聖書箇所 ヨハネの福音書4章15~26節 説教題 『まことの目が開かれる礼拝』 ■序論 礼拝は私達の霊の目を開くときである。毎週の礼拝が、私達の信仰を新しくし、神様の御業に期待して1週間をスタートさせる。霊とまことによって礼拝を献げよう。 1、サマリヤの女の渇き(15~18節) イエス様が与える水は➀決して渇くことがない➁その人のうちで泉となる③永遠のいのちへの水がわきでる、女性はこの水を求めた。ただその動機は、ここまで水を汲みに来たくない、人と顔を合わせたくないという心理も見え隠れする。イエス様は突然話題を変えた。この女性は5度離婚し、今は夫ではない男と暮らしている。偶像礼拝を重ねたサマリヤ人の罪を象徴しているかのようである(Ⅱ列王記17:24)。飽きれば別のものを求めるのは、本能の赴くままに生きる罪人の姿である。 自分の罪と魂の渇きを認める人は、決して渇かないいのちの水を求めよう。 2、サマリヤ人の礼拝(19~22節) サマリヤの女性は私生活までも見通しているこの方を預言者だと思った。彼女は偽らずに自分の罪深さを認め、神様を礼拝することに心を向けた。それは全焼のいけにえを捧げるためである。しかし、女性はどこで礼拝すればいいのか場所が分からない。というのは、サマリヤ人はゲリジム山で、ユダヤ人はエルサレムの神殿で礼拝していたからである。イエス様と出会った人は、神のこどもとされ(1:11)、父なる神様を礼拝できる(マラキ1:11)。新約時代の礼拝は、民族も、場所も関係ない。すべての人が、イエス様を通して、父なる神様を礼拝できる恵みを感謝しよう。 3、まことの礼拝者(23~26節) まことの礼拝は、全焼のいけにえをささげる必要はない。それは、イエス様が十字架で自らをいけにえとして献げて下さったからである。霊的な礼拝とは、賛美、祈り、信仰告白、感謝の献げものを通して、自分自身を神様に献げることである。そして、その礼拝を通して、神様との関係を築き、ますます神様への信仰が深められるのである。意味が分からないまま礼拝をするのではなく、イエス様を信じて、救われ、神のこどもとされたゆえに、自由な喜びをもって献げる礼拝を神様は望んでおられる。イエス様のことをもっと知ることによって、まことの礼拝者となろう。 ■結論 今日もまことの礼拝を捧げよう。教会は御言葉と聖霊の内に一人一人を礼拝者、宣教者として養い、育てる。礼拝の場から宣教者として今週も派遣されよう。 |
聖書 ヨハネの福音書4章15~26節
4:15 女はイエスに言った。「先生。私が渇くことがなく、