2014年2月2日 顕現節第5主日 マタイ福音書5章13〜16
「地の塩、世の光」 説教者:高野 公雄 師
《あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。》
きょうの福音は、聖書の小見出しにあるように「地の塩、世の光」のたとえです。この言葉は、すでにかなりよく使われる日本語となっています。人の心の腐敗をとどめる塩のような、暗い世の人々の心を明るくする光のような人、人々の模範になる立派な人に対する称賛の言葉です。この言葉は、もちろんいま聞いたイエスさまの話が元になっています。
さて、きょうの福音は「山上の説教」の初めの、八つの祝福の言葉に続く部分ですが、きょうの5章13から7章23までは、イエスさまは「あなたがた」という言葉を強調して、聴衆に語りかけています。
その「あなたがた」とは誰か。それは、弟子たちと、イエスさまのそばに集まってきた群衆です。彼らは、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口をあびせられるとき、あなたがたは幸いである」(5章11)と呼びかけられた人たちであり、病や患いを癒していただこうと集まってきた人たち(4章24)です。偉くも何ともない、弱く小さい者たちです。
その人たちに、イエスさまは「あなたがたは地の塩である、世の光である」と宣言されます。地の塩でも世の光でもない者に「塩となれ、光となれ」と言っているのではありません。「あなたがたは地の塩である、世の光である」と言い切っておられます。イエスさまから見て、そもそも「あなたがたは地の塩であり、世の光である」。それほどに、あなたがた一人ひとりは、神の目に、無条件にかけがいのない大切な塩であり、すばらしい光なのだ、とイエスさまはわたしたちに言うのです。イエスさまの救いのわざのゆえに、わたしたちはすでに神の子とされているということです。
地の塩、世の光と聞くと、そんな大役を自分たちができるはずがない、とわたしたちはすぐに自分の方に目を向け直してしまい勝ちですが、イエスさまのお言葉から耳をそむけないで、この言葉に正面から向き合い、イエスさまがわたしたちのために行ってくださった救いのわざの無条件の恵みを心に留め、この招きを深く聞く者でありたいと思います。イエスさまはこの言葉によって、クリスチャンとはどういう存在なのか、どういう立場にあるのかを明らかにしておられます。
前置きはこれくらいにして、では、み言葉をもう少していねいに見てみましょう。
まず「地の塩」についてです。「地」は「世の光」の「世」と同じく、わたしたちの生きている人間社会のことですが、神もキリストも人の尊厳もないがしろにされている現実を指しています。塩は、調味料であり、防腐剤ですが、それよりなにより人の命に欠かせないものです。古代ローマでは、軍人や役人に給与として塩が支給されるほどに塩は貴重なものでした。サラリー(給料)という言葉はラテン語の「塩」から来ています。また、塩は、聖書に限らず多くの文化の中で宗教的な「清め」に用いられています。旧約聖書では、神殿への供え物に必ず塩を添える決まりでした。《穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ》(レビ記2章13)。
「塩」はこの世に味わいを添え、腐敗を防ぎ、清潔を保つ働きを意味しています。あなたがたは地上でこのような役割をすでに担っている、とイエスさまは言います。もしわたしたちがその塩味を失たら、《何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである》。これは、聖書にたびたび出てくる神の裁きの表現です。わたしたちは塩であるのですから、塩である生き方を放棄してはいけません。塩がなければ、「地」はもたないのです。次の「世の光」の言葉と併せて読むと、この文の本当の強調点は、裁きにあるのではなくイエスさまの力強い約束にあるように思います。イエスさまの塩は弟子たちの内に失われることはない、塩は塩味を失うことはなく、その働きを必ず成し遂げると言うのです。
次に、「世の光」についてです。光は世界を明るく照らし、温かみをもたらします。また、日光も塩と同様に殺菌の働きをしますし、植物たちは太陽の光によって育ちます。《そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい》、とイエスさまは命じられます。「あなたがた」が「世の光」であるのは、「まことの光」であるイエスさまを内に宿しているからです。《わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ》(ヨハネ8章12)。また、《わたしは光として世に来た》(12章46)。この光を人々の前に明らかにすることが弟子の務めです。
それは、《人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである》。「立派な行い」の「立派な」は、ふつう「良い」と訳されています。イエスさまが「わたしは良い羊飼いである」とおっしゃったときの「良い」と同じ言葉です。「良い行い」というと、社会通念にのっとった行いというように受けとられがちです。ここで、求められる「良さ」「立派さ」は、人を救う神の愛と信実を身に受けて、隣人愛へと方向付けられた新しい生き方を意味しているようです。きょうの第一朗読イザヤ58章10では、《飢えている人に心を配り、苦しめられている人の願いを満たすなら、あなたの光は、闇の中に輝き出で、あなたを包む闇は、真昼のようになる》と、飢え悲しむ人、苦しみ悩む人への心配りが強調されています。このような愛のわざを行うことで、「自分」がではなく、「天の父」があがめられることを「あなたがた」は喜ぶのです。
《ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く》。また、《山の上にある町は、隠れることができない》。この世に生きるわたしたちの経験からすれば、愛のともし火は容易に無視されるし、吹き消されてしまうように見えます。しかし、燭台の上のともし火が部屋を明るく照らし、温めるように、また、山の上にある町の明かりが旅人に道を示し、力を与えるように、イエスさまの灯したともし火は消されたり、隠されたりすることなく、必ずや赤々と人々を明るく照らします。これこそ、聖書が語るわたしたちの希望の源です。
イエスさまが、わたしたちに「地の塩、世の光」であることを望まれ、そうであると断言されていることに注目しましょう。山上の説教の初めにあるこの短い段落は、わたしたちが父なる神に恵みによって神の子とされていることを指示しています。
この後に続くイエスさまの説教は、殺すな、姦淫するな、離縁するな、偽証するな、十戒の深い意味を教え、また、敵を愛せよ、すべてを神に委ねて思い煩うなと続きます。冒頭に言いましたように、それがわたしたちにできるか否かというように、わたしたち自身に目を向けてしまっては、イエスさまの説教は理解できません。神さまの無条件、絶対の恵みに心を突き動かされた者のみが、これを神の要求・律法としてではなく、恵みの言葉・福音として素直に聴くことができるのです。
このところ、篠塚先生が「十戒」の解説を続けていますが、十戒を正しく聞くためには前文を心にとめてよく聞くことが大事だと強調していました。神は十戒を与える前提として、《わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である》(出エジプト20章1)という人に対する神の根本的な恵みのみ心を示します。そののちに初めて、「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」以下の戒めを語り出します。恵みの神が私たちと共にいるという真理を深く知ることを抜きにしては、単に十戒は実行不可能な理想論を述べている、話半分に聞いておくのが妥当だということになってしまいます。
この山上の説教も、人に対してとことん誠実で、どこまでも慈愛深いイエスさまと出会うことが理解の基礎となります。そして、「地の塩、世の光」として共に生きよう、一緒に歩もうとわたしたちを招くみ声を聞き取る者だけが、以下に続くイエスさまの説教を恵みの言葉として聞くことができるのです。