今日のできごと


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2016/5/23(月)


 1.信仰には行いが伴う

 つり橋を渡るとき、若干の怖さを覚えると思います。
 「この橋は大丈夫ですよ、信じてください」と言われたとき、
 「はいわかりました信じます」と言っても、怖くて渡らなかったら

 「信じます」という言葉の、逆の行動をしていることになります。
 口では「信じます」と言っていても、実際は信じていないのです。
 「信じます」と言ったら、信じて橋を渡ります。

 1.1 実行に移してはじめて信仰

 信仰は、実行に移してはじめて信仰であるということです。

 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、
 信仰はそれだけでは死んだものです。
 ヤコブの手紙 2章17節

 1.2 信仰は能動的で勇敢(臆病ではない)

 信仰による一歩を、勇気をもって踏み出すことが大事です。
 信仰は受け身ではなく、能動的です。非常に能動的です。
 全く逆の状況の中でも、まず自分自身で行動を起こすからです。

 力が要ります。臆病ではありません。
 あらゆる反対にも、負けません。
 誰が何と言おうと主に従って、自分自身で踏み出すのです。

 1.3 実行に移すと主のみわざを見る

 イエス様はラザロを生き返らせましたが、その奇蹟の前に
 墓のふたの石をとりのけるという、行動が必要でした。
 石を取り除けてから、イエス様がラザロを生き返らせたのです。

 信仰をもって一歩踏み出してはじめて、
 神様のみわざを体験するのです。
 私たちに求められていることは、信仰の一歩を踏み出すことです。

 2.神が隣人を愛しておられると信じる信仰の一歩

 2.1 神様があなたの隣人を愛しておられる根拠を知ろう

 神は、すべての人々が救われて
 真理を知るようになることを望んでおられます。
 テモテへの手紙一 2章4節

 どんな人も神様に愛されていて、一人も例外もありません。
 神様はすべての人を愛し、すべての人が救われることを
 望んでおられます。

 イエスがその家で食事をしておられたときのことである。
 徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。
 マタイによる福音書 9章10節

 人から軽んじられている人や、罪人呼ばわりされている人を、
 イエス様は招かれました。その人がどんな罪を犯していようと、
 その人が神様に愛されていることに、変わりはありません。

 2.2 神様が隣人を愛していることを信じよう

 神様は、あなたの隣人を愛しておられることは、
 聖書から明らかです。例外はありません。
 それでは、私たちがすることは何でしょうか?

 まず「神様がわたしの隣人を愛しておられる」ということを、
 「わたし自身が信じる」ことです。能力や外見、職業や財産によらず
 神様がその人を限りなく愛しておられることを信じることです。

 しかし、人を分け隔てするなら、
 あなたがたは罪を犯すことになり、
 律法によって違犯者と断定されます。
 ヤコブの手紙 2章9節


 2.3 隣人を愛する信仰の第一歩を踏み出す=行う

 隣人を愛する信仰の第一歩は何でしょうか?

 神が、私の隣人を愛しておられるなら、
 そして私が神を愛するのなら、
 私も神様が愛しておられるその人を「愛します」と決断することです。

 そしてそれを実行に移します。
 言葉だけでなく、行いで表すのです。


 一番したくないのは、自分にひどいことを言ったり
 したりしてきたその人を、愛して赦すことでしょう。
 しかしそのしたくないことを、実際に行動に移す一歩を踏み出すのです。

 その信仰の一歩を踏み出すのです。
 隣人を憎んだり、恨んだり、軽んじてはいけないと信じ
 その人が神様に限りなく愛されていることを信じて

 神様に愛されているその人を、私も愛するのです。
   それが神様があなたに願っておられることです。
 その愛を、実行に移すのです。喜んで行うのです。

 3.神が私を愛しておられると信じる信仰の一歩

 3.1 神様がわたしを限りなく愛しておられる根拠

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
 独り子を信じる者が一人も滅びないで、
 永遠の命を得るためである。
 ヨハネによる福音書 3章16節

 私の隣人を神様が愛しておられるのと同様、
 私自身も、神様に愛されていることは、聖書から明らかです。
 神様は私たちを、限りない愛で愛されています。

 3.2 神様が私を愛していると信じる

 私たちが自分自身を見るときも、そのようにみるべきです。
 神様が尊い一人として、私を愛してくださっているのです。
 決して自分を軽くみてしまってはいけないのです。

 テストの点数や資格、能力、技術、経験、年齢ではないのです。
 学歴や職種や地位が重要視されている世の中ですが、
 決して流されないでください。

 多くの財産を持っている人が、より価値が高く、
 貧しい人が、価値が低いわけではありません。
 たとえ何もできなくても、存在自体が尊いのです。

 3.3 神が私を愛するゆえに訓練されている

 神様の愛は計り知れません。無限です。
 それならば、なぜこんな苦しい状況に置かれるのだろう?
 神はなぜ、苦しみから解放してくれないのだろう?

 愛する子を
 それは、神様があなたを愛しているからにほかなりません。

 ソロモン王は莫大な財産をもっていました。

 ソロモンの歳入は金六百六十六キカル、
 そのほかに隊商の納める税金、貿易商、
 アラビアのすべての王、地方総督からの収入があった。
 列王記上 10章14〜15節

 1キカル=34.2キログラム とすると、
 666キカル=22,777.2キログラム(約23トン)
 金約23トンが歳入として入って来ていたということです。

 ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し、
 列王記上 10章節

 とも記されています。世界一富を持っていたのです。
 それを何に使っていったでしょうか?

 ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、
 アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など
 多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、
 主がかつてイスラエルの人々に、
 「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。
  彼らをあなたたちの中に入れてはならない。
  彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、
  彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、
 ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。
 列王記上 11章1〜2節

 女性に費やしています。
 次々に妻や側室にしてしまいます。

 彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。
 この妻たちが彼の心を迷わせた。
 列王記上 11章3節

 何と王妃700人、側室300人、合計1000人です。
 王という地位があり、何でも自由にできる権威があり、
 ふんだんに使える山のような財産があるとどうなるか?

 ソロモンは欲望を、抑えられなくなってしまいました。
 歯止めなくどんどん欲望のままに進んでいってしまったのです。
 もしソロモンが貧しかったら、そうはならなかったでしょう。

 私たちはどうでしょうか?
 もし多くの財産を持っていたら、それを何に使うでしょうか?
 自分のために使ってしまうのではないでしょうか?

 飛行機ならファーストクラスに乗り、
 ホテルは有名ホテルのスイートルーム、買い物をすれば
 高級な食材、ブランド品、高級車、高価な家具。

 豪華な家を建て、庭にプール。
 もしそれらを購入してもまだまだありあまるお金があったら
 それらを、買わずにいられるでしょうか?

 はじめは「これくらいならいいだろう」で始まり、
 それがエスカレートしていき、気がつくと、
 どっぷりはまってしまっていた、ということにならないでしょうか。

 お金がないということは、私たちを「欲に走るのを抑える」
 という役目をしています。
 神様は私たちの弱さを、よくご存知なのです。

 むすび. 信じて行動に移そう

 信仰生活は、単に受動的な何とかなるさ的な生き方ではありません。
 とても能動的で、活動的で、アクティブです。
 待っているだけでなく、出ていくのです。

 一歩踏み出すのが、信仰です。
 ヨルダン川の手前でとどまっていたイスラエルは、
 ヨシュアに率いられて、ヨルダン川を渡るために踏み出しました。

 神様の求めておられるのは、この信仰です。
 安住の地に留まってはいません。
 パウロとバルナバは、アンテオケ教会から遣わされて出ていきました。

 問題は、私たちが罪からどう離れるかにかかっています。
 自己中心性からどう離れるか、欲望からどう離れるか、
 怠惰からどう抜け出すか、怒り憎しみ恨みをどう捨て去るか

 ここにかかっています。
 行動する信仰を留めてしまう罪と、日々戦っている
 【今日の聖書】
 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、
 信仰はそれだけでは死んだものです。
 ヤコブの手紙 2章17節
 


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