聖書箇所 ナホム書3章1~19節 説教題 『我がとりでなる神』 ■序論 神は裁きや滅びを目的とせず、民が悔い改め、赦しと回復と希望を与えようとしておられる。神を信じ、従う者には、とりでとなって助けて下さることを信じよう。 1.ニネベは滅びた(1~7節) 「ああ」(1節)ニネベに対する宣告は不吉な嘆きによって最終章に入る。「流血の町ニネベ」は敵や捕虜に対して残虐な扱いをしてきた。しかし、今度はニネベに敵が迫り(2節)、敗北する姿が描写されている(3節)。そして、暴虐な行いとともに偶像礼拝による淫行を繰り返してきたニネベが、辱められる遊女にたとえられている(4~7節)。神の前に罪を悔い改めない者に対する裁きは恐ろしく厳しい。ただ、ニネベは自らの行いを刈り取ることになったが、ニネベを滅ぼした者らもまた裁きを受け滅んだ。神は人が人を裁くことを許しておられないことを覚えよう(マタイ7:1~2)。 2、傷は癒されない(8~19節) 「ノ・アモン」(テーベ)とは上エジプトの首都である。エジプトは同盟国クシュ(エチオピア)から強力な支援を受けていたが、難攻不落といわれたノ・アモンも陥落した(BC662年)。しかもそれを滅ぼしたのはアッシリヤだった。その約半世紀50年後にはニネベが陥落した(BC612年)。ニネベの最後のあがきも虚しく、町は火で焼き尽くされた(14~17節)。ニネベは数世紀後まで、所在地不明となるほどに崩壊したが、周辺諸国は同情せず、皮肉にも喜ぶ姿が、その傷の深さを物語っている(18~19節)ニネベに対する宣告を通して、罪を悔い改めない者の結末を我が身の教訓としよう。 神を恐れない人生と神に頼る人生は全く対極にある。コラの子たちの賛美を通して、たとえ四面楚歌のような状況でも、神は、神を信じ従う者を助け、守るお方であることが歌われている。神は、神に信頼する者を、罪人と一緒に滅ぼすことをしない。たたえ信じる者が少雨であっても、神はとりでとなって、彼らを守るお方である。罪と暴虐を行う者が神の裁きを受けることは、神を恐れる者にとって慰めとなる。少数民族であるイスラエルを通してそのことが証されている。今の時代も、罪を悔い改め、神の民とされた者は、神の助けを経験できることを希望としよう。 ■結論 Ⅰペテロ1:21 神の助けと救いは神が遣わされた御子イエス・キリストにこそある。神を信頼する者に、神はどんな時にも「我がとりで」となって下さることを信じよう。 |