2015年1月4日  顕 現 主 日  マタイ福音書2章1〜11
「東方の博士たちが訪ねる」
  説教者:高野 公雄 師

  クリスマス(待降節)の12日間を締めくくる顕現祝日は、本来は1月6日ですが、日本のようにキリスト教国でない国では1月2日から8日までの間の日曜日に移して祝われます。「顕現」と訳された元のギリシア語は、「輝き出る」という意味です。イエスさまにおいて神の栄光の輝きが現れたこと、イエスさまが神の子キリストとして現されたこと、それは待降節と降誕節の全体の大きなテーマです。福音は毎年同じくマタイ2章の、東方の博士たちが礼拝する個所が読まれます。
  東方の博士たちがメシアを拝むためにはるばるエルサレムに来たことをマタイが語るのは、異邦人の学問と知恵もイエスさまがメシアであることを認めて、イエスさまを拝むようになることを示すためです。この物語は、ユダヤ教の枠を超えて福音を異邦人に伝えようとするマタイの意図を示唆する伏線となっています。顕現祝日は明治の頃には「現異邦日」と訳されていたそうです。

  《イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。》

  ルカは、ベツレヘムに旅立つ事情や宿屋が見つからなかったことなどをドラマチックに語りますが、マタイの記述はたいへん簡潔に、イエスさまがいつどこで生まれたかを記します。
  今から二千年前のユダヤの国は、ローマ帝国という強大な国に支配されていました。ローマ帝国の支配に忠実に従うイドマヤ人の血を引くユダヤ人、ヘロデがユダヤの王とされていました。ヘロデ王は、民に認められた王というよりは、ローマに認められた王でした。彼は民の王としての信頼や権威をもって、ユダヤを支配していたのではなく、ローマの圧倒的な権威を借りて、暴力的に民を恐れされ、支配をしていたのです。

  《そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。》

  この「占星術の学者」と訳された元のギリシア語は「マギ」、メディア(今のイラン)の一部族であり、祭司階級でもあった人々を指します。古代オリエントでは、けっこう高い地位にあったことが、ヘロデ王に謁見できたことからも分かります。
  占星術というと今日の「星占い」を想像してしまいますが、当時の占星術というのは今日で言えばむしろ天文学であり、彼らは当時の最先端を行く学者たちだったのです。様々な知識を持ち、世の中のこと、その国の、また世界の状況などをよくわきまえていた人々だったでしょう。その人々が、ある特別な星が現れたのを見て、長い、危険な旅に出たのです。その星は、ユダヤの国に王が生まれたことを告げる星でした。それが単にユダヤ人の王というだけであるなら、ユダヤ人ではない彼らには何の関係もないことだったでしょう。しかし彼らがそこに見たのは、全世界のまことの王、救い主、世界の希望の星の誕生の徴だったのです。つまり、自分たちをも本当に治め、導いてくれるまことの王の誕生を彼らは確信したのです。そこで彼らは、そのまことの王に会うために旅立ちます。その王がどこにいるのか、彼らには分かりません。ただ、その誕生を知らせる不思議な星だけを見つめて、おそらくラクダに乗って、砂漠を旅していったのです。
  彼らはエルサレムに着くと、王宮に向います。そして、自分の地位を守ることに必死で、妻や息子たちも殺害したヘロデ王のもとに来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と尋ねます。ヘロデは、自分が今ユダヤ人の王であるのに、自分を差し置いて「ユダヤ人の王として生まれた子ども」がいると言われたのです。それは、あなたはもはや王ではないと言われたのと同然です。ヘロデがおびえるのは当然のことです。しかし、エルサレムに住む、ユダヤの国の人も不安を抱いたのです。彼らも同様に、自分の地位が、この新しい王の登場で脅かされると思ったからでしょう。これは、後に顕わになるイエスさまに対するユダヤ人の拒否と異邦人の礼拝を対照して予告しているのです。

  《王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した》。

  ヘロデ王はユダヤ教の知者たちを集めてメシア誕生の場所を尋ねます。彼らが「民の」祭司長たちや律法学者たちと呼ばれているのは、本来神の民であるイスラエルの指導者が、彼らの聖書知識をもってメシア預言を知りながら、そのメシアを受け入れなかったことへのマタイの非難が込められています。彼らは預言書(ミカ5章1)を引用して、メシアはベツレヘムに生まれることになっていると答えます。ヘロデがメシア誕生の場所を尋ねたのは、そこへ行ってメシアを拝むためではなく、メシアを殺すためでした。また、ユダヤ教の祭司長たちや律法学者(聖書学者)たちは、彼らの聖書知識によってメシアを認め、異邦の賢人たちと一緒にメシアを拝もうとはせず、その知識によってメシアを殺そうとする権力者に荷担するだけです。
  ヘロデ王は東方の博士たちを呼び寄せ、星の現れた時期を確かめ、「わたしも行って拝もう」という敬虔の装いで殺意を隠し、「その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ」と、情報の提供を求めます。彼は、その時、拝みに行って殺せなかったので、後になってこの幼子を抹殺しようとしてベツレヘム周辺の子どもを皆殺しにするのです(マタイ2章16〜17)。

  《彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。》

  東方の博士たちは、星に導かれて、ついにその目的地に着きました。そして、「ひれ伏して幼子を拝み」、東方の特産物である高価な宝三種、すなわち黄金、乳香、没薬を献げます。自分の最も大事にしているものを献げます。博士たちが何人なのかは語られていませんが、ここで彼らが三種類の贈り物をしているので、三人であるという伝承が生まれ定着しました。さらに、この物語の背後にある、きょう交唱した詩編72編10〜11やイザヤ60章1〜7の影響で、この三人が王であると考えられるようになり、この物語は「三王礼拝」という題名で語り継がれ、また絵画に描かれるようになりました。
  彼らは、自分のまことの王、救い主の前にひれ伏して礼拝しました。彼らはそのことのために旅してきたのです。彼らが見つめ、そこへと向って旅してきた星は、自分の希望や理想を実現するという星ではなくて、自分が本当にひれ伏して、その方に身を献げる、そういう相手を見出すこと、自分を本当に正しく治め、導き、守り、支えてくださる王の前に膝をかがめることだったのです。そして実はそのことこそ、私たちの人生に本当の喜びを与えるのです。私たちが喜んでこの人生を歩み、暗闇の中でも光を見つめて生きていくことができる力は、その喜びからこそ来るのです。「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」とあります。本当にひれ伏して拝むべき方のもとへと導かれる時、私たちは本当の喜びに生きることができるのです。
  二千年前、ベツレヘムの馬小屋でお生まれになったイエスさまは、私たちのために、苦しみを引き受け、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んでくださった方です。神が、命がけで私たちを愛し、導いてくださる、その恵みがイエスさまにおいて示されているのです。この王は、その恵みによって私たちを治めるためにこの世に来てくださったのです。
  この東方の博士たちがなぜここに出て来るかと言えば、これはやがてイエ ス・キリストを信じる異邦人たちの予表です。ですから、その中に私たちもいるのです。彼らの姿は私たちの姿でもあります。私たちもこの喜びにあずかるようにと召されているのです。改めて過ぎた一年間を振り返って考えさせられます。私たちは、この世のありきたりの喜びではなく、どれほど天からの喜びにあずかってきたでしょうか。どれほど天からの喜びに満たされて行動してきたでしょうか。
  この博士たちが天の喜びに満たされていなくて、この世のことしか考えられない人たちだったらどうでしょう。星によって一つの家が示された時に、その家のみすぼらしさにしか目が向かないことでしょう。あるいはマリアと幼子を見て、その貧しさをさげすむだけかもしれません。現実には、私たちは案外そんなことばかりしているものです。この世のことにしか目がいかなくて、この世の人がすることにしか目がいかなくて、腹を立てたり、失望したり、不平を言ったり、いいことがあって喜んだと思えば、次の日には喜びが完全に吹き飛ばされていたりという具合です。
  しかし、いま私たちは神さまに導かれてこの礼拝堂に集っています。神さまの光に導かれ、この礼拝堂に来た私たちは、神を求める思い、キリストを求める思い、天からのものを慕い求める思いをもって、王の星を目あてに、ご一緒に歩もうではありませんか。そこには、本当の喜びへの道があります。「その星を見て喜びにあふれた」。その喜びを私たちも味わいつつ、新しい年へと歩み入っていきたいのです。