今日のできごと
2017/1/9(月)

主に喜ばれることをまず求める
使徒パウロの願いは、何だったでしょうか?
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい。」(2コリ5:9)
これが彼の願いでした。
「ひたすら自分を喜ばせたい」という思いに
どうやって打ち勝って、
「ひたすら主に喜ばれる者でありたい」にするか?
今日はここを考えてみたいと思います。
たとえば、大好物のケーキが1つだけ残っていた時
「きっと弟も食べたいだろうなあ」と思いつつ
兄が一人で食べてしまったとします。どうなるでしょう?
このとき兄は、確かにおいしく食べれて喜びます。
けれども、あとで弟が帰って来た時、
それを知った弟は、どう思うでしょうか?
「あのケーキないけどどうしたの?
お兄ちゃん、食べちゃった?
僕の分はもうないの?」
兄は、弟のがっかりした姿を目の当たりにします。
「こんなにがっかりするんなら、食べなきゃよかった!」
後悔がやってきて、おいしかった喜びが飛んで行ってしまうのです。
自分を喜ばそうと思ってやったことが、
弟を悲しませる結果になってしまい、結果的に
自分の喜びもなくなってしまうことに気が付きます。
けれども、その逆をおこなったとしたらどうでしょう?
「食べたいけど、全部弟に残しておいてあげよう」
あとで帰って来た弟は、ケーキをまるごともらって喜び、
「あれっ?ぜんぶくれるの?じゃあ半分づつ一緒に食べようよ!」と言って
自分ひとりで食べないで、半分づつにします。
兄も半分食べれて、兄弟そろって喜ぶことになります。
主に喜ばれることを行うというのは、こういうことです。
主に喜ばれ、隣人に喜ばれ、結果的に、
最高に自分を喜ばすことになるのです。
主に喜ばれることを行う時、結果的に自分にも喜びがあふれます。
真に自分を喜ばせたいのであれば、
自分よりも、主に喜ばれることを最優先することです。
最終的に私たちが主の前に出た時に問われるのは、
「あなたは私が愛したように、あなたの隣人を愛しましたか?」
このことなのです。
【今日の聖書】
だから、体を住みかとしていても、
体を離れているにしても、
ひたすら主に喜ばれる者でありたい。
なぜなら、わたしたちは皆、
キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、
めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、
報いを受けねばならないからです。
コリントの信徒への手紙二 5章9〜10節