本日の講壇(2017.8.6)
聖書箇所 ヨハネの福音書9章1~12節
説教題 『世の光であるキリスト』
■序論
イエス様は絶望の中にも希望、暗やみに光を与えて下さるお方である。イエス様とイエス様のみことばが私達の心を照らして下さることを信じよう。
1、「だれが罪を犯したからですか」(1~5節)
イエス様と弟子達は道ばたにいる「生まれつきの盲人」を見た。彼は働くことができずに物乞いをしていた。弟子達は彼の病と罪との因果関係をイエス様に尋ねた。ユダヤ社会では病気は本人かその両親の罪の結果だと考えられていた。しかし、イエス様は因果応報を否定した。弟子達は彼の病の原因を尋ねたが、イエス様は神様の目的について話された。神様のみわざは、イエス様との出会いから始まる。人生の目的を明確にするにはまことの光が必要だからである。神様が私達の人生の目的を示して下さることを信じよう。
2、「シロアムの池で洗いなさい」(6~7節)
イエス様は地面に唾を吐いて、泥をつくって彼の目に塗られた。古代でも唾は治癒能力があると信じられていた。イエス様は目が見えない彼が混乱させず、医療行為をしていることが分かるようにした。そして、その泥をシロアムの池で洗うように言った。彼はその池で洗った結果、目が見えるようになった。シロアムの池はイエス・キリストを現わし、泥を洗う行為はバプテスマを象徴している(3:5)。イエス様と出会い、みことばを信じて従う者はすべての罪が洗い流され、きよめられ、霊の目が開かれることを信じよう。
3、「私がその人です」(8~12節)
目が見えるようになった彼は帰って行った。これまで暗やみの世界で生きてきた彼にとって、目の見える光の世界はどんなに感動だったことだろうか。しかし、以前から彼のことをよく知っていた人々は、彼の変化に驚きを隠せなかった。本人なのか他人の空似なのかを聞かれ、彼は「私がその人です」と答えた。彼はイエス様が彼にして下さったことを話した。まさに神様のわざが彼に現わされた証である。彼は暗やみから光の人生に変えられた。イエス様を信じて、みことばに従う人は全く新しい人生が始まることを信じよう。
■結論
全人類の罪を十字架の血潮で洗い流すためにイエス様はこの世に来られた。イエス様のみことばに従い、まことの光に照らされつつ、今週も歩もう。
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