本日の講壇2017820

 

聖書箇所 ヨハネの福音書9章1323

説教題 『目が開かれる人生』

■序論

信仰は聖書を通して、神様の視点を確認し、神様が望んでおられる道を信じて進むことである。イエス様と出会い目が開かれた時から人生は始まる。

 

1、「私はいま見えているのです」(13~15節)

シロアムの池で泥を洗った男は、生まれて初めて世界を見ることができた。その姿に困惑した人々はパリサイ人のところへ連れて行った。というのは、この癒しが安息日に行われたからである。パリサイ人らは彼に対して繰り返し尋問した。彼は目が見えるようになった経緯を端的に説明した。しかし、パリサイ人らは彼の言うことを信じなかった。彼はイエス様と出会い、視力を得ることになったが、私達もイエス様を信じて、恵みを経験すると今までなかったものが与えられる。神様のわざが私達にもなされることを信じよう。

 

2、「あの方は預言者です」(16~19節)

パリサイ人らは安息日に医療行為をするような者は、神から出た者ではないと断罪した。しかし、イエス様は愛によって律法を全うすることを教えられた。つまり、安息日に神様を礼拝することと病気を癒すことは何ら矛盾はしない。ユダヤ人らの間にもイエス様の正体について意見が分かれた。そこで、イエス様について尋ねられた彼は、イエス様を預言者だと答えた。しかし、イエス様は人間の預言者と並べられるお方ではない。イエス様は神の御子キリストである。「使徒信条」を確認し、イエス様に対する信仰を点検しよう。

 

3、「あれに聞いてください」(20~23節)

パリサイ人らは彼の両親を呼び出して尋問した。彼は元々目が見えるのではないかと疑ったからである。しかし、両親は彼が生まれつき盲目だったが、どういうわけか今は見えるようになったことを説明した。そして、「あれはおとなです」「あれに聞いて下さい」と繰り返した。彼は両親の姿を初めて見るが、両親はユダヤ人らを恐れて、病を癒して下さったイエス様への感謝もなく、突き放すような言い方をした。本来、信仰は自分の口で告白するものである。どんな状況でも自分が持っている信仰を大胆に語れるように備えよう。

 

■結論

イエス様と出会い、目が開かれた人生は、かつてなかった神様の恵みをいただける。聖霊の助けをいただきながら、自分の口で信仰を告白しよう。

聖書箇所 ヨハネの福音書9章1323
9:13 彼らは、前に盲目であったその人を、
パリサイ人たちのところに連れて行った。

9:14 ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、
安息日であった。

9:15 こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、
どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。
「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。
私はいま見えるのです。」

9:16 すると、パリサイ人の中のある人々が、
「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。
しかし、ほかの者は言った。
「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」
そして、彼らの間に、分裂が起こった。

9:17 そこで彼らはもう一度、盲人に言った。
「あの人が目をあけてくれたことで、あの人を何だと思っているのか。」
彼は言った。「あの方は預言者です。」

9:18 しかしユダヤ人たちは、目が見えるようになったこの人について、
彼が盲目であったが見えるようになったということを信ぜず、
ついにその両親を呼び出して、

9:19 尋ねて言った。「この人はあなたがたの息子で、
生まれつき盲目だったとあなたがたが言っている人ですか。
それでは、どうしていま見えるのですか。」

9:20 そこで両親は答えた。
「私たちは、これが私たちの息子で、生まれつき盲目だったことを知っています。

9:21 しかし、どのようにしていま見えるのかは知りません。
また、だれがあれの目をあけたのか知りません。あれに聞いてください。
あれはもうおとなです。自分のことは自分で話すでしょう。

9:22 彼の両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れたからであった。
すでにユダヤ人たちは、イエスをキリストであると告白する者があれば、
その者を会堂から追放すると決めていたからである。

9:23 そのために彼の両親は、「あれはもうおとなです。
あれに聞いてください。」と言ったのである。