聖書箇所 Ⅰヨハネ3章1~6節
本日の講壇(2018.1.28礼拝)
聖書箇所 Ⅰヨハネ3章1~6節
説教題 「私たちは神のこどもです」
■序論
救われて神の子どもとされた私たちは、神の内にとどまり、キリストが歩まれたように自らも歩むように召されている。神のこどもは、キリストのように歩むことを求め続け、実践し続けることで信仰を成長させていただこう。
1、神の子どもとされている(3:1~3)
クリスチャンは驚くべき恵みを受けている。それは神の愛の証として“神の子ども”とされているという事実である。神の子どもとして今あることをどれくらい感謝しているだろうか。神の子どもとされる恵みを認識しない者たちがいるのは、その価値が分からないからである。神の子どもとしての恵みの特権を認めることができるのは、神を知る者だけの賜物である。では、神の子どもとはどのような存在であろうかそれは。再臨のキリストに見えた時に、キリストに似る者とされる存在、キリストと同じ性質を持つ者へと変えられる確かな約束をもらっている存在である。再臨のキリストと見えるために、今、私たちは、神の子どもとして、キリストのように清く歩む者、キリストのように歩む者として立っていこう。
(ローマ8:29、1ヨハネ2:6)
2、神の子どもとして生きる(3:4~6)
神の子どもとして生きること、それは、キリストが清くあられるように、自分を清くして歩むことである。そのためには、自分の罪に向き合い、罪の解決をいただかなければならない。ヨハネは、罪とは神が全人類に啓示された生き方から背くこと、神のことばに背くことだと言っている。私たちは自分の正しさに立つのではなく、神の義を信じ、神の前に示された罪を悔い改めて新しくされよう。キリストは罪のないお方として、私たちの一切の罪を負い、赦し聖めて下さる。私たちは、救い主キリストの内にとどまるときに、神の子どもとして、罪を犯さない者とされる。それは、罪を罪だと承知しながら、常習的に罪を犯すことから守られるということである。罪に弱い私たちは、罪を犯さない生き方はできない。ただ、神を仰ぎ、キリストの内にとどまり、御言葉に服従して生きるときに、罪を犯すことから守られるのである。神の子どもは、キリストの内にとどまり、謙虚に生きる者である。
■結論
(ヨハネ1:21、3:16)私たちは神の愛ゆえに神の子どもされている。だからこそ罪に対して死に、キリストの内に歩んで行こう。