2014年9月24日  聖霊降臨後第15主日  マタイ福音書18章1〜14
「いちばん偉い者」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうの福音として、先ほどはマタイ18章の最初の三つの段落を聞きましたが、本日はとくに、小見出しに「天の国でいちばん偉い者」とある最初の段落を中心にご一緒に読んでいきたいと思います。

《そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った》。

  弟子たちは「天の国で」と言っています。この世において偉大であると評価されることが、必ずしも神の御前において偉大であると評価されるとは限らないということを、彼らは、よく知っています。彼らは、「天の国で」偉い人と見なされることを求めているのです。
  この弟子たちの姿には、後の教会の姿が重ね合わされています。教会にいる人々は、この世において偉大な者とされるよりも、神によって偉いと見なされることを求めているのです。わたしたちもまた、「いったいだれが、神の前でいちばん偉いのか」という問いを抱きます。しかし、イエスさまはこの問いを単純に喜んでおられません。

  《そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない》。

  天の国に入るのに必要な「子供のようになる」ことが、同時に天の国でいちばん偉い者になる道だ、とイエスさまは言われます。ここで「子供」とは「幼子」のことです。それで、「心を入れ替える」ことを求められたのです。これはもともと「方向を変える」という意味です。方向を変えなくてはならないのは、間違った方向へと向かっているからです。私たちが考える「キリスト者像」というものが、往々にして「幼子のようになること」とは正反対の方向へと向かっているということです。

  《自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ》。

  ユダヤの社会では、「子供」は、現代のように「無邪気でかわいい」というイメージよりも、むしろ「無知で善悪をわきまえない」、したがって「自分で正しい判断ができない」という低い見方をされていました。ですから、きょうの箇所で言う「子供」も、「子供のような性質になる」ことを意味するのではなく、むしろ「取るに足りない小さな」存在、「低く見られる」者のことです。
  一般的には、大人は低く見られることを好みません。無力な者、弱い者、小さい者と見られるのはとても嫌なことだろうと思います。むしろ私たちは、力ある者、強い者、偉大な者として重んじられることを望みます。そのようなところから、「誰が偉いのか」という問いが生じてくるのです。しかし、幼子は違います。低い者と見られようが、無力な者と見なされようが、意に介しません。幼子は「誰が偉いのか」という質問と無縁に生きています。「自分を低くして、子供のようになる」とはそういうことのようです。
  幼子にとっては、「だれが偉いのか」という問いよりも、もっと大事なことがあるのです。「親が共にいること」です。信頼できる者が共にいることです。幼子は無力であるために、小さい者であるために、親や信頼できる他者がいなければ生きていけないことを本能的に知っているのです。それゆえ、幼子は無心に親を求めます。ただ親の手に自分を委ねられればそれで十分なのです。
  弟子たちに欠けていたのは、この一点でした。彼らは何も現世的な支配権や利益を求めているわけではありません。しかし、彼らは、今行っていることと引き替えに、仲間から偉いと認められることに関心が向かっていました。彼らの関心の中心は神の国において得る「何か」であって、神御自身ではなかったのです。だれが共にいてくださり、だれが治めてくださるのか、ということが最も重要なことではなかったのです。
  問題はここにあります。イエスさまは、ここで「天の国においていちばん偉い者となる方法」を教えているのではありません。そのように誤解した人は、天の国において偉い者となるために一生懸命「自分を低く」することになるでしょう。それは外見的には敬虔なキリスト者の在り方に見えるかも知れません。しかし、そうすることにより、イエスさまが言われた「子供のようになる」ということから完全に違った方向に向かってしまうのです。
  このように、「自分を低くして」とは、単に「謙遜になれ」ということではありません。低い者は上を見上げます。力なく小さい者は、信頼の眼差しを力ある御方に向けます。そのような神との信頼に満ちた関係のあるところこそ、天の国であるはずです。もはや偉くなろうとする必要のないところこそ、天の国であるはずです。そのような天の国に入ろうとするならば、私たちは確かに方向を変えて、幼子のようにならなくてはなりません。イエスさまと共に立っている幼子は、「いったいだれが偉いか」という問いとは無縁です。何ものをも自分の功績に対する報いとして主張したり要求したりしません。そのような幼子を指して、イエスさまは「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と言われたのです。
  ここで用いられている「子供」は、自分では何もできない完全な依存の象徴です。「子供のようになる」とは、自己を根拠にして存在するのではなく、自分を無にして完全に父の恩恵に身を委ねる在り方指しています。これは「信仰」の姿に他なりません。天の国とは、神の恵みによる支配のことですから、神の支配の現実に入るのは、恵みを恵みとして無条件に受け取り、恵みに全存在を委ねること、すなわち信仰以外にはありえません。そのように、恵みの場で自分を無にしている者が、天の国でいちばん偉い者になるのです。自分を無とする者に、天来の御霊の力が満ちるからです。

  《わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。》。

  「子供のようになる」から、さらに「子供を受け入れる」という話に進みます。ここでの「子供」は、存在する価値もないとして社会で無視されている「小さい者」のことであり、そのような者を「受け入れる」とは、そのような者の仲間になり、自分をそのような低い場に置くことです。「わたしの名のために」は、ほかに何の理由がなくても、イエスさまがそうすることを望まれるからという理由だけで、または、「小さい者」がイエスさまに属する者であるからという理由だけで、受け入れることを指しています。そのように「小さい者」を受け入れる者は、じつにイエスさまを自分の中に迎え入れていることになる、というのです。この消息をさらに詳しくたとえで語ったものが、マタイ25章の「羊と山羊を分ける人の子」のたとえです。そこでは王が、社会で無視され苦しめられている者を世話した人たちに、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)と言っています。イエスさまはこのような「小さい者」とご自分を一つにしておられるのです。このようにマタイは、弟子たちの交わりの根本憲法として、自らを低くすることを最初に求めるのです。
  ただし、今回の箇所を教会の指導者たちへの警告/戒めとしてではなく、子供も聖餐と礼拝の交わりに「受け入れる」べきだという意味に解釈する説もあります。また、この時代のヘレニズム世界では、貧しい家では生まれた子供を殺すことがよくありました。今回の箇所は、このような慣習を戒めて、捨て子や孤児(みなしご)を守り育てること、特に養子として育てることを勧めていると見る説もあります。
  さて、この後を読んでいきますと、どうもイエスさまはここでただ目の前の一人の子供の話をしているのではなさそうです。というのも、その後に「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」(6節)という話が続いているからです。イエスさまは、この「子供」に他のキリスト者を重ね合わせているのです。しかも、自分に対して良くしてくれる人ではなくて、自分にとって受け入れがたい人を指しているのです。ですから、次の段落では「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」(15節)という言葉が出てきますし、ペトロが「兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか」(21節)と問う話に続きます。話はそのような方向へと向かっているのです。
  自分を低くして幼子のようになる者だけが、他の幼子を受け入れることができるのです。自分が神の憐れみのもとにある小さな存在であることを知り、神の憐れみ向かって目を上げる者だけが、他者を神の憐れみのもとにある者として見ることができるのだからです。
  そして、イエスさまは、御名のために一人の子供を受け入れることが、イエスさまご自身を受け入れることに他ならないのだ、と言います。なぜなら、イエスさまは自ら低くなられて、子供の傍らに立たれたからです。十字架の死に至るまで低くなられて、受け入れ難いその人の傍らに立たれたからです。後のパウロは、このことを次のように表現しました。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(Tコリント8章11)。このように、心を入れ替えて子供のようになるということは、必然的に、他の子供、他のキリスト者を受け入れて共に生きることに繋がっているのです。
  きょうの福音は、「小さい者を受け入れなさい」(1〜5節)という教えに「小さい者をつまずかせるな」(6〜9節)という教えが続き、さらに「小さい者を軽んじるな」(10〜14節)という教えが続いています。「迷い出た羊」のたとえが語るように、「これらの小さい者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)からです。このたとえは、私たちが父の無条件絶対の恵みの場に生きている者であることを改めて思い起こさせます。私たちは子として受け入れられる資格は何もない者です。父が恵みによって無条件に受け入れてくださったから、神の子として命にあずかっているのです。