♪♪ こっちの広場 ♪♪


私たち古知野キリスト教会の交わり広場です。

ショートメッセージなどを掲載しております。是非、こっちの広場でみことばを味わってください。


信じる者たちは幸い  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.4.26
ヨハネの福音書20章24〜31節

信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」 20:27d-28

信じるか、信じないかは、あなた次第です

―とは、イエスは言わない。

ただわたしを信じなさいと言われる。

一心に神を信じる強くピュアな心の持ち主こそ、

神を見ることができると私たちは考えます。

一方で、今日登場するトマスは、

「デドモ」(双子)と呼ばれる者でした。

これを「二心」と読む説もあるそうです。

トマスはある時には

「私たちも行って、主と一緒に死のう。」(同11:16)

と侍のような決起盛んなことを言い放ちます。

ただ別の時には、今日のように頑なに、

見れば信じるのだケド…と閉じこもるのです。

そんな二心と見えるトマスですが、

果敢で真直ぐな人だったのではないかと思えます。

本来真理を追究するのは、とても勇気がいることだからです。

他の残された10人の弟子達にはイエス様は現れて下さった。

けれど、私にはお姿を見せて下さらなかった。

置いてけぼりをくらったと、いじけたでしょうか?

一人だけ恵みから落ちたような疎外感を覚えたでしょうか?

けれどトマスはイエス様を求め続けています。

この物語に「不信仰なトマス」と題が付けられることがありますが、

信じたい気持ちがない訳ではありません。

むしろ、この時一番イエスの復活を知りたいと願っていたでしょう。

彼は「信じたくとも、信じられない」葛藤の中にありました。

実直なトマスだからこそ、自分の目で見なければ、信じられなかった。

彼は決して無関心ではありません。

非常に大切なことだからこそ、じっくり見る必要があったのでしょう。

他の弟子達が、主を見たこと、主がいらしてくださったと喜び、

またその復活に浮足立っている中で、トマスはついていけません。

この目でしかと見、この手で実際に触れて確かめてみなければ信じられないと、

その輪の中には入れなかったのでしょう。

しかしトマスは仲間に入れなくとも、

弟子達の話題やテンションについていけなくても、

何はなくとも復活の事実を見極めるがあると、

同じ部屋に残っていました。

トマスは、とにかくイエス・キリストを信じる者たちと共におり、

尚も信仰者の群れの中に留まっていました。

そんな一番信仰の弱く、不安で、揺らぎ、疑う者の許に、

イエス様は訪れて下さいました。

復活の日の夕方から‘8日後’、イエス様は再び弟子達に姿を現されました。

―8日後とは象徴的な言葉です。

十字架の翌日つまり安息日(土曜日)が週の7日目、

次の復活された週の初めの日が8日目(日曜日)に当たります。

イエス様はこれより昇天まで‘8日’毎に

復活の姿を弟子達の許や他の者たちの前に現われました。

ですから、私たちイエス・キリストを信じる教会は、

復活の主の現れを覚え、日曜日毎に集い、礼拝を捧げるのです。

鍵のかかった部屋の真ん中に立ち、

「平安があなたがたにあるように。」とイエス様は言われます。

それからトマスに言われます。

「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。
手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」(27節)

そこでトマスは、「私の主、私の神よ。」(28節)と答えるのです。

実にこの福音書を書いたヨハネは、粋なことをします。

彼はこの書で「イエスが神の子キリストである」(31節)

と人々が信じるに足る十分な証を示したと告げます。

その終盤ここ一番の決定打に、不信仰と見えるトマスに、最も伝えるべき真理、

キリスト信仰の中核を語らせるのです。

もちろんこの出来事も書も、神に由来します。

復活された主は滞っていた信仰の息吹を、

全く自由な信仰の応答として、信じる葛藤に陥った者に甦らせて下さいます。

イエス様は続けて言われます。

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(29節)

「信じる者たちは」と複数形で描かれています。

トマスの後にはイエス様に見えずとも信じる人たちが起こる様を、

主ははっきり描いておられました。

そして、今主に見えずとも、信ずる者に〜主が信じて欲しいと願う者に、

聖書を通して同じように語り、

信仰や人生にくじけそうだと心が折れそうな者に声をかけて下さるのです。

トマスは悶々とした時を、他の弟子達よりも一週間余計に過ごしました。

私たちも晴れやかな信仰者として生きられず、

そんな福音は幻想かと問いつつ過ごす日々があるかもしれません。

けれど‘8日目’は必ずやってくるのです。

今日礼拝で、信仰者の群れの中で、私たちも主の御声を聞きます。

そして「私の主、私の神」と信仰告白し、

新しいいのちをいただくのです。

シャローム!

ともなるイエス  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.3.29
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。
ヘブル人への手紙 12章2節a

新型コロナ・ウイルス感染予防と拡大防止の為に、

今私たちは様々な制限の中で暮らしています。

そして教会はそんな中、受難節を過ごし、復活節を迎えようとしています。

十字架を仰ぎながら、神様がおられるなら何故?

との叫びを共にして下さる主を覚えます。

わが神 わが神/どうして私をお見捨てになったのですか。
/私を救わず 遠く離れておられるのですか。/
私のうめきのことばにもかかわらず。(詩篇22:1)

ある人は信仰また信仰者の敗北としてこの言葉を聞きます。

けれども実にこれは神を信じていなければ、発せられない叫びです。

神がいるからこそ、救い主の存在を信じているからこその切なる祈りです。

信仰また信仰者故に、不当な扱いや不条理を、

正当・正義の神、摂理・秩序の主に向かって、

申し上げることができたのではないでしょうか?

私たち教会は、イエス・キリストが十字架で私たちの身代わりとなって、

罪とその罰(咎)の償いを成して下さったと信じています。

しかし、キリストが「代わり」になったのならば、

その後の私たちの苦しみや悲しみ、孤独や絶望は、

すっかり消えてしまってもよいはず。

なのに未だに私たちは「わが神 わが神」と叫びたい時があります。

ここに私たちはまたひとつ十字架の意味を知ります。

人となられた神なるイエス様が、私たちと苦しみを共にして下さるという視点です。

神に無視され、見捨てられる、その苦しみの極み、孤独の極みを、

イエス様は十字架で味わって下さいました。

ただ主イエスの十字架の苦しみと死は、いのちの甦りへと続く道でした。

この主イエス・キリストと共に歩む時、私たちの苦しみや孤独が分かち合われ、

もうそれは苦しみでも孤独でもなくなります。

この世では苦しみと孤独の行く末は死と滅びです。

一方キリストと共に神の国に生きる私たちは、ゆくべき方向が切り替わります。

死からいのちへと移され、復活と希望に変えられるのです。

十字架は苦しみと同時に、無力の極みです。

その無力と見なされる状態、社会的に最も弱い者、

何の力も発揮できないそんな十字架上でさえも、

またただただ苦しく死にゆくだけの立場にもかかわらず、

イエス様は人をお救いになられました。

主イエス様と共にゴルゴタの丘で十字架につけられた犯罪人の一人を思い出します。

この人はイエス様が何の罪も犯していないと信じ、

「イエス様。あなたが御国に入れられるときには、私を思い出してください。」(ルカ23:42)

と言うのです。

この十字架に死にゆく罪人にとって、誰にも分かち合えず、

分かり合えない十字架の苦しみを、隣で共に居って下さる方があるのは、

何と慰めだったでしょう。

それだけでも救われた気がします。

但しイエスは救われた気がするというだけに留めて置かれません。

確かな救いの宣言をされました。

「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。(同23:43)

あなたはもうこの世のものではない。神の国のものだ。

あなたは死からいのちへ移される。

苦しみから喜びへの旅路を行くのだ。

イエス様は十字架上で、共に苦しみ孤独を負い、

共に生きようと寄り添って下さいました。

ただの傷のなめ合いや甘やかしではなく、

その人の命に繋がる一歩一歩を見守り支えてくれました。

信じる者と「共なる」イエスは、同時に「友なる」イエスです。

最後の晩餐でイエス様はご自身が愛したように互いに愛し合うことを教えられました。

そして主イエスの心を知り、神の愛に生きる者を、

もうしもべと呼ばず、友と呼ぶと仰られました。

人が自分の友のためにいのちを捨てる事、これよりも大きな愛はだれを持っていません。(ヨハネ15:13)

と弟子達とともなるイエス様は、最後まで、極みまで愛されました。

その御言葉の真実を十字架で証明し、

死からいのちの道を切り開いて下さったのです。

イエス様は大いなる天の父なる神に信頼し、十字架を全うされました。

最期「完了した」と息を引き取られましたが、

これはあの嘆きで始まった詩篇の最後の節にある賛歌と同じ語です。

主が義を行われたからです。(22:31)

その時、嘆きが賛美へと変えられるのです。

現在私たちは、身近な所でも世界の教会でも、

礼拝に集うことがままなりません。

「みことばのききん」がやって来たと言えるかもしれません。

主イエスは御言葉〜信仰者の賛美(詩篇)を握って、十字架を忍ばれました。

その先には自由な解放といのちの道が待っています。

いかなる制限の中にあっても、閉塞感や無力さに苛まれていても、

人を解いて自由にする神のことばは繋がれてはいません。
(IIテモテ2:9)

この生ける神のことばの福音に今日も生かされます様に。

シャローム!

初代王サウルと次王ダビデ  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.2.23

「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った。」

Tサムエル記 18 章 7 節

サウルが王様となったのは、「不思議な王制のはじまり」と同時でした。

つまり、サウルがイスラエルの初代王として、神様に大抜擢されたのです。

昔イスラエルが、エジプトの奴隷として苦しんでいた時と、

同じ叫びが士師サムエルの時代にあった。

そして、これから出エジプトのような大いなる神の救いの御業が、

今イスラエルに起ころうとしている!

そういった期待が掻き立てられます。

ある日サウルが迷子のロバの件で訪ねて来ます。

その顔を見るや否や、サムエルに主の御言葉が告げられます。

「さあ、わたしがあなたに話した者だ。

この者がわたしの民を支配するのだ。」(同 9:17)


サウルはサムエルの家にい一晩滞在し、

翌朝の帰路にて、サムエルはサウルに神様のご計画を告げます。

サウルに油注ぎをして王様とします。

そしてこれから訪れた町で、預言者の集団がやって来ると、サウルに

「主の霊が激しく下り、あなたも彼らと一緒に預言して、

新しい人に変えられます。」(10:6)


と予言します。

二人が別れた後、神様はサウルに「新しい心」を与え、

彼はその預言通りの出来事を体験しました。

サウルは長身のイケメンでした。

また、賢く、時に適って沈黙することも心得ていました。

当時のイスラエルの国力を考えると当然かもしれませんが、慎ましやかです。

華美な王宮や宮廷、後宮(ハーレム)を持たず、

城砦も、実用的かつ実践向きなもの。

軍隊も国防の為の必要最低限の常備軍を揃え、

税金のかかる重装備はしませんでした。

申命記にある王の姿を写し取ったような人物だったのです。

しかしサウルは人々の中に

「失脚した哀れな王」「狂った王」

として刻まれています。

彼の自信の無さ・コンプレックスから来る不安感や不信感が

彼に嘘でも他に確かな立場を保障してくれるものにしがみつかせました。

アマレク人との戦いで、サウルはその分をわきまえず、

祭司サムエルを待たずにいけにえを献げ、民心を掌握し、

分捕り物の金品なども得たいとの貪欲が出て来ました。

何よりも恐怖が先立ち、恐怖に付きまとわれます。

それ故、何もかも自分でコントロールしたくなります。

サウルは地上での神の代理人なる王であるのに、

神のことばを聞かず、神を政治や彼の人生から退けます。

そこに二心が芽生え、と猜疑心が強くなり、自信の無さも倍増。

ねたみ、嫉妬、精神の混乱。

遂には神経衰弱し、殺すか殺されるかと自分を追い込みます。

結果、サムエルを介して、主なる神はサウルの失脚を告げるのです。

サウルの闇は神の与えられた権威(自由)と従順を見誤らせました。

一方ダビデもサウルに引けを取らず、イケメンです。

けれど、「おまえのうぬぼれと心にある悪を知っている」(同17:28)

と兄エリアブによる家族の証言を聞くと、

ダビデはダビデで、暗い部分を抱えていることが分かります。

興味深いのは、人の眼には大差ないにもかかわらず、

ダビデとサウルは、神の眼には異なって映っていることです。

「人はうわべを見るが主は心を見る。」(同16:7)

人は自分の都合によってその人の良し悪しを判断しますが、

神様は御心・神のなさる救いの御業にふさわしいかどうかで判断されるのです。

次に油注ぎを受けた光のダビデの中で、サウルの闇は一層深くなります。

二人の人生の交錯点はペリシテの戦士・巨人ゴリアテとの戦いでした。

この勝利は冒頭の歌を生みます。

サウルとダビデの差は何であったのでしょうか?

答えはシンプルで、神と共に歩むか否か。

神様を真に知って信頼し、御言葉に聞き従うかどうかです。

ダビデは羊飼いをしながら、自分を守り養い、

いのちを豊かに与え育んで下さる神様と出会い、

共に生き、栄光へと向かっていきます。

サウルは神様を蔑ろにし、自分の砦又味方となって下さる主を、

自分の手であえて崩し退け、破綻に向かうのです。

実は闇はゴミではありません。

闇と光、どちらも神の創造の業であり、御手の中にあります。

神の良い時に、神の計らいの許で腐葉土と変わり用いられるのです。

神の奇跡により造り変えられるのです。

そのままでは用いられないモノたちを、造り変えていただき、

自分の一部として統合して行く。

神の再生工場に回復と言う救いが実現される。

結局はその栄光も堕落もその神と共に歩むかどうか・・・
神から離れて生きるか、祈りと賛美の元に生活するかなのです。

主は良い道を備える為に、私たちに神の霊を与え、

みことばを聞ける礼拝の場を、

いやしの賛美の場を備えて下さっています。

既に闇は主の許で、光へと変えられようとしているのです。

それがあなたやこの国に主がもたらす救いです。

!シャローム!

不思議な王制のはじまり  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2020.1.26

彼らが、「私たちをさばく王を私たちに与えてください」と言ったとき、
そのことばはサムエルの目には悪しきことであった。
それでサムエルは主に祈った。
主はサムエルに言われた。
「民があなたに言うことは何であれ、それを聞き入れよ。
なぜなら彼らは、あなたを拒んだのではなく、
わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。」

Tサムエル記8章6・7節

2020年大河は『麒麟がくる』。

麒麟とは、「戦の世を終わらせる者のもとに必ず現れる聖なる獣」だそうです。

時は室町幕府の終わり、

応仁の乱の内紛で疲れ切り、荒廃した世をどう立て直すか?

民を飢えや戦乱の苦しみから解放してくれるのは誰なのか?

そしていつ「麒麟はくる」のか?

はたまた「麒麟」とは誰なのか?

善政を敷き、世を平定に導く指導者が求められた時代が描かれています。

サムエル記の背景も、戦国時代のような動乱の時代でした。

ペリシテ人はじめ「海の民」と言われる人々が地中海からやって来て、

エジプトと権力を二分していた巨大帝国ヒッタイトを倒してしまう。

トルコ、シリア、パレスチナは、その混乱の中に、

だんだんと各地でそれぞれの国が存在感を示してくる。

強い王が立ち、戦によって領土が割振られてゆく。

自分達がやるか、やられるか、の世界でした。

そんな中、神の民イスラエルから奇妙な訴え、

'不思議な王制'の提案が成されます。

神の民イスラエルが、神を廃位し、

周りの国と同じような王様が欲しいと言い出すのです。

この時立てられていた、イスラエル最後の士師と呼ばれるサムエルに、神の民はこの

「間違った動機(特別な神の民なのに、

周りと同じように目に見える強い王様がほしい)と正しい問い(王を立てる)」

を投げつけます。

サムエルが疎ましく思ったこの王制の提案に、神はどう反応したのでしょうか?

主は私に対する不信任案だと答えられるのです。

イスラエルの民の、またいつかの約束の地を前にした、神の国・神の民「だケド」という、

ケドケドという不信仰が首をもたげてきたことが指摘されます。

また、士師記に見える敵の侵入や敵の存在自体に怯えて、

主に叫び、助けられ、平和が戻ると、途端に「用なし」とされる。

そういった現状も主は御存知であられました。

他の国の王は、搾取しかしない。

王の都合で、人を奴隷等しくしてしまう。

しかし、私たちの主なる神は、良いものを豊かに与え、

あの奴隷の国エジプトから導き出し、

自由を与え、土地を与えて下さった王なる神ではないか。

それなのに、その神様を捨てるなんて!

と、サムエルには何とも言えない色んな感情が湧いてきたのだろうと思います。

ただこの王制は神様の人々を救う計画の中にありました。

間違った動機かもしれませんが、正しい問いでした−王が必要であると。

これは申命記にも見える神の当初の計画でもありました。

この不思議な王制のはじまりは、

捨てられながらも、人々の救いを達成する王を暗示・預言するものと考えると興味深いです。

神さまの救いの計画にあるイスラエルの真の王は、十字架に架けられ、

全ての人類の罪を身代わりに償うキリスト・イエスの姿です。

他人事ではなく、あくまでも'神の事'として王制は行われます。

神は天で高みの見物をするに徹するのではなく、

ご自分が歴史の中に動かれ、痛みをも共にして下さるのです。

神は歴史の傍観者ではなく、創造者(メーカー)であり、支配者(コントローラー)です。

又同時に歴史に生きるお方(プレイヤー)です。

神の事ならば、一点の曇りもないようにと思いますが、事実そうではありません。

けれども神様はそこに軌道修正を図りながらも、

尚神の御手の中で、人の不純な動機にも拘らず、

救い業を今日も進めておられるのです。

イスラエルは大変苦しい時に神様を求め、

平和な日常が戻ると、様々な理由で不信任案を突き付け、用なしと見なしてしまいます。

現代の信仰者、私たちはどうでしょう?

一方で主なる神は決して神の民を見捨てられません。

ご自身が捨てられてまでも、私たちの救いを全うされる神様なのです。

シャローム!

栄光の王の誕生  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2019.12.29

「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和が
みこころにかなう人々にあるように。」

ルカの福音書2章14節

さぁっと闇を突き抜けて、射すような光が現れた荒野で、

羊飼いたちは天使のメッセージを耳にします。

「あなたがたのため」という呼びかけに、

このただ事でない出来事は他人事ではなく私事だと、

彼らはみことばを受け取ります。

救い主の「しるし」となる「飼葉桶に寝ておられるみどり子」というヒントは、

羊飼いの彼らと同じニオイがしたのではないかと思います。

そこには近づいても何か言われることはない赤ちゃんが寝かされている。

そのままの姿で寄り付ける、訪ねられる場所であったはずでしょう。

「しるし」は「奇跡」とも訳せる語です。

羊飼いたちは奇跡に出会えるチャンスを得ます。

まず神様の方が天使を通して、

羊飼いを彼らの救い主の元に招いて下さいました。

 次に響くは、冒頭の天の大軍勢による賛美です。

聖書における賛美は、神の約束、預言、祈りでもあります。

天使たちは歌います。

予言し、祈ります。

「今宵、これより後、いと高き所・天で輝く神の栄光が、この地上でも輝いてみられる!」。

これは「御心が点で行われるように、地上でも行われます様に」との

'主の祈り'の響きと同じです。

この賛美は、天と地、神と人とが連動して起こる、対の言葉で歌われています。

天で行われるは、神の栄光が輝くこと−神のすばらしさがあがめられ、

神さまの御心・計画が全て実現しているということです。

地上に置き換えると、「平和」です。

平和とは神のご計画が完成し、実現していることです。

ヘブル語ではシャロームと言います。

神の全き支配・輝き、その天の様子が再現されることです。

天は神の栄光で出来ています。一点の曇りなく、美しく、麗しく輝いています。

けれど、地ではその素晴らしさ、栄光が霞んでしまっている。

神の栄光を現わすはずの人間は、罪により堕落し、神からいただいた神の栄誉を失った。

「神のかたち」・似姿に造られたはずの栄誉と、

それをその生き方・存在で示す栄光の輝きを失くしている。

「栄光」は、原意では「重い」と言います。

換言すれば、威光、尊厳、栄誉。

人には尊厳や値打ち、価値という言葉が当てはまるでしょうか。

神様の栄光、重さ、その値打ちが分かる時、

私たち人間は私たち自身の価値も分かって来る。

救い主によって、この地は、あなたは、人が神から頂いた価値・栄誉が回復され、

栄光を取り戻すことができる。

神の輝きが再び、この地にも、

そしてあなたにも戻って来るのだ!と、天使は告げるのです。

羊飼いは日夜の重労働でしたが、収入は低く貧しく、また野にいる為、

神殿や会堂の礼拝にも出向かれず、税金・献金を納められませんでした。

故に裁判の際の証言者としては相応しくないとされ、

公の場での発言権はありませんでした。

そんな羊飼いが、なんと!救い主の誕生の知らせを伝える証人として、

「栄光の王」のもたらす救いとその御国を建て上げる、

'One Team' の一員として、神が大抜擢されるのです。

聖書における奇跡とは、神の救いを受ける事、

そしてその救いを担う者とされることです。

荒野という不毛な土地の、奇跡など最も起きなさそうな所に、

主は神の救いの奇跡を行われます。

救いを受ける価値無しと、世の人からダメなレッテルを張られた者を、

そのシールをきれいに剥がし、神の栄光を輝かせる者だと、

その名誉を回復して下さるのです。

「救い主」とは当時の世界の支配者であるローマ皇帝を指す言葉でした。

ですが聖書はダビデの町で誕生した救い主こそ、真の主キリストだと知らせます。

この飼葉桶の幼子こそが、本当に人を造り変えることができる、天地の造り主。

後に十字架と復活の栄光に与る、世界を、そして私を救うことのできる神なのです。

その信仰によって私たちも主の証人、平和の使者となるのです。

シャローム!

あなたの王が来られる  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2019.11.24

【主】は私たちの王、この方が私たちを救われる。

イザヤ書 33 章 22 節


ある小学校6年生になる女の子の書いた詩。

「王さまのごめいれい」
といって、バケツの中へ手を入れる
「王さまって、だれ?」
「私の心のこと」

この詩を聞いて、シスターであり大学の理事長もしておられた渡辺和子氏は、

寒い朝に自分自身と会話しながら、冷たい水の入ったバケツの中に手を入れて、

ぞうきんをゆすいでいる姿を思い浮かべています。

そして、こう綴るのです。

実は、私たち一人ひとりの心の中にも、この”王さま”は住んでおられるのです。

ためらっている私たちに、善いことを「しなさいよ」とすすめ、

悪いことを「してはいけません」と制止していてくださるのです。

『置かれた場所で咲きなさい』p36,幻冬舎,2012

私たちも自分の中の自分と会話することがあるでしょう。

特に大小問わず決断して事に当たる時には。

自分を律してくれ、正しい判断に導いてくれる、私を治める他の誰かが私の中に住んでいる。

あなたを治め、導くのは何でしょうか?

あなたの心の王座には、だれが君臨していますか?

今年のアドヴェント〜クリスマスの黙想として、

あなたの救い主なる王が来られること・

主イエスは我が王であることを思い巡らしてみませんか?

クリスマスのメッセージを聞くと、

不思議にも、王の到来をそれほど心待ちにしていない人達の所に、

王様誕生の知らせがやって来ます。

権力に敏感なヘロデ王、メシアの星を目印に異邦人である東方の博士たち、

聖さからは程遠いとされていた荒野の羊飼いたち。

でもひょんなことから、この新しい王の到来の知らせを見聞きするのです。

恐れ惑ったり、ワクワク心音出せたりと、王の到来の知らせの響き方はまちまちですが、

聞いた瞬間から彼らの心は、その王に釘づけになるのです。

確かに王が来られると、社会や政治は変わるでしょう。

けれど面白い事に、私たちの生活・家庭をすっかり変えてしまうのは、

結構赤ちゃんだったりします。

子どもが産まれると、家じゅう全部ひっくり返るくらいの暮らしの変化がやってくることも!

真にクリスマスにお生まれになられた幼子は、私たちの生活をすっかり変えてしまうのです。

私の信仰の友の絵で『その夜の贈りもの』と題した絵があります。

まだイエス・キリストを信じていない家族に、

クリスマスをどう伝えようか、と考えてこの作品にたどりつきました。

クリスマスは「聖書」という本に書かれている「物語」、

2000年以上前の遠い外国の話、ちょっと楽しげなイベント。

ではなくて、きょう、神さまのことばが現実になり、

わたしの日常の中へ救い主が来られるという奇跡を、

一人ひとりが味わうクリスマスになりますように。

そういった祈りの中でこの絵は描かれました。

「見よ、わたしは新しいことをする」というみことばが中心にあります。

聖書の中に飼葉桶に生まれた幼子イエスが見えてくるのです。

「馬桶」という文字は、中国語でトイレを意味するそうです。

イエス様の誕生に繋がるものがあるなと公衆トイレの表示を面白くみました。

まばゆいリネンのベットではなく、

家畜の臭い漂う飼葉桶の中に置かれたその子が、私たちの救い主、王なのです。

誰も触れたくない、自分さえも見たくない、そんな治め難く汚ない私たちの心にも、

このクリスマスの主は、天の新しさを携えてやって来て下さる。

そしてそこに私を聖め導き治める王として座し、救い主となって下さるのです。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。士師記21:35

今年一緒に聞いてきた士師記の最後は絶望と嘆きです。

しかしこのクリスマスの幼子を「私の神、私の主」として心に迎えるならば、

希望となって響く言葉なのです。

今や、わたしには王がある。

聖書によると、偶像は争い事の中心に在り、真の神は平和の只中に君臨されるのです。

王の出現と共に、新しい何かが始まる。

頑迷さから解放され、混乱は平和と秩序そして愛に変わるのです。

シャローム!

行け、あなたのその力で。  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2019.10.27

すると、主は彼の方を向いて言われた。「行け、あなたのその力で。

あなたはイスラエルをミディアン人の手から救うのだ。

わたしがあなたを遣わすのではないか。」

士師記 6 章 14 節

 教会は(教団としても個人的にも)宣教しているのだろうか?との問いを持って、

この秋から東海聖書神学塾の開拓伝道論(大須教会・保浦宏規牧師)を学び始めました。

ある日の授業で、プロテスタントでも福音派と呼ばれる私たち教会が、

キリストの十字架の救いの伝道一本!から、ボランティアだの福祉支援だのと、

社会の必要にも積極的に関わるようになってきた。

その大きな契機は3.11かという話が出ました。

世界の福音派クリスチャンの会議で交わされた、ローザンヌ誓約には

「私たちは、教会的なゲットーから抜け出て、未信者の世界の中に充満して行く必要がある。」

という一節があります。

今様々な災害に見舞われる日本において、

個人の魂の救いと社会的な支援を行ってゆく事は分かたれるものではなく、

むしろ宣教活動は社会的活動も含むのだと、実動交えて確認されている。

そういうまるっと全ての生活領域に及ぶ神様の救い、

全人的救いの大切さの再認識が進んでいます。

ところで、「ゲットー」と言う言葉。これはドイツ語で、

一時期は欧州でユダヤ人を強制的に収容させた居住地区がそう呼ばれました。

今でも少数民族の住む地区、

引いてはマイノリティーが集う所として昨今は広い意味で用いられています。

聖書のギデオン物語は、ギデオンがゲットーから抜け出して、

彼はじめイスラエルが、神様を知らずに傷んでいる社会の許に出て行って、

そこに満ちて、本来の神様の平和を取り戻す。

そういった出来事として今聞く事ができるのではないでしょうか。

ヨシュアの死後、イスラエルは神に背き、約束の地であるカナンの偶像に心を寄せます。

ギデオンの時もバアルやアシェラに傾倒します。

神様は外敵ミディアン人を送り、7年間イスラエルは苦しみます。

しかしイスラエルが主なる神に叫ぶと、士師ギデオンを召し、さばきを行われます。

イスラエルは神から離れた現状が暴露され、悔い改めへと導かれるのです。

ギデオン軍は、主に在って、

ミディアン軍を角笛と松明を隠した壺を持って夜中に奇襲し、敵を錯乱させ追い払います。

それから40年平和が戻るのです。

ただギデオンが死ぬとまたすぐに背信へと走るのですが…

そのギデオンの召命は特徴的です。

イスラエルをたびたび襲う、ラクダを駆って略奪と商売に長けた半遊牧民族ミディアンの脅威に、

ギデオンは酒ぶねに隠れて小麦を打ち、細々と暮らすしかありませんでした。

そんな彼に、神様はそのゲットーから抜け出せ、イスラエルを救えと声を掛けられます。

先に御使いが彼を訪れて「力ある勇士よ」なんて呼びかける。

圧迫されて自信なく自分が小さく弱いと思っている者には、皮肉にも聞こえる。

今この生活を守るだけで精一杯、毎日を生きるだけで必死ですという中では、

一体何なのですか?と訴え出るような態度になるかもしれません。

約束の地での生活は、救われた後の暮らしは、こんなはずじゃなかった。

主が共におられるならば、どうしてですか?

私たちもそう叫びたくなる時があるでしょう。

信仰や教会を維持するだけで大変。むしろ先細りしている。

そんな中、ギデオンは主に叫びます。

「あぁ、主よ。どうすれば私はイスラエルを救えるでしょうか。」(士師6:15)

どうしたら救いの喜びが回復され、空いている席が再び埋まるのでしょうか?

閉塞感を覚える所に主は声をかけて下さいます。「行け、あなたのその力で」と。

力の源なる神は、信仰の生気を失いかけているギデオンの恐れを取り除いて平安をもたらします。

心を揺らして霊を注ぎ、与えられた信仰と賜物を活き活きと発揮できるよう、

主への情熱と力を再び奮い立たせて下さるのです。

緩やかな諦めムードの漂う日常を突き抜けて、

神との問答・祈りの内に、御心を求め、聴き従うという信仰を新たにされる。

そこに私たち教会は救いの実りを奪うものから守られ、平和の勝利を得るのです。

シャローム!


あなたが立つは聖所  (古知野キリスト教会牧師:岩田直子) 2019. 9.29

主の軍の将はヨシュアにいった。

「あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である。」

そこで、ヨシュアはそのようにした。

ヨシュア記5章15節


 岡本真紀先生が、今年一年研修退職され、

日本だけにとどまらず世界の教会とのその働き(特に高齢者対象)を見聞しておられます。

先日古知野も訪ねて下さり、報告とみことばを分かち合う時を持つことができました。

その訪問先の一つにハンセン病の国立療養所大島青松園がありました。

ここにも教会があります。

昨年50周年記念旅行で私たちが近江八幡で見物したのと同じウォーリスの建てた会堂で、

今まで述べ200名が集い、信仰に導かれたそうです。

惜しくも高齢化で2015年にその幕が降ろされました。

が、翌年から月1回の礼拝が再開されたそうです。

世の偏見や差別、心身共に痛めつけられ苦しむ中にも、主への賛美がありました。

その集いの愛唱歌は讃美歌90番「ここも神の」だそうです。

1.ここも神の御国なれば、天地御歌を歌い交わし、岩に樹々に空に海に、妙なる御業ぞあらわれたる。

 主がそこにおられるのならば、隔てられたその場も、どんな暗闇もまた神の国との証です。

 イスラエル民を率いて出エジプトの旅路を歩んだモーセが亡くなりました。

その後を継ぐはヨシュアです。

わたしはあなたに命じたではないか。

強くあれ。雄々しくあれ。

恐れてはならない。おののいてはならない。

あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。

ヨシュア記1:9

主なる神はヨシュアに語られます。

彼は神の民を率いて、ヨルダン川を渡り、約束の地に入り獲ってゆくのです。

最初の町は人類最古の集落として知られる城壁で囲まれた難攻不落の呼び名高いエリコでした。

戦の前夜、エリコにて抜き身の剣を持つ人が前方より歩み寄り彼に声をかけました。

約束の地に足を踏み入れたものの、高くそびえる壁に直面したイスラエルの民。

宿営を一人離れたヨシュアは何を思っていたでしょうか。

そこにあなたが立つのはどこか-それは聖所ではないか、と告げられるのです。

聖所は主なる神が居られ、その御言葉が語られ、聞かれる所です。

神様がおられる場所ならば、聖所は天国・神の国とも言えるでしょう。

神の国は神様の恵みの支配が及んでいる所です。

支配とは強い言葉で窮屈な感がするかも知れませんが、

漢字では「支える」に「配る」と書きます。

神様の御手によって支え守られ、天の宝物蔵が開き、

神の恵み・良き物が私たちに配られ、互いに恵みを味わう場です。

聖所は世とは区別された神の世界が切り込む場で、

人の考えや知恵では回っていません。

むしろ人知を超えた神の御心・ご計画が働く場です。

神の民イスラエルは、主の言われた通りに、

エリコの町を6日間1周ずつ沈黙と角笛の音(出陣だけでなく礼拝の合図)と勝鬨をあげたら、

エリコの町が崩れた!「ここも神の御国」であったのです。

 あなたは今、どんなエリコ〜恐れや壁を前にしていますか?

「あなたが立つは聖所」

神の国!主なる神のやり方の通りに物事が運び、

その眼差しで物事が見られる世界だ。

あなたのこだわり・主張を脱ぎ捨て、神の声を聴きなさい。これに従いなさい。

神様の救いの物語は、ある人にはとてもクレイジーで愚かに聞こえるでしょう。

しかし神様を信じて生きようとする人には、これ程確かな道はないのです。

私たち教会が信じる十字架なんて、クレイジーで愚かな物語の極みです!

ただ救い主イエス様の十字架はこの世のどんな知恵を尽くしても分かりませんが、

どんな愚かな者にも、神が用意し、受け取れる救いの道なのです。

ヨシュアに命じられた言葉は、神の民全員に告げられています。

今日も世には愚かに響くけれど、

神を求めて生きる者には救いの言葉が、今尚聖所で告げられるのです。

 強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。・・・

あなたの神、主があなたとともに進まれるからだ。

主はあなたを見離さず、あなたを見捨てない。

申命記 31:6

そして遂には、

 主がイスラエルの家に告げられた良いことは、一つもたがわず、すべて実現した。

ヨシュア記 21:45

と私たちは告白するのです。

シャローム!