本日の講壇(2018.6.17.)
聖書箇所 ローマ人への手紙12章1~2節
説教題 『神にささげる礼拝』
■序論
みことばは、礼拝について私たちにどう教えているでしょうか。わたしたちにとってふさわしい、霊的な礼拝とはどのような礼拝でしょうか。礼拝の形式だけでなく、目に見えない私たちの信仰とたましいのあり方についても考えてみましょう。
■本論
1、ふさわしい(霊的な)礼拝(1節)
礼拝は主におささげするものです。それは、神に喜ばれる、聖なる、生きたささげものです。礼拝に出席することは、物理的に教会に足を運ぶことだけでなく、霊的に私たちのたましいが主の前に出ることです。
そして、礼拝は聖なるものです。聖(きよ)い、聖別されたものです。聖さは、神の御性質の一部であり、私たちも聖(きよ)くあることは神のみこころです(第一テサロニケ4章3節)聖別されたものは、聖いものと聖くないものを別にわけたものです。礼拝は聖なるもの、礼拝をささげる者も、聖い神の御性質にならう者となることが神のみこころです。
2、この世と調子を合わせない(2節)
神にささげる礼拝は①毎週の聖日にささげる礼拝と、②私たちの生涯全体を通して主を礼拝している信仰の在り方です。この世と調子を合わせず、神の国と神の義を第一とすることは私たちが日々の生活全体を通して主を礼拝することを現わします。この世の心遣いは福音書の中では、芽が出て実を結ぶことを妨げる茨にたとえられています。(マルコ4章18-19節)
私たちは神のみこころは何かを知るために、心を新たにして自分を変えなければいけません。環境が変われば、あの人が変われば、と周囲の変化を望むのではなく、自らの内側から変わらなければいけません。この世の方に流されないために、神が喜ばれることは何かを見分けるために、霊的な洞察力が必要です。神のみこころを仰ぎ見る、神を第一とする信仰の歩みを目指しましょう。
■結論 わたしたちは誠実に礼拝をささげます。また、神に喜ばれることを常に見分けていくことによって、聖別された、礼拝者として備えられることができます。真実な礼拝をささげることを主が願っておられます。