2014年8月24日  聖霊降臨後第11主日  マタイ福音書14章13〜21
「パンの奇跡」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうの福音は、男だけで五千人もいる大群衆がわずか五つのパンと二匹の魚を食べて満腹になったという話です。その場にいた人々にとって、奇跡と呼ぶしかないような驚くべき経験でした。この出来事は、四つの福音書すべてに記されているただ一つの奇跡です。よほど心に深く残る出来事だったのでしょう。

  《イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた》。

  「イエスはこれを聞くと」というのは、きょうの個所の直前に記されている洗礼者ヨハネが殺されたという知らせです。洗礼者ヨハネは領主ヘロデ・アンティパスの律法違反を咎めて、ヘロデの怒りを買い、牢につながれていました。ヘロデの誕生日の祝いの宴席において王女サロメは踊りを披露しました。宴席は盛り上がり、ヘロデはサロメに褒美を約束しました。彼女は褒美として洗礼者ヨハネの首を求めたのです。そして、正当な裁きも行われないままに、洗礼者ヨハネは首をはねられました。ヨハネの弟子たちは、遺体を引き取って葬り、イエスさまのところに行って一切の出来事を報告したのです。洗礼者ヨハネはイエスさまの先駆者として、福音を説き、人々に悔い改めを求めました。神の御言葉である律法を説き、そのゆえに命を落としました。
  これを聞くと、イエスさまは舟に乗ってその場所を去りました。ヨハネの処刑に深い悲しみと痛みを覚えて、ひとりになって祈るためでしょう。そして、自分もまた十字架の死に向かって生きていることを深く受け止めたことでしょう。洗礼者ヨハネの死は、イエスさまご自身の死をも指し示すものだったのです。

  《しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた》。

  イエスさまは人を避けるように、ひとりで神との交わりの時を持とうとされたのですが、後を追ってくる群衆の姿を見て深く憐れみ、舟から上がりました。そして、病人を癒されました。
  かつてダビデはこう歌いました。《主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる》(詩編23編1〜4)。しかし、イエスさまが見ていたのは、もはや「主はわたしの羊飼い」と言えなくなってしまった群衆でした。羊飼いから見捨てられていると思っていた羊たちでした。少し前の9章36にも、「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」とありました。彼らの中にいる病人をいやされたのは、彼らを本当に生かすことのできる、まことの羊飼いなる神が、彼らに恵み深く臨んでくださっていることを現すためです。
  ここで「深く憐れむ」と訳された言葉は、自分の内臓の具合が悪くなるほどに、相手の痛みや苦しみに同情し、苦しむ者と一体化する、ご自分の苦しみとされるということです。それがイエスさまの愛のお姿であり、神の憐れみの現れです。イエスさまは、飼い主のいない羊のような者たちを憐れんで、まことの飼い主として、私たちのところにまで来てくださった。私たちの痛みを代わって背負ってくださった。悩み苦しんでいる者たちに対して、溢れるように注がれているイエスさまの、この深い憐れみを、マタイを始めとする福音書記者は大切に書きとめました。

  《夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言[われた]》。

   イエスさまが群衆と共に過ごしているうちに、既に夕暮れになりました。目の前にお腹を空かした群衆がいます。弟子たちはイエスさまのもとに来て、「群衆を解散させて、自分で村へ食べ物を買いに行」かせるように提案します。ところが、イエスさまの答は弟子たちの意表をつくものでした。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」。ここには五千人を超える群衆がいます。女性と子供を合わせると、一万人は越えていたでしょう。どうやってそんな食料を調達できるでしょうか。弟子たちは言います。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」。イエスさまは弟子たちがそんな食料を持っていないこと、それだけのものを買うお金もないことを、ご存じなのです。すべてをご承知のイエスさまが「それをここに持って来なさい」と言うのです。弟子たちの持っているものをイエスさまはご自分のもとに差し出すように求めます。それを用いて、イエスさまは大きな奇跡を行なわれたのです。
   自分はこれだけしかもっていない。自分はこれだけしかできない。そこから生まれてくるのは、つぶやきの言葉ばかりです。「これだけしかない」という否定的な考え方からは、感謝の言葉は生まれて来ません。けれども、イエスさまは弟子たちに言われます。「それをここに持って来なさい」。現状をよしとするかのように、きっぱりと言います。パン五つと魚二匹があるではないか。それを私のところに持って来なさい。そして、群衆には青草の上に座るよう命じられます。

   《群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。》

   弟子たちの持っていたわずか五つのパンと二匹の魚は五千人を越える人々の前では何の役にも立たないものです。それをイエスさまが用いて、大きなみ業をしてくださったのです。イエスさまが、弟子たちの、つまり私たちの持っている小さなもの、力などとは言えないようなわずかな力を受け取り、神への感謝と賛美の中でそれを用いてくださったのです。イエスさまは五つのパンを裂いて、弟子たちに次々と渡しました。弟子たちはそれを大勢の群衆に与えました。この奇跡的な食事によって、一万人以上の大群衆が養われたのです。十二人の弟子たちが、それぞれ篭を持って、パンの残りを集めたのでしょう。自分の篭にあふれるパンの残りを前にして、弟子たちはイエスさまの恵みをさらに豊かに味わいました。

   いったい、そんなことがありうるのでしょうか。実際、どのようにことが起こったのかは、良く分かりません。しかし、この物語において、一つだけはっきりしていることがあります。それは、群衆が満たされたのは、明らかに弟子たちに由来するものによってではなかったということです。弟子たちがもともと持っていたものによるのではなく、イエスさまに由来するものによって、群衆は満たされて神の国の喜びを味わったのです。弟子たちはただ運んだだけです。
   実は、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」という言葉を、私たちは後に、最後の晩餐の場面でもう一度、聞くことになります。《一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」》(マタイ26章26〜28)。そのように、ガリラヤの青草の上でパンを裂いて渡されたイエスさまは、再び弟子たちにパンを裂き、「これはわたしの体である」と言って渡すことになるのです。
   「これはわたしの体である」の言葉のとおり、イエスさまはパンだけでなく、自分自身をも裂いて渡してしまうつもりだったのです。そして、そのとおりになりました。その翌日、イエスさまは十字架にかけられて死なれます。その肉体は、打ち付けられた釘によって裂かれ、槍に刺された脇腹から尊い血が流されました。その流された血は、イエスさまが語られたように、罪が赦されるように、多くの人のために流された血でした。イエスさまは、私たちの罪を贖うために、十字架の上で死なれたのです。私たちが、罪を赦された者として神の国への招きに応えられるようになるためです。私たちが「主はわたしの羊飼い」と再び語り得るようになるためです。そして、もう二度と「わたしは見捨てられている」などと言わないで済むようになるためです。

    きょうの個所が伝えるパンの奇蹟は、後にイエスさまの十字架において実現することを指し示すしるしに他なりませんでした。やがてイエスさまが自らを裂いて、血を流して、その命を人々に渡されます。そのイエスさまを受け取って、神との交わりの中に回復されて、はじめて人々は本当の意味で満たされることになります。パンの奇跡は、そのことを示すしるしだったのです。ですから教会はこの物語を大切に伝えてきたのです。
   二匹の魚と五つのパンを携えて呆然としている弟子たちの姿は、教会の姿でもあります。自分自身の余りの貧しさに立ちつくしている弟子たちの姿は、今日の私たちの姿であるに違いありません。しかしイエスさまは、その私たちのちっぽけなもの、何の役にも立たないと思えるようなものを、「ここに持って来なさい」と言われます。神は、私たちの小さなもの、何の役にも立たないと思われるものを感謝と賛美と喜びの内に用いてくださるのです。イエスさまによってもたらされるまことの祝宴がここにあります。