本日の講壇(2018.3.25) 聖書箇所 ルカの福音書23章32~43節 説教題 『父よ、彼らをお赦しください』 ■序論 今年も受難週を迎えた。私達の罪の身代わりに十字架で死なれたイエス・キリストを仰ぎ、感謝しよう。「キリストの十字架、我がためなり」と告白しよう。 ■本論 1.十字架につけられるキリスト(32~34節) ローマ帝国の統治下、ユダヤ社会の死刑執行はローマ総督の最終判断に委ねられていた。総督ピラトはユダヤ人たちの要求を受け入れ、キリストを十字架につけるために彼らに引き渡した。祭りの期間に、異例とのこととして死刑執行がなされた。ユダヤ当局はふたりの死刑囚をキリストと並べることによって、まるでキリストが極悪人であるかのように人々にさらした。しかし、キリストは彼らの罪をすべてご存知の上で、彼らに赦しと神のあわれみを祈った。ユダヤ人たちの罪と同様、私達の罪をも赦して下さるキリストを信じよう。 2、あざけられるキリスト(35~38節) キリストはすでに鞭打たれた重傷の体で十字架にかけられた。キリストは弟子たちに裏切られ、「指導者たちも」(35節)、「兵士たちも」(36節)、「札も」(38節)がキリストをあざけった。キリストは十字架からおりられなかったのではなく、私達の罪のために十字架の苦しみを一身に受け、すべて耐えられたのである。一度も罪を犯したことがない神の御子を十字架にかけることが、全人類が罪から救われる唯一の方法である。当時、そこにいれば私達も同じようにキリストをあざけっていただろう。我が内にある罪を悔い改めよう。 キリストの十字架の横からもあざける者がいた。二人の死刑囚は不満や憤りをキリストにぶつけていた。しかし、あざけりにも黙って耐え、迫害する者のために祈るキリストの姿を見ることによって、ひとりの死刑囚は、心が変えられた。彼は神を恐れないもう一人をたしなめ、自分が当然の報いを受ける罪人であることを認めた。そして、キリストに天の御座において彼のことを思い出してほしいと願った。キリストは彼の信仰告白を受け止め、彼を神の国へと招き入れる約束をした。キリストによる神の国の招きと罪の赦しを受け取ろう。 ■結論 Ⅰペテロ2:22~25 キリストの十字架だけが私達を罪、死、裁き、苦しみから解放する。羊のために命を捨てて下さる、良き牧者キリストを信じ、従おう。 |