2014年10月12日  聖霊降臨後第18主日  マタイ福音書20章1〜16
「ぶどう園の労働者のたとえ」
  説教者:高野 公雄 師

  《「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。》

  この譬えの前書きは、「天の国王は、ある家の主人にたとえられる。その主人は・・」とも訳せます。この譬えは、ぶどう園の主人の振舞いによって、神の姿を描くものです。
  大地主がもつ畑は小作人が借りているのですが、ぶどうの収穫の時だけは、一週間ほどで急いで取り入れを終える必要があるために、日雇いの労働者も使います。日雇いの労働者は、毎朝、その日の仕事を求めて町の広場に集まって来ます。こうした状況の中で「ある家の主人」は自分から働き人を求めて、広場を訪ねます。当時の1日の労働時間は、11時間にも及んでいました。人は太陽が昇る朝の6時頃ころに始まり、夕べの6時ころまで働いたのです。そのために、この「主人」は「夜明けに」、広場へ出かけます。そして、そこに集まっている人々に呼びかけ、主人は「1日につき1デナリオン」の約束で、労働者をぶどう園に送りました。1日1デナリオンは、当時の標準賃金という説明を目にしますが、これは気前の良い雇い主が相場を上回る日当を出したと見るべきです。夜が明けると一番に仕事を得られた人々は、ほんとうに幸いです。喜んでぶどう園に働きに行きました。

  《また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。》

  働く人の数が足りなかったのでしょうか。主人は、「また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った」。さらに12時ごろと3時ごろと、もう日も傾いた5時ごろにも、広場を訪ねましたが、その時間になっても未だ働き場所を見つけることができないでいる人々がいました。それらの人々にも、この主人は仕事を与え、彼らをぶどう園に送るのです。この主人は、仕事をもらえない労働者のことが心配で仕方ないようです。きょうの収入をあきらめていた人々は大喜びでぶどう園に行ったことでしょう。

  《夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。》

  一日の仕事が終わると、賃金の支払いが始まります。この主人は律法に定められたとおり、一人ひとりにその日の賃金を払います。律法は、《賃金はその日のうちに、日没前に支払わねばならない。彼は貧しく、その賃金を当てにしているからである。彼があなたを主に訴えて、罪を負うことがないようにしなさい》(申命記24章15)と言っています。賃金の支払いを遅らせて、労働した人が食べて行けないなどということのないためです。
  きょう働いた人々が皆、集まって来ました。しかし、賃金は最後に来た者が先で、最初に来た者は後で支給を受けると言うのです。順序が逆ではないでしょうか。

  《そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、1デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも1デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、1時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』》

  さらに驚くことは、日当の金額です。最初に来て10時間以上にも及ぶ労働をした者にも、最後に来て1時間しか働かなかった者にも、等しく1デナリオンの賃金が支払われました。最初から働いた人々は、自分は最後に来た人々の10倍も働いたのだから、10デナリオンももらえるかと期待したでしょう。しかし、もらったのは、やはり1デナリオンでした。彼らは主人に不平を言います。不満は二点あります。一点目は、労働時間の違いが無視されていることです。1時間の労働と10時間の労働を同じに扱うのは不当だ、時給で働く今日のパート職員も当然そう考えるでしょう。もう一点は、労働の厳しさの差が考慮されていないことです。自分たちは日が照りつける厳しい暑さの中で働いたのに、あの連中は夕方涼しくなってからやって来たのです。

  《主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。》

  この不満を聞いた主人は答えます、「友よ、あなたに不当なことはしていない」。なぜなら、第一に、主人は少しも契約違反をしていないからです。しかし、だからと言って不平等な扱いをしてもよいわけではない、こう最初に来た人たちは思ったことでしょう。人は、自分と他人を眺めて比べます。そして、そこに不平等を見つけ出し、他人が厚遇され、自分が不当に扱われていると思って不満を抱きます。あるいは、他人が不遇であっても、自分に良い扱いがなされているのを見たら、不満は抱かないかもしれません。このようにして、私たちは心の底に潜んでいる自分の利益追求の罪が表われるのです。人の思いは互いを見比べて自分の利益、幸福を追求し、他人を妬みます。主人(神)は人間の心の底にあるものを見抜いておられます。不平不満を言う人々に対して「それとも、わたしの気前のよさをねたむのか」と問い返します。
  この主人は不当ではありません。なぜなら、第二に、支払いの仕方は主人の「自由」だからです。もちろん、契約に反していない限りの自由です。主人の態度は自由です。ここには神の憐れみの自由が示されています。神は「自分のものを自分のしたいようにする」その自由なみ心によって、私たちを自由に憐れみ、自由に恵みを与えてくださるのです。神は、そういう順序を越えて救いのみ業をなさるのです。
  ユダヤ教のラビの文献に、この譬えとよく似た話があって、そこでは1時間しか働かなかった人は、実はとても有能な人で長時間働いた人と同じくらいの貢献をしたからだと説明されているそうです。合理的な説明ではありますが、能力や業績にもとづくその見方は、この譬えの主旨とは全く異なります。この譬えは、神はまことの自由をもって何の功績もない私たちを憐れんでくださっている、ということを示しているのです。イエスさまはこの主旨を、《父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる》(マタイ5章45)とも表現しておられます。イエスさまの父である神は、働きに応じて報酬を与えるのではなく、この主人のように働きの多少にかかわらず無条件に同じ祝福を与えるのです。天の国とは、このような絶対無条件の恵みが支配する所です。人間の側の働きや功績とか資格は問題にならない所です。

  さらに、この主人は自分のとった処置を、「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と説明しています。この言葉は、イエスさまがこの神の恵みを語る譬えを、どのような状況で誰に向かって語られたかを暗示しています。イエスさまが告知される恵みの支配に不平を言った人たち、すなわちイエスさまを激しく非難したファリサイ派の律法学者たちに向かって、恵みの支配の福音を弁証するために語られたのです。この譬えでは、夜明けから働いてきた人が不平を言います。自分こそ資格がある者なのに、資格がない者がよいものを受けることへの不平不満です。それでは自分の資格は無意味になるではないかという抗議です。
  ファリサイ派に代表されるユダヤ教では、律法を順守する者が義人として神の国を受け継ぐ資格があるとされていました。律法を知らず、守ることもない者は罪人であって、神の国を受け継ぐ資格はないのです。ところが、イエスさまは「罪人」と言われていた徴税人や遊女たちと食事の交わりを持ち、自分の仲間として受け入れ、神の国を受け継ぐ者とされたのです。もしイエスさまが告知されるように、神の恵みによって資格のない者が神の国に入るのであれば、律法を順守することがその資格であるとするユダヤ教は根本から否定されることになります。ユダヤ教を代表する者たちがイエスさまを殺そうとしたのは当然です。この非難に対して、イエスさまはこのたとえで反撃されるのです。
  この譬えは、直前の19章30と20章16の結びにある「先の者は後になり、後の者は先になる」という同じ御言葉に囲い込まれており、この御言葉の内容を示すものになっています。イエスさまの状況では、自分たちこそ真っ先に神の国に入る資格があると思っている「義人」ではなく、資格では最後の者であるとされている徴税人や遊女たちが先に神の国に入るのです(21章31)。マタイの状況では、ユダヤ会堂に対する批判としてその意味も含んではいますが、さらに、先に選ばれたイスラエルの民よりも、律法を持っていない異邦人の方が先に神の国に入ることを示唆して(8章11〜12)、宣教をユダヤ人だけに限ろうとする体質を乗りこえて、異邦人に福音を宣べ伝えようとするマタイの立場の標語にもなっているのです。

  広場に立っている私たちにもイエスさまは訪れ、声を掛けて、神のぶどう園へと招いてくださいます。神のぶどう園に雇われて働くとは、信仰を持って生きるということです。雇われて働くのは、賃金という報酬を得るためです。それが約束されているから、希望をもって働くのです。イエスさまに従い、神を信じて生きるとはそういうことだとこの譬えは言っているのです。信仰には、報いが与えられます。1デナリオンは神の救いです。このすばらしい報いを求めて、私たちはイエスさまに従い、神を信じて生きるのです。神のぶどう園の労働者になるのです。イエスさまはきょうも広場に来ています。何度も来てくださいます。私たちの礼拝の場に来て招いておられます。その招きに答えることができますように。