本日の講壇

 

聖書箇所 ルカの福音書9章57~62節

説教題  『神の国にふわさしい人』

■序論

『神の国』には二つの側面がある。一つはやがてキリストの来臨によって実現する神の支配する新しい世界である。もう一つは、私達の内面において実現するもので、罪と自己中心から、キリストを王とし御言葉に従う神の子とされる。私達は神の国をいただいた者としてふさわしい歩みをするように導かれている。

 

1、自主的について来る人(57、58節)

ある人が自主的にキリストについて行くことを言い表したが、主イエスの目には足りないものがあった。主イエスは「人の子には枕する所がない」と言われたが、これは、いつ死ぬかも分からない兵士の覚悟を持って福音を宣べ伝えている主イエスの覚悟である。主に自主的に従う者には、主イエスの覚悟を己の覚悟とすることが求められる。表面的な口だけの自主性ではなく、主イエスの覚悟と姿勢をも倣う者にこそ神の国はふさわしい。(ルカ18:22、マタイ21:31)

 

2、召されてついて来る人(59、60節)

主イエスに言葉をかけられた時にどう答えるのか、そこにも信仰が現れる。「わたしについて来なさい」とは弟子となって、共に神の国の福音を宣べ伝えてほしいとの主イエスの召しである。その時に、父の葬りをさせてほしいと答えたその心は、主イエスの言葉や使命よりも、自分の願いや社会通念を第一としている。主イエスは「死人」という言葉を用いることで、世に永遠のいのちを与っていない「死人」が多くいるのに、急がなくてよいのかと迫っておられる。福音を伝える事に関しては、悠長に後回しにすることはできない。神の国が近づいているのだから急いで福音を伝えなければならない、その迫る思いを共有する者こそ主の弟子であり、神の国にふさわしい者である。(Ⅱテモテ4:2)

 

3、自主的に弟子になる人(61、62節)

従うと明確に言い表し、自主的に主イエスの弟子となる信仰は素晴らしいものです。しかし、従うと言いながら家族へのいとまごいを願うその心は二心である。家族を蔑にするという意味ではなく、あれも、これも得ようとする者は結局は一番大切な福音宣教を全うすることは出来ない。神の国にふさわしい者とは、神の御心を第一として神の国を伝えることに謙虚な者である。(ヤコブ1:5~8)

 

■結論

神の国にふさわしい者となるために、主の覚悟を己の覚悟とし、福音を伝えることを第一とする中で、二心から解放される者となろう。(ピリピ3:13,14)

聖書 ルカの福音書9章57~62節

9:57 さて、彼らが道を進んで行くと、ある人がイエスに言った。
「私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついて行きます。」

9:58 すると、イエスは彼に言われた。
「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」

9:59 イエスは別の人に、こう言われた。
「わたしについて来なさい。」
しかしその人は言った。
「まず行って、私の父を葬ることを許してください。」

9:60 すると彼に言われた。
「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい。あなたは出て行って、神の国を言い広めなさい。」

9:61 別の人はこう言った。
「主よ。あなたに従います。ただその前に、家の者にいとまごいに帰らせてください。」

9:62 するとイエスは彼に言われた。
「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません。」