本日の講壇20181125.)

聖書箇所:第1コリント人への手紙12章1427

説教題 『キリストのからだ』

 

■序論:この箇所では、キリストのからだである教会について、人のからだを例えに用いて述べられています。イエス・キリストを救い主として信じ、教会に属する一人ひとりには、賜物が与えられています(4-11)。キリストのからだの部分(器官)として、クリスチャンは、互いにどのような関係を保つべきでしょうか。

 

■本論

1、ひとつのからだである(12-13節)

 「一つの御霊によって」(13節)とあるように私たち全員は、同じ唯一真の神を信じています。互いの背景や出身地、性格や物事の捉え方などが異なっていても、神のみこころによって教会に導かれたのです。教会は、神の深い御摂理の中で、今日まで導かれてきた一人ひとりの集まりです。

 

2、それぞれの部分のたまもの(14-21節)

 人のからだの器官は全て必要なものであり、重要ではない、と思われるものでも大切な働きをしています。目で見る、耳で聞く、口で話をする、器官のそれぞれは代わりができるものではありません。目で食べたり聴いたりは出来ないからです。人に与えられた賜物にも同じことが言えます。

 

3、ひとつの部分、すべての部分(22-27節)

  からだの働きのためには、それぞれの部分が互い尊敬し合い、配慮しあう必要があります。弱さ、見栄え、格好の良い部分、見苦しい部分など、様々な違いがあったとしても、ひとつの体として機能していかなければなりません。体の各器官がそうであるように、神の体も一つとなることが必要です。

 

 

■結語 教会の中が、神に仕える一致した一つの群れとなることは、教会の重要な課題です。人のからだもキリストのからだも、神のみこころによって備えられているものです。神のからだの各部分が、与えられたたまものを生かし、他者を重んじ、互いに調和してかなければなりません。

 

聖書箇所:第1コリント人への手紙12章1427


12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:16 たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。