ルカによる福音書  17章 1〜10節

                       

 プライドはとても扱いにくい罪です。イエスさまには全く無かったものです。人間が神さまに反抗した時から始まったものです。(創世記3章)「プライドを傷つけられた」と言って怒る人がとてもたくさんいます。イエスさまの祈りは「父よ、彼らをお赦しください。彼らは自分のしていることが分からずにいるのです。」でした。赦しと、感謝と、祈りがプライドに勝つ方法です。自分の心が傷ついた時に、怒るのは当たり前ですが、信仰者はその中にも感謝を見い出します。神さまが与えてくださっているものに目を留めます。見えなかったものを見ることができた時に感謝の思いが与えられます。そして、私たちは「祈る」ことができるのです。自分の問題を相談できるお方がいつもいてくださるのは大きな恵みです。神さまは祈りの中で、何が大切なことなのか、何が問題なのか、自分はどうすべきなのか、祈りに答えてくださいます。プライドというやっかいな罪があなたの心から追い払われますように。そうすれば、もっと平安な喜びに満ちた信仰生活が送れることでしょう。


ルカによる福音書  22章 54〜62節 

「主は振り向いてペトロを見つめられた」(61節)この時のイエスさまの目にペトロに対する非難や裁きがあったとしたら、ペトロは二度と立ち直れなかったでしょう。でも、この時のイエスさまのまなざしが優しかったから、赦しに満ちていたから、ペトロは「外に出て、激しく泣いた」のです。(62節)自分の弱さに泣いた。イエスさまの優しさが心にしみて泣いた。そしたら、涙の底から新しい決意が湧き出てきました。「主よ、もう一度、もう一度だけ用いてください。今度は死を恐れません。」イエスさまの愛は人を生かします。イエスさまのように人を愛せる人はいません。でも、そのイエスさまの愛に触れた者は、今までと同じ生き方をすることはできません。本物の愛に出会ってなお、冷たい生き方をすることは困難でしょう。イエスさまは愛するために来てくださいました。私たちの心を癒すために来てくださいました。冷たく冷えた心が、主の愛に触れていのちを回復するのを何度も見て来ました。神の言葉が私たちの心に響くのです。聖書の言葉が、祈りの中で与えられる御言葉が、何度も私たちを絶望から立ち上がらせました。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。」(コリントの信徒への手紙U 4:8,9)イエスさまが共にいてくださるからです。だから、主と共に私たちは立ち上がることができるのです。


マタイによる福音書   6章 33〜34節

文芸春秋12月号に読書家52人生涯の一冊「死ぬまでに絶対読みたい本」の記事が目にとまりました。その中に犬養道子さんが「聖書」を挙げておられます。みなさんはいかがですか。マタイ福音書は、イエス様が弟子たちに丘の上で、「思い悩むことはない!」と語られたことを伝えています。空の鳥も、野の花も、みんな神様によって生かされている。ましてやあなたたちにはもっと良くしてくださらないはずがあろうかと語られました。私たちは自分で生きているのではありません。生かされているのです。ですから、たとい、四方八方がふさがり、追い詰められ、行き詰まったと思っても、必ず天が開かれています神様がおられることを知ってください。
そして、この神様はイエス・キリストを私たちのもとに遣わして下さいました。イエス様はそのご生涯を通して「インマヌエル」(神われらと共におられます)(マタイ123)を教えてくださいました。人生の一番の不安は誰もそばにいないことです。神様は天におられ、そして私たちのそばにもいてくださると信仰により知ることができるのです。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(6:34)と言えるのです。このイエス様のおことばを信じて歩みましょう。


ヨハネによる福音書  1章 1〜13節 

「見よ、神の子羊」とバプテスマのヨハネは叫びました。イエスさまが神さまから与えられた犠牲の子羊だと知っていたのです。旧約聖書の時代の罪の赦しのための身代りの犠牲が子羊でした。ヨハネは何度もイエスさまのことを「神の子羊」と言いました。それは、ヨハネの信仰の告白ではなかったかと思います。ヨハネにとって、イエスさまは人々の多くの罪や汚れを赦して下さる方だったのです。あなたにとってイエスさまはどんなお方ですか。「私にとってイエスさまは、友です」とか、癒しです、信仰です、希望、愛、真理、光といろいろあるでしょう。「わたしにとってイエスさまは主です」つまり主人なのです。人生の転機で判断に迷う時にいつも祈り続けてみこころがどこにあるのか尋ね求めました。私の日々を導いて下さるのは主であるキリストです。あなたのキリストはいかがですか?ヨハネはイエスさまを「神の子羊」と呼びました。ヨハネにとって最大の関心事は「罪の赦し」だったのです。人々の罪と自分の罪深さとを毎日見てきたヨハネでした。「こんなに罪深い人間が救われるには特別な犠牲が捧げられないと救われることはない。それは、神のひとり子の尊い犠牲の血によらなければ赦しはあり得ない。」と彼は考えました。赦しが欲しかったヨハネにとってイエスさまは「神の子羊」だったのです。


ルカによる福音書  2章 1〜12節

宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。」(7節)との御言葉から、イエスさまがお生まれになった時、彼らが見捨てられていたことに驚きます。普通は長旅をすることは危険なので、故郷に帰る場合は、親戚や同郷の者達と一緒に帰るのが当時の習慣でした。しかし、不貞の子を宿したと噂されたマリア、そのような妻をもらったヨセフはベツレヘムまで孤独で危険なつらい旅をしなければなりませんでした。イザヤが預言したように、「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。」(イザヤ53:3)との御言葉がイエスさまとその家族に成就したのです。十字架に掛かって死ぬために来てくださったイエスさまは、その家族も含めて茨の道を歩まなければならなかったのです。人はそれぞれ自分の十字架を負っています。自分から選んだ重荷もあれば、人から負わされた重荷もあります。そして、神さまから与えられた重荷もあるのです。神がその人に託し賜うた十字架です。それは苦しみや痛みを伴う試練です。しかし、それを負って歩むことが神さまの御心であるのならば、「あなたの御心が私になりますように」(マタイ26:42)と祈って、イエスさまの歩みに近づかせていただきましょう。クリスマスはマリアとヨセフとイエスさまが最初の十字架を負ってくださったから私たちに与えられたのです。私たちも日々、十字架を負いながら、聖められてゆきましょう。


ヨハネによる福音書  2章 1〜12節

イエスさまは、母マリアに言われました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。」と。それは冷たい言葉です。でも母マリアはこの言葉の真意を知っていました。しかし私たちは、ともすると同じ言葉を聞くことがあります。それは、当然のように神さまに要求をする時です。「私は神さまを信じました。だから」とか「私はこんなに熱心に奉仕しています。だから」「こんなに熱心に祈りました。だから」と要求を祈る時に、私たちはイエスさまの拒絶に出会うのです。マリアはイエスさまの思いを知っていました。だから、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください。」と召し使いたちに言ったのです。マリアは「イエスさまの御業は恵みとして現れる」ことを知っていたのです。恵みを受ける者は、低き者であり、待つ者なのです。「恵みの水は低きに流れる」これが聖書の原則です。心の思いの高ぶる者には神さまの恵みは届きません。私たちの人生は私たちが作る以上に、神さまが彩られるのです。それは美しい刺繍のように、裏から(人の側から)見れば糸はばらばらに見えます。しかし、表から(神の側から)見れば、その絵は鮮やかです。私たちの人生は神さまによって完成されるのです。


ヨハネによる福音書  3章 1〜21節

イエスさまはクリスチャンになること、福音(罪の赦しと復活)を信じて救われることを「新たに生まれる」(3節)と表現しています。「新たに」は「上から」とか「再び」とも訳されます。つまり、イエスさまを信じる人生は、「生まれ変わったような人生です」と言えることなのです。神さまを信じている生き方と神さまを信じていなかった頃の生き方と、価値観がどんなに大きく変えられたことでしょう。昔は自分が得をすること、楽をすることばかり考える自己中心な生き方をしていました。しかし今は、考えの中心に神さまを意識しています。「イエスさまが自分をどう思っておられるだろうか。」「神さまは私に何と言われるだろうか」といつも意識しています。聖書、信仰書を読んだり、祈ったり、いろんなことを考えたりする中で神さまの恵みに気付かされることがあります。そんな時、思わず主を賛美し感謝しています。罪人の私たちに、神さまの恵みと導きはあまりにも大きいのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」(ペトロの手紙T 1:8,9)あなたは救われていますか?もしまだでしたら、今日イエスさまを心に受け入れませんか。神さまと共に歩む人生は、たくさんの恵みに気付かされる喜びの人生です。


ヨハネによる福音書  4章 1〜14節

イエスさまは「サマリアを通らねばならなかった」(4節)。それは、義務や規則によらず、ただ魂の救いを求める愛からの行動でした。一人の悩めるサマリアの女の救いのために、イエスさまは普通の旅行の道を通らないで、普通の旅行の時間帯も無視して、世間の常識も無視して、一人の魂に出会ってくださったのです。体はとても「疲れて」(6節)主は座り込んでいました。そこまで一人の魂を追い求めてくださる主だから私も救ってくださったのです。この女が救われたとき、主は食事も忘れるほどに喜んでくださいました。(32節)これが救霊愛です。人の魂の救いを求める愛です。その救いを喜ぶ愛です。それは自然に出てくる感情ではありません。神さまが救われているクリスチャンに、神さまのために働く意思(これも聖霊による恵みです)のあるクリスチャンに与えてくださる愛なのです。この愛が福音を世界中に広めました。どんなに苦労しても宣教師の先生方は、異文化の中で誤解されながらも、キリストを伝えました。どんなに貧しくても田舎で伝道し続けた牧師達がいます。「献身(主に身を捧げること)したから、当たり前だ。」その一言では片付けられない苦労がありました。主のために流された汗と涙と祈りは主の御前に覚えられています。いつか主の前に立った時に、「良い忠実なしもべよ」(マタイ25章)と呼んでくださる主の御声を聞くのです。地上の生涯は短く、はかない。今日私は主のために何をしたのだろうか。一日の終わりに自分に問うていただきたい。


ヨハネによる福音書  4章 15〜30節 

「女は水がめをそこに置いたまま町に行き」(28節)とあります。昼の一番暑い時に水をくみに来ていた女性です。他の人に会いたくない、後ろめたい所のある女性でした。自分の罪に目を向ける時には、誰しも暗く孤独になります。罪は神さまに背を向け、人にも背を向けさせる力があるのです。しかし、この女性はイエスさまに出会いました。魂の一番深い所にイエスさまが触れてくださったのです。この女性にとって、それは「誰を頼れば良いのか?誰が私を受けとめてくれるのか?」という魂の叫びでした。人間には言えない答えをイエスさまは大胆に答えられました。「私だ」(原文は「私はある」で神がご自身の存在を現す表現)イエス・キリスト。この女性は頼るべきお方を見い出しました。そしてあまりのうれしさで、水をくむのも忘れて人々の所に駆け出していたのです。「キリストさまです。キリストさまがこの町に来てくださいました。さあ、みんな来てください。この方に会ってください」この女性は隠れて生きていました。暗い人生でした。しかし今やキリストは彼女の光となってくださったのです。キリストを信じて、キリストに祈り、この方に頼り、この方と共に生きて、初めてこの女性は平安を得ました。神さましか癒せない魂の飢え渇きをイエスさまは癒してくださいます。あなたは誰に(何に)救いを求めますか?


ヨハネによる福音書  5章 1〜18節

38年間病気であった人がイエスさまに癒されています。でも、どうしてこの男の人だけが癒されたのでしょうか、病気の人は他にも大勢そこにいました。はっきりした理由はわかりませんが、「主がその人をあわれまれた」のは確かでしょう。その人は善人ではありませんでした。恩をあだで返すような人でした。その事も主はご存知でした。それでもあえてこの人をあわれみ、選び、癒してあげたのです。読者である私としては、「いつかこの人がイエスさまの優しさに気づいて、心を入れ替えてくれたらいいなぁ」と思うのですが、難しいでしょうね。現実にも人の善意が通じないことがよくあります。それでも愛が冷めないのは聖霊がキリストの愛を私たちの心に注いでくださっているからなのでしょう。しかし、省みて自分はこの男とどう違うのだろうかと考えてしまいます。主にどれほど役に立っただろうか、神さまにお世話になりっぱなし、助けられてばっかりではないかと思うのです。兄弟姉妹に恵まれ、神さまに恵まれて歩んできました。失敗の多い歩みでした。にもかかわらず、神さまは今も愛してくださっています。主に賛美と感謝を捧げます。出来ることはそう多くはありませんが、今日も主にお仕えしたいと願います。信仰歴○○年、この方(イエス・キリスト)に出会えて良かったと今も感謝しています。


ヨハネによる福音書  6章 16〜21節

嵐の海の上を歩いて来られるキリストは何を意味しているのでしょうか。人生の海の嵐に悩まされている私たちの姿はこの弟子たちと同じです。その嵐の中で、一生懸命嵐と戦い、苦闘している弟子たちは、様々な問題に関わりながらも、前進して行こうとする私たちの姿です。しかし、時に平安を失っている私たちの姿がここに示されています。イエスさまはそんな私たちの所に歩いて来てくださるのです。まるで、見るべきものは多くの問題と困難の嵐ではなく私(キリスト)であるかのように。弟子たちはイエスさまを船の中に迎えます。すると、船は間もなく目指す地に着いたのです。私たちの心にイエスさまを迎えましょう。「主よ、私の心に住んでください。イエスさま、私の心を治めてください。」と心から祈りましょう。主が平安と冷静さを与えてくださいます。主は私たちの心に御言葉を語ってくださいます。「わたしだ。恐れることはない。」と弟子たちはこの時イエスさまの御言葉を聞きました。その後の人生の様々な問題の中で、彼らはこの言葉を聞いたことでしょう。「わたしだ。恐れることはない。」と言われるイエスさまに目を向けて、心にお迎えした時に、弟子たちの心は落ち着きました。あなたの心に主イエスをお迎えして、主があなたの心に住んでくださるならば、なにものにも動じない平安があなたの心に訪れます。


ヨハネによる福音書  6章 22〜40節

「信仰はからし種のように成長するものだ」とイエスさまは言われました。(ルカ13:19)信じ始めた頃は、その信仰は小さく、弱く、浮き沈みの激しいものです。しかし、ヤコブの手紙4:8にあるように、「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます。」との真理に従って、御言葉に教えられ、みこころを求める生き方はその人の信仰を大きく成長させます。今日の聖書の箇所に出てくる群衆は、ご利益を求めてはいましたが、イエスさまを信頼してはいませんでした。イエスさまを信頼して生きるのでなく、目先の利益にのみ目が向いていたので、その信仰はその人を生かす力とはなりませんで
した。
私たちの心には神さましか満たすことのできない空間があります。イエスさまがその心に住んでいないならば、その心はむなしく、満たされない思いがいつも心にあります。「何のために生きるのか、何を目指して生きるのか。」答えはキリストにあります。イエスさまを心に受け入れて初めて見えてくる生きがいがあります。その答えを見つけるまで、人の心は平安を得ません。「イエスさま、あなたを信じます。私の心に住み、私を導いてください。」と祈りましょう。主と共に歩む人生は、平安と喜びに満ちています。


マタイによる福音書 27 45〜56

イエスさまは十字架にかかられる前にゲッセマネの園で、「この杯を私から過ぎ去らせてください。」と祈っておられました。この杯とは、神の怒り、裁きの象徴を表しています。聖い神さまは罪人を赦したりはしません。旧約聖書において、ユダヤ人も異邦人も罪を犯す時には皆殺しにされています。決して罪と妥協しない神さまが、人類に対する燃える怒りをイエスさまに与えらたのです。イエスさまが必死の思いで避けようとした杯は、それを受ける時に、神に裁かれ、捨てられ、滅びなければならない、神との断絶を与える杯だったのです。父なる神さまだけが、支えであり、導きであり、命であったイエスさまにとって、それはただ単に死ぬことよりも恐ろしいことでした。しかし、イエスさまは私たち一人一人の救いのために、その杯を受けてくださいました。その時に神さまに捨てられて絶望の中に置かれたイエスさまは、天に向かって大声で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばなければならないほどの苦しみでした。父なる神さまの愛が見えなくなる、分からなくなる、それは神に造られた人にとって、絶望的なことです。私たちは信仰によって、神に生かされ、強められ、導かれています。その恵みが与えられたのは、イエスさまが私たちの身代りに十字架にかかってくださったからです。十字架の愛は、私たちに対する神さまの究極の愛の表現なのです。感謝です。


ヨハネによる福音書  21章 15〜19節

イエスさまは復活の後、「ご自分が生きていることを、…40日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1:3)のです。弟子たちが集まっている所に現われ、「平安あれ」と彼らを励ましたり、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスを諭したり、弟子たちと共に何度も食事をなさいました。この40日間は特別な恵みの期間でした。、主は弟子たちに現われて、彼らを励まし、教え、導き続けたのです。この40日間で弟子たちは、よみがえりの主がどんな風に自分たちに語りかけてくださるのかを知りました。主の昇天の後に、熱心な祈りを経て、彼らに聖霊が満たされます。そして、祈り求めるならば、彼らの心に主の御声が響いたのです。それは、あの40日間に何度も聞いたみ言葉でした。あの40日間は弟子たちの心にみ言葉をたくわえるための特別な期間だったのです。現在の私たちは聖書を持っています。この聖書が語ることを聞くことによって、心にみ言葉がたくわえられます。そして、心からイエスさまを祈り求める時には、この御言葉が私たちの心に思い出されて、私たちの心を強め、励まします。毎日聖書を読みましょう。あなたが聖書の御言葉を読んでいる時に、イエスさまは聖霊によって、あなたの心に語りかけておられるのです。聖書のみ言葉に触れる時は神さまの特別な恵みの時なのです。


ヨハネによる福音書  6章 60〜71節

『命を与えるのは「霊」である。肉は何の役にも立たない。』(63節)これは信仰の奥義です。私たちはともすると、自分の力で全てのことが出来るかのような錯覚をしてしまいます。つまり「肉の力」に頼り過ぎるのです。神さまに頼りもせず、祈りもせず、人間の力が全てであるかのような生き方です。旧約聖書の中で、人々がバベルの塔を築いたように、私たちも信仰とは違う世界、この世の人と同じ価値観、自分を誇る価値観に生きていないでしょうか。生活の中に祈りの時を持ち、神を覚える時を豊かに持ちましょう。あなたの生き方がどこに向かっているのか、祈りの中でよく考えてみてください。神さまが用いられるのは、霊的な働きです。パウロが使徒言行録16章にあるように、聖霊に導かれて、ギリシャに宣教に渡らなかったならば、福音は今日まで残ることは無かったのです。また、パウロが一生懸命伝道して建てた教会は、そのほとんどがイスラム教圏に失われ、彼の働きの最大の功績は彼が「残ることを予想しないで書いた手紙」であることを知るべきです。あなたが一生懸命している業は残るのでしょうか?礼拝の中で、立ち止まって自分の人生を考えてみましょう。心を静めて神さまに向かって、祈りの中で自分の生き方を尋ね求め、重荷を主にゆだねて、本当に必要なことが何であるのか神さまに教えていただきましょう。そのために聖書を読みましょう。


ヨハネによる福音書  7章 1〜9節

「わたしの時」イエスさまにとって、それは十字架にかかられる時、罪の赦しの御業、最大の愛の御業が現わされる時でした。イエスさまは「時」を選ばれました。神さまの時、ふさわしい時、決断の時です。私たちは自分で判断する時に、この時を見誤ることがあります。神さまはそんな私たちの判断を補って、万事を益にしてくださるのですが、その誤りを少しでもなくすために、祈りによって神さまの御心を伺うことは大事です。祈りにおいて大事なのは、普段祈っていることです。祈りは神さまとの関係を密にします。祈っている人は、神さまがどんなお方か知っています。祈らない人にはわかりません。神さまが何を望まれ、何を嫌われ、私に何をさせたいのか、祈りは御心を知ることが出来ます。祈りの中で与えられる御言葉、それが神さまからのものであれば、心に平安が訪れます。イエスさまは私たちの心の扉を叩いておられます。心を開いて、イエスさまに心を明け渡すならば主イエスさまは私たちの心の主として、私たちを導いてくださいます。祈りは神さまと共に過ごす時です。この世の全ての楽しみに勝ります。私を一番理解し、受け入れ、導こうとしてくださっているお方に話さないのはもったいないことです。今日から祈りの時間を量的にも質的にも増やしませんか?


ヨハネによる福音書  7 10〜24

イエスさまは十字架にかかられる前にゲッセマネの園で、「この杯を私から過ぎ去らせてください。」と祈っておられました。この杯とは、神の怒り、裁きの象徴を表しています。聖い神さまは罪人を赦したりはしません。旧約聖書において、ユダヤ人も異邦人も罪を犯す時には皆殺しにされています。決して罪と妥協しない神さまが、人類に対する燃える怒りをイエスさまに与えらたのです。イエスさまが必死の思いで避けようとした杯は、それを受ける時に、神に裁かれ、捨てられ、滅びなければならない、神との断絶を与える杯だったのです。父なる神さまだけが、支えであり、導きであり、命であったイエスさまにとって、それはただ単に死ぬことよりも恐ろしいことでした。しかし、イエスさまは私たち一人一人の救いのために、その杯を受けてくださいました。その時に神さまに捨てられて絶望の中に置かれたイエスさまは、天に向かって大声で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」と叫ばなければならないほどの苦しみでした。父なる神さまの愛が見えなくなる、分からなくなる、それは神に造られた人にとって、絶望的なことです。私たちは信仰によって、神に生かされ、強められ、導かれています。その恵みが与えられたのは、イエスさまが私たちの身代りに十字架にかかってくださったからです。十字架の愛は、私たちに対する神さまの究極の愛の表現なのです。感謝です。


ルカによる福音書 12章 27〜28節

「あなたはどこにいるのか。」と神さまは問われます。神さまから遠く離れた所にいないでしょうか。神さまに背を向けていないでしょうか。神さまはあなたの心におられますか。それが一番大切なポイントです。「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。私につながっていなさい。」(ヨハネ15:5)とイエスさまは言われました。イエスさまとつながっている、いのちのある関係なのか、無関係なのか、エバは神さまに不満を持っていました。どうしてその不満を神さまに打ち明けなかったのでしょうか。それは、神さまに期待していなかったから、勝手に神さまの出来ることを決めつけていたから、「どうせ、言っても無駄だよ。」ってその心が神さまから遠く離れていたからなのです。いのちのある関係はもっと暖かです。何でも神さまに相談します。何でも神さまに打ち明けます。そして、神さまの自分に対する御心を知ろうとします。それは私に対する個人的なみ言葉です。神さまは私たちの神ですが、「私の神、私の主。」になってくださるのです。心の目が開かれて、聖書の中に、祈りの中に、賛美の中に、普段の生活の中に、神さまの御心を見い出すことが出来ますように。神さまの御前にいる。神さまと共にいる。それがあなたの本当の居場所なのです。


使徒言行録 2章 1〜13節

イエスさまの昇天後、弟子たちは10日間祈っていたのです。(1:14)「祈っていなさい」との主のお言葉に従い、彼らは祈り続けました。何日祈るか知りません。ただ、祈り続けたのです。その日数が満ちた時、聖霊は弟子たちの所に来てくださったのです。聖霊は謙遜な魂に宿ります。主に従う者、主に信頼する者の心に来てくださるのです。心の思いの高ぶる者、不遜な者はその御声に聞き従わないでしょうから。聖霊が弟子たちの心を満たした時、彼らはイエスさまと同じような魂に対する愛を強く感じました。それで、人を恐れるのでなく、人を愛してその救いのために、福音を分かち合おうとしたのです。スカルの井戸端で、サマリヤの一人の女性に出会い、福音を伝えるために、真昼の暑い中を歩き続けたイエスさまのように(ヨハネの福音書4章)、魂を救いたい思い、救霊心がその人を祈らせ、宣教に向かわせるのです。宣教は神さまの業です。それに参加するクリスチャンはまず祈ります。祈りは私たちを神さまの前に整えます。御言葉と祈りに導かれて、宣教の業が始まります。それは教会の業です。教会は祈り、人を選び、支え、同じ思いを共有して彼らを遣わします。(使徒言行録13章)我孫子バプテスト教会が宣教する、伝道する教会であり続けますように。


ヨハネによる福音書 7章37〜52節

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」(37節)と主は言われました。その主のもとにたくさんの人々が集まりました。そして主の御言葉を聞いたのです。聖書の御言葉は私たちに力と勇気と希望を与えます。多くの人々が何度も何度も挫折し、壁にぶつかるたびに、祈りと御言葉を用いて立ち直りました。コリントの町にいたパウロは、「恐れるな、語り続けよ。…」(使徒言行録18:9)との御言葉を聞かなければ、その町に1年6ヵ月も滞在しなかったでしょう。夜空を見上げたアブラハムが「あなたの子孫はこのようになる。」(創世記15:5)との御言葉を聞かなければ、彼の心は折れてしまっていたでしょう。今まで多くの人たちが、御言葉を聞いて癒されたのです。(ヘブライ人への手紙11章)絶望の中で、苦しみの中で、神さまの御言葉を聞きました。私たちの心は渇いています。主の御言葉に渇いているのです。(詩編42編)「主よ、御言葉をください」との祈りをもって、聖書を読みましょう。あなたの心に語られる主の御言葉に耳を傾け、主の癒しを受けましょう。