2014年11月9日 聖霊降臨後第22主日 マタイ福音書22章34〜40
「最も重要な掟」 説教者:高野 公雄 師
《ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」》
律法学者はイエスさまに《どの掟が最も重要でしょうか》と尋ねました。本来はどの掟も神から与えられたもので大小軽重の差はないはずです。しかし、イエスさまの時代には、掟の数は、「〜しなくてはならない」という命令が248、「〜してはならないという禁令が365、合計613と、あまりにも複雑で膨大なものとなっていて、律法を簡潔に要約する必要が感じられるようになっていました。一般の人々が律法を守って生活するために、この掟こそ律法全体の中心であり、これを掴んでおけば、律法全体の解釈において基本的に間違うことがない、という律法全体の中心が関心事となっていたのです。イエスさまはストレートにはっきりと答えます。《聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい》(申命記6章4〜5)。この掟は、冒頭の言葉「聞け」がヘブライ語で「シェマー」なので、「シェマーの祈り」と呼ばれて、ユダヤ人が毎日必ず朝夕二回は唱えるものでした。これは誰もが知っている基本的な掟ですから、どの律法学者からも異論はないはずです。この掟は、全身全霊をあげて、ただひたすら神を愛せよという神への愛を命じているのです。結局、これは十戒の中の最も基本的な戒めである第一戒を言い換えたものです。私たちは、唯一の神との交わりに生きるのだということです。ただお一人の方との、他の何者も割り込むことのできない関係、それは愛と呼ぶしかないものです。愛するというのは、ただ好きだ、好意を持っているというようなことではなくて、人と人、人格と人格との、時としてぶつかり合い、火花が散るような関わりです。神の民は、ただ一人の主なる神との間にそのような人格的な深い関わりを持って生きるのです。
このように、主なる神との間に「愛する」という関係を持って生きることこそ、十戒を始めとする神の律法が教えている神の民のあり方の中心です。律法を通して神はご自分の民との間にこのような関係を打ち立てようとしているのです。この関係が打ち立てられていれば、細かい掟をいちいち暗記していなくても、神との関係において根本的に間違ってしまうことはないのです。そういう意味で、イエスさまは「神を愛すること」を第一の掟とされたのです。
イエスさまが続けて、「第二も、これと同じように重要である」として言われた掟は、レビ記19章18の《自分自身を愛するように隣人を愛しなさい》から来ています。この掟を第一の掟である「シェマー」と結びつけて、最も重要なものとしたところに、イエスさまの新しい洞察がありました。つまり「神を愛する」ことと「隣人を愛する」ことを不可分なものとして語られたということです。この二つが一つとされることによって、シェマーは新しい意味を得ることになります。イエスさまの言葉と行為は、まさにこの二つの結びつきを体現していました。
そして、最後に《律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている》と言われました。「律法と預言者」とは、当時のユダヤ人にとっての「聖書」の全体を指す言葉で、私たちにとっては旧約聖書全体という意味です。この二つの教えによって、旧約聖書全体を支えるということです。この二つにして一つの教え、神を愛することと隣人を愛することが、律法の中心であり、信仰の要をなしているという意味です。旧約聖書にはいろいろな掟が記されていますが、それらはこの根本的な教えを成就するのに仕えるかぎり意味があるのであって、それを妨げるようなことがあれば、そのような受け止め方は神の求められるところではないとして退けるべきだということを意味しています。それに対して、ユダヤ教の律法主義は律法の細部まで実行しようとして、かえって根本的な戒めを破っている。イエスさまは、それを《ぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる》(マタイ23章24)と非難します。それは、律法を細部まで守れない人たちを差別し、軽蔑し、拒否することによって、「隣人を自分のように愛する」ことを妨げているからです。
イエスさまが《わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである》(マタイ5章17)と言われたのは、この意味で理解されなければなりません。「律法を完成する」とは、生活のあらゆる面で行動の規定を完全な程度まで精密にし、内面化し、それを厳格に実行することではありません。イエスさまは父の無条件の恩恵に生きることによって、どのような人をも無条件で受け入れて愛されて、神の律法を成就されました。しかし、そのさい個々の律法の規定には捉われない行動をされたので、律法を無視し冒涜する者として非難され、殺されるにいたりました。「律法を完成する」とは、律法の根本精神を成就することを言うのです。
神を愛することは隣人を愛することを離れてはあり得ない、それが、イエスさまの意図でしょう。神は愛しているが隣人は愛せないということはあり得ないということです。もしそういうことがあったとしたら、その神を愛しているという愛が本物ではないということです。《「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です》(Tヨハネ4章20〜21)とあるとおりです。目に見える隣人をどう愛しているかに、目に見えない神に対する私たちの関係が映し出されてくるのです。目に見えない神への愛には思い込みが生じ易く、自分は神を愛しているつもりでも、実は自分が勝手に造り上げた神の姿を愛しているだけかもしれません。それは結局、自分自身を愛しているに過ぎないわけです。目に見える隣人との間ではそうは行きません。その人が隣人をどう愛しているかは、その人の神への愛が本物かどうかを見分ける印となります。
その場合の隣人とは、自分の好きな人、好意を持っている人ではあり得ません。もともと好きな人を愛するのは、自分の思いのとおりにしているだけですから、それは神への愛の印とはなりません。神への愛の印となるのは、自分にとって好ましくない人、好意を持てない、敵対関係にある人、つまり自然にはとうてい愛することのできない人を愛することです。自分の目の前にいる一人の隣人を、しかも自然にはとうてい愛することができない人を、神がその人を自分の前に置き、その人を愛することを求めておられるという信仰のゆえに愛していくときに、神を愛することと隣人を愛することとが一つとなるのです。
従って、隣人を愛することは、好きになるとか一緒にいて楽しいということではなくて、相手を赦すことです。赦すことこそ愛することだと言うことができます。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」と教えられているのもそのことと関係しています。「自分を愛するように」は「自分を赦しているように」と言い換えることができます。私たちは、自分のことは基本的に赦しているのではないでしょうか。それなのに人に対しては「赦せない」という思いを持ってしまうのです。イエスさまはそのような私たちに、「あなたがたは自分を赦しているのだから、同じように隣人をも赦しなさい」と言っているのです。しかしそれだけでは不十分です。それだけなら、「自分に厳しくしている人は人にも厳しくしてよい」という話になります。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えによってイエスさまは、「あなたがたは自分を愛し、赦しなさい、そして隣人をも愛し、赦しなさい」と言っているのです。私たちは自分のことは基本的に赦している、その一方で、自分で自分が赦せない、自分が自分であることを受け入れられない、喜べないという思いも心の奥に持っています。そうなると、人のことも赦せず、受け入れられず、喜べなくなります。イエスさまはそのような私たちを、自分自身を愛し、赦し、受け入れ、喜ぶことができる者としようとしておられるのです。
きょうの福音は、イエスさまが十字架の死に向かう最後の一週間を歩む中で語られています。先ほどヨハネの手紙の言葉を引用しましたが、その手紙の同じ章に次のように書かれています。《神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです》(Tヨハネ4章9〜11)。
《心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい》。これが最も重要な掟であること、それは確かです。しかし、私たちが神を愛する愛が先にあるのでありません。私たちは神を愛してなどいなかったのです。しかし、神を愛していなかった私たちを、神は愛してくださった。神を愛さないで、むしろ背を向けてきた私たちのために、そんな私たちの罪を赦してなお愛するために、愛し抜くために、御独り子を罪の償いの犠牲とされたのです。それがイエスさまの十字架刑という出来事です。私たちの愛が先にあるのではありません。神が私たちを愛してくださった。それゆえに、私たちは、神に愛されている者として、もう一度神に向かい、神を愛して生きるのです。神に愛されている者として、あの最も重要な掟をいただき、その掟に従う一歩を踏み出すことができるのです。