誰か救われる人がいるの?

分の力では救われることなんて絶対にできません。それは不可能なことです。

それでは私たちには希望はないのでしょうか?

いいえ、神は正義であると同時にあわれみ深い方なので、そのまま人間が滅びにいたるのを
見ているだけのことは出来ませんでした。

それでは神はどのような救いの道をそなえてくださったのでしょうか?

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。」ヨハネ3:16

ひとり子をお与えになったとはどういう意味でしょうか?

そのひとり子とはイエス・キリストです。
彼は約2千年前に大工の子としてこの世に誕生し、罪の一切無い、へりくだった生活をおくり、
同国人(ユダヤ人)によって十字架につけられました。

彼は、ただの犯罪人や、または善人として死んだ人間ではありません。

次のような意見をよく聞くことがあります。
「イエスは確かに善い人で、偉大な教師だがいくらなんでも、神に祀(まつ)り上げなくても良いんじゃないか」

イエスはただ単なる善い人や、偉大な教師ではありません。それ以上の存在です。

ではなぜそう言うことができるのでしょうか。
それは彼自身が多くの場面で、自分は神だということを示したからです。

例えば、ユダヤ人がイエスに「あなたは一体だれなのか」と聞いたときに、
イエスは最後にこう言われました。
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、
わたしはいるのです。」ヨハネ8:59

アブラハムとはイエスが生まれる千年以上前にいた、
神から祝福を授かった人です。
イエスはそのアブラハムが生まれる前から存在していたと言ったのです。

加えて、「わたしはいる(ある)」という言葉は神の名前として知られていました。(出エジプト3:14)
当時ユダヤ人は神の名を口にすることをとても恐れました。
それをイエスは大胆にも自分を指して使ったので、彼らから石を投げつけられそうになったのです。
(石を投げるという行為は神への冒涜が起きたことを示すものです)
この他にも
イエスは「わたしを見た者は父(神)を見たのです」とか
「わたしと父(神)とは一つです」と言って、自分は神であると示しています。

これらのことから推測されるのは次のふたつのどちらかです。
@イエスは本当の神である
A自分を神とする気の狂った者、精神異常者である

どちらなのでしょうか?
もちろん答えは@です。
イエスの行いや言葉、特に喩え話は彼が知性にあふれた方であったことを物語っています。


聖書ははっきりとイエスは神であるということを、彼が人間として生まれる前から語っています。

『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。
ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。』イザヤ書9:6
(これはユダヤ人がユダヤ教の聖典としていた旧約聖書の中にある言葉です)

イエスが神であるということは、すべてを創り、天におられる聖なる方が人間のかたちを取ってこの地上に来られたということです。

「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての性質を持って現れ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」(ピリピ2:6-8)

神の清さは人間には理解の及ばないところです。聖書の中の多くの人は神を見ると死んでしまうと考えていました。
それほど人間は近づくことができない存在なのです。

神は「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、
人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。…」1テモテ6:16

その神が人間の姿をとって、さらに、あなたやわたしのために十字架の上で死んでくださったのです。
それは私たちが当然受けるべき罪の罰を免れるためなのです。
これがイエスが十字架の上で死んだ理由です。

神は正義なる方ですから、人の犯した罪を何もなかったかのように見過ごすことはしません。
そうしてしまうと神が不義(公正でない)になってしまいます。
なぜなら、あなたの犯した罪のために多くの人が苦しんだからです。
(たとえ人間に害はなくても、あらゆる罪はこの世を汚します)

罪には罰が伴います。その罰をあなたのために神自身が受けたのです。
全人類のすべての罪の苦しみをお受けになりました。
それは例えて言うならばこういうことです。

あなたが家の窓ガラスを割ってしまいました。しかし、父親は子供であるあなたを憐れんで許してやりました。
もちろん子供の行為を許すだけでは窓ガラスは元通りにはなりません。
きちんと掃除をした後、新しいものを買わなければなりません。
これが代価を払うということです。

もちろん、私たちの罪は窓ガラスを割ることのような、小さなことではありませんが原則は同じです。

あなたは神に対してどのくらいの借り(負債)がありますか?
言い換えるとあなたは神の目から見て、どの程度罪深いですか?いくつの罪を犯しましたか?
神に聞いてみてください。
きっと普段は忘れていたような過去の醜い罪、悪いことをしたいという欲望がありありと示されるでしょう。


神は自分の本当の罪深さを知り、悔い改めた者をよろこんでお赦しになります。

さあ、あなたも神に向かってこう叫ぼうではありませんか。

「神さま、私はあなたの前に罪を犯しました。
もう私には、自分の正しさによって救われる望みはありません。
こんな罪人の私をあわれんでください!」


そうすれば神はあなたを豊かに赦し、今このときから永遠の命へ迎え入れてくださいます。
あなたは悔い改め、信じるだけで救われることができます。
自分で努力する必要はありません。これは神からのプレゼントだからです。
あなたが受け取るために用意されたものです。

今こそこの救いを受け取り、神との和解を果たしてください。

あなたも救われることができます!