2015年2月22日 四旬節第1主日 マルコ福音書1章12〜13
「荒れ野の誘惑」 説教者:高野 公雄 師
《それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した》。
「それから」の「それ」とは、イエスさまが洗礼者ヨハネから洗礼を受けたときの出来事を指しています。洗礼を受けて、水の中から上がるとすぐに、天から「霊」が、鳩のようにイエスさまに降って来て、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。その後すぐに起ったのが、「霊はイエスを荒れ野に送り出した」ことでした。口語訳聖書では「御霊がイエスを荒れ野に追いやった」となっていましたが、ここで用いられているのは、悪霊を「追い出す」というときと同じ言葉なのです。御霊は、神との交わりの現実に導き入れるために、御霊を受けた者をあらゆる人間的交わりから追い出して、人里離れた荒野に連れて行きます。イエスさまも「霊」つまり聖霊の抵抗しがたい力にうながされて荒れ野に入って行かれたのです。「荒れ野」は1章45では「人のいない所」と訳されています。人が孤独になる場所であり、自分自身のあり方を問われる場所と言えるでしょう。イスラエルの民にとって荒れ野はただ神の恵みによって生きる場所でした。そのような荒れ野でこそ、私たちはサタンの誘惑にあうのです。
「あなたはわたしの愛する子」と言ったのに「この仕打ちはないのでは」と思いますけれども、このことは私たちが体験しているこの世の現実でもあります。私たちも洗礼を受け、イエスさまの救いにあずかり、神が私たちにも「あなたはわたしの愛する子」と言ってくださる、その恵みを受けて歩み出すのですが、そこですぐに体験するのは、荒れ野のようなこの世の厳しい現実です。信仰者も、現在のこの社会のいろいろな困難な現実の中で生きていくのです。
それだけではありません。この社会には、私たちがイエスさまを信じ、神を礼拝しつつ生きることを妨げる力が渦巻いています。日本人の一般的な感覚からすれば、日曜日に毎週教会の礼拝に集うなどということはよほど変った異常な行動に見えますから、そのことを職場や学校や家庭における周囲の人々に理解してもらうのは大変です。あるいはキリスト教に対するあからさまな敵意をもって、「ああいう一神教が宗教対立や戦争の元凶だ」などと言う人たちもいます。私たちはそういう宗教的状況の中を生きていくわけで、それは信仰者として生き始めたことによって追いやられる荒れ野です。イエスさまが洗礼を受け、「あなたはわたしの愛する子」というみ言葉を聞いてすぐに、聖霊によって荒れ野へと追いやられたことは、私たち自身のそのような体験と重なります。
《イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた》。
「四十」という数字は、苦難と試練のときを表わす象徴的な数字です。ノアの大洪水は四十日四十夜続きました。エジプトを出たイスラエルの民は四十年間、荒れ野をさまよいました。モーセは四十日四十夜シナイ山で断食しました。イスラエルは四十年の間ペリシテ人に渡されていました。エリヤはアハブ王と王妃イゼベルから逃れて、四十日四十夜荒野を歩き続けてホレブ山に着きました。イエスさまにとって神の啓示にあずかる場としての荒野は、同時にサタンに試みられ、サタンと苦闘する試練の場でもあったのです。
荒れ野に追いやられたイエスさまは、サタンの誘惑にさらされました。「サタン」とは神に敵対する霊です。その当時、イザヤ14章12以下(ウルガタ訳、欽定訳を参照)にあるように、天使ルシファがその高ぶりによって神に反逆し、天から追放されて、人を神に背かせる者となったと考えられていました。「誘惑」とは、本来あるべき姿を失わせ、進むべき道から逸れさせようとすることです。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」というみ言葉を聞き、父なる神のひとり子として、み心に適う救いのみ業を行うために歩み出したイエスさまを、サタン(悪魔)は誘惑し、救い主としての歩みを妨げ、間違った道へと歩ませようとしたのです。それは、私たちが信仰の恵みに生きるがゆえに出会う誘惑と重なる体験と言えるでしょう。
イエスさまが荒れ野でサタンから誘惑を受けられたように、私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中でいろいろな誘惑を受けます。イエスさまを信じ、神の愛を受けて神の子として生きていこうとしている私たちの歩みを妨げ、そこから逸らせようとするさまざまな力が私たちの周囲に働いているのです。しかし、本当の問題は、周囲の人々の無理解や敵意にさらされる中で、私たち自身の心に信仰に対する疑いが生じてくることです。イエスさまを信じて生きることがとても変ったことと受け止められてしまう状況の中で、「自分はやっぱりおかしなことをしているのだろうか」と思う。キリスト教へのいろいろな批判に触れて、それに影響される。あるいは、東日本大震災における津波のような自然災害を見て、本当に神は私たちを愛しているのか、いやむしろ捨てられているのではないかと疑いをもつ。さらには、教会における人間関係によって傷ついて、同じ信仰に生きているはずの人の姿につまずく。そういう意味では教会の外が荒れ野なのではなくて、教会そのものが荒れ野のように感じられてしまうこともあるのです。それらのすべてが神を見失わせ、私たちをイエスさまへの信仰から、神の愛を信じることから引き離し、信仰者として生きることを妨げようとする誘惑です。
マルコ福音書は、イエスさまの生涯もそうだったと語ろうとしているようです。サタンの誘惑は、この後もずっと、十字架の死に至るまで、イエスさまの生涯において繰り返されたのです。たびたび、荒れ野で祈ったというだけではありません。まさに荒れ野を経験しているような人々、自分は見捨てられているとしか思えないような人々のもとに赴かれました。汚れた霊にとりつかれた人に向かって「黙れ、この人から出て行け」と言われ、重い皮膚病の人に「よろしい、清くなれ」と言われ、中風の人に「起きあがり、床を担いで歩きなさい」と言われました。そして何より、イエスさまご自身が荒れ野を経験しています。繰り返し、ご自身のことを示しても、弟子たちや周りの人々はイエスさまのことを理解しませんでした。そして、イエスさまは最後にはゴルゴタの十字架へと赴かれました。その場所で、人々からも神からも完全に見捨てられたのです。ただひとりで、「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになるのですか」と叫びます。ここにこそ、イエスさまが赴かれた荒れ野があります。洗礼を受けた直後に荒れ野に追い出されたイエスさまの歩みは、十字架という荒れ野に向かっていたのです。神は、そのような場所に愛するみ子を追い出されたのです。
《その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた》。
この一文は、サタンとの戦いにイエスさまが勝利されたことを語っています。この個所は、二通りに理解されています。
一つの解釈はこうです。荒れ野は人間の住める場所ではありません。そこにいるのは野獣であり、荒れ野は人間にとって危険極まりない所です。荒れ野に四十日とどまったというのは、その間イエスさまはそのような危険にさらされていたということです。しかし、天使たちが仕えていたので、その危険から守られていました。私たちも、荒れ野のようなこの世を歩む中で、誘惑と共に野獣の危険にさらされています。信仰をもって生きようとする私たちに野獣のように襲いかかろうとするいろいろなものがあって、私たちを恐怖に陥れるのです。洗礼を受けたがゆえに、信仰者となったがゆえにこんな恐しい目にあうのなら、いっそのことやめてしまいたいと思うのです。そのような恐怖を私たちは自分の力で克服することはできません。そのために、神は天使を遣わしてくださいます。イエスさまが天使の守りと支えの中で荒れ野の四十日を歩まれたように、私たちの荒れ野の歩みにおいても、神が共にいて守り支えてくださる。こういう理解です。
しかし、もう一つ別の解釈も可能です。イザヤ書11章6に、《狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く》、とあります。イエスさまが荒れ野において野獣と一緒にいたというのは、このイザヤ書の預言の成就であると考えることができます。つまり、イエスさまは荒れ野において野獣の危険にさらされていたけれども天使によって守られていたのではなくて、野獣たちと平和の内に共におられるという神の救いの完成において実現する恵みを先取りしていたのです。天使たちが仕えていたというのも、その救いの完成を示すもう一つの「しるし」です。マルコはここで、イエスさまによって、神による救いのみ業がそのように新しく進展し、荒れ野のようなこの世を生きている私たちに新しい展望が開かれ、希望が与えられていることを示そうとしているのです。
もちろん、イエスさまが荒れ野において野獣と一緒におられ、天使たちが仕えていたことだけで、神による救いのみ業が進展したわけではありません。この個所は、イエスさまによって実現する救いにおける平安、平和を先取りしているのであって、その実現は、この福音書がこれから語っていくイエスさまのご生涯の全体によって、ことにも十字架の死と復活とによって与えられるのです。私たちと同じように荒れ野へと追いやられ、サタンの誘惑をお受けになったイエスさまは、私たちが荒れ野のようなこの世で体験する苦しみや悲しみ、誘惑に負けてしまう弱さや罪のすべてを背負って十字架にかかって死に、それらのすべてから私たちを解放し、復活によって新しい命の先駆けとなってくださいました。イエスさまの十字架と復活によってこそ、神の救いのみ業は進展し、救いの道が切り開かれ、私たちの歩みに新しい展望が開かれたのです。
私たちは信仰生活において荒れ野を経験します。荒れ野で神を見失うかもしれません。しかし、神は私たちを見捨てません。そこに、神の愛するひとり子でありながら荒れ野に投げ出されたイエスさまが共にいてくださいます。このお方に支えられて、私たちはさまざまな誘惑、いろいろな試練と戦っていくのです。