれさえしたら、ラザロは癒されていたのに!」
という言葉です。この言葉の裏には、「でもあなたがいてくれなかったから、
ラザロは死んでしまったのです」という、どこか恨みにも似た響きが聞こえてきます。
それほど、絶望の闇が深かったのです。
もし過去のあの時に○○しておけば、今頃こんな絶望的な状況ではなかったのに...
もしあの時○○しておけば、今のこんな悲しみと苦しみはなかったはずなのに...
やり直せない過去を嘆く言葉を、いくら語ったところで現実は変わりません。
しかし、私たちはそういう過去を嘆く言葉を、しばしば語ってしまいます。
この時のマルタもマリヤも、そうでした。「主よ、もしここにいてくださいましたら〜」
3.どん底でこそ現わされた偉大な主のみわざ
でもどうでしょう。もしイエスが、ラザロがまだ生きている内にやって来て
ラザロを完全に癒していたとするなら、下記の出来事は起こってなかったのです。
こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。
顔は覆いで包まれていた。
イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、
イエスを信じた。
ヨハネによる福音書 11章43〜45節
死人が生き返るということは、しかも死んで4日も経ってから生き返るということは、
通常、どう考えてもあり得ないことでした。
絶望するしかない、あきらめるしかない、悲しみのどん底でしかない状態から
ラザロは、生き返らされているのです。
この、ラザロの生き返りの出来事を目撃したからこそ
多くのユダヤ人たちは、イエスを信じたのです。
ラザロが生きている内に、イエスが来られなかったからこそ、
癒しよりももっと素晴らしい、みわざが起こったのです。
そして、主の栄光が現わされたのです。
もはやこれまでもう駄目だという時にこそ、イエスのみわざは起こっているのです。
カナの婚礼のときも、ぶどう酒がまったくなくなってしまった時に奇蹟が起きました。
空腹の群衆に対して、パン5個と魚2匹しかなかった時も、そうでしたし、
嵐の中で波をかぶって、沈みそうだった船の中でもそうでした。
どん底で絶望的であればあるほど、イエスの素晴らしいみわざの
偉大さがどれ程であるのかが、明らかにされていったのです。
むすび. 私たちがどん底の時にこそ偉大な主のみわざが現わされる
これは今の私たちにとっても、同様です。
絶望的状況に投げ込まれれば投げ込まれるほど、
主の素晴らしい恵みのいかに大きいかが、わかるようにされるのです。
私たちは、絶望的状況を嘆く必要はないのです。
その時こそ、主の素晴らしい御業を体験する絶好のチャンスなのです。
ラザロが死んで4日経ったからこそ、主のみわざの素晴らしさが
より明確になったのです。暗闇にこそ、光は輝き出るのです!
絶望的状況を、主のみわざを体験するチャンスと捕らえましょう。
そして、信じて祈り求めて、主の素晴らしいみわざを待ち望みましょう!
必ず主は、私たちの思いを超えた素晴らしいみわざを、
現わしてくださるに、違いありません。
いよいよ主のみわざを、体験していきましょう!
今私たちに必要なのは、主を信じて素晴らしいみわざを待ち望む信仰なのです。
【今日の聖書】
イエスは、
「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」
と言われた。
ヨハネによる福音書 11章40節