2013年6月9日  聖霊降臨後第3主日  ルカによる福音書6章37〜49
「人を裁くな」
  説教者:高野 公雄 師

  きょうは、37節以下を読むのですが、これは先週読んだ27節以下の段落の続きです。日課は49節までですが、長いので、きょうは42節までに絞って味読したいと思います。
  先週は、「敵を愛しなさい」という教えでした。「敵」とは、自分を憎み、悪口を言い、侮辱する者というように具体的に説明されました。そのような人に親切にし、祝福を祈り、その人のためにとりなしを祈れと教えられました。そして、最後に、イエスさまは《あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。》(36節)と結ばれました。

  《人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。》
  ここでは、前の36節の言葉を敷衍して、憐れみ深い者は、「人を裁くな、人を罪人だと決めるな、赦しなさい」と語られます。「裁く」、「罪人だと決める」は、判決を言い渡すことです。私たちは、自分に危害を加えて来る人を敵と思うだけではなくて、誰かを裁き、罪人と決めつけることによって自分から敵を作っていく、ということもあるのです。そのように人を裁き、敵を作ることをやめ、また敵だと思っている人を赦し、その人に与えなさい、と言います。
  この37、38節では、それぞれの教えに、「そうすれば」がついています。「人を裁くな、そうすれば、あなたがたも裁かれることがない」、「人を罪人だと決めるな、そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない」というふうに、ここで教えられ、勧められていることがそっくり自分自身に返って来ると言われます。日本のことわざにも、「情けは人のためならず」とありますが、これらの言葉を人間関係における互恵の原則を言っていると受けとめることもできます。しかし、ここでは、本来、神との関係において与えられる約束が語られていると理解すべきでしょう。「裁かれることがない」「罪人だと決められることがない」「赦される」という受身形が三度繰り返されていますが、聖書で受け身が使われる場合は、その隠れた主語は神です。人を裁かなければ、「人から」裁かれないのではなく、「神から」裁かれないということです。

  《与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。》
  憐れみ深く与える人に対する神の報い方が印象的に描かれています。当時、麦などを売買する秤は、四角い枡でした。その枡で麦を掬い取り、山盛りになった部分を板でそいで正確な一杯分を量りました。神は枡で麦を掬った後に、その枡を揺すってどんどん麦の密度を濃くしていきます。さらに上からも手で押し付けて平らにした後に、溢れるほどの麦を上にもって山盛りにします。同じ秤でも、私たちが量る何倍もの量の麦を入れてくださる。神はその人の寛大さをはるかに超える寛大さで応えてくださる。イエスさまは、神の恵みをこのように表現されました。
  「そうすれば」以下に約束されているのは、神の恵みによって支えられ、生かされるという、神との良好な関係です。35節にもこうありました。《しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる》。「敵を愛しなさい」という教えにおいて「そうすれば」と約束されているのは、「いと高き方の子となる」ことです。つまり、神に愛され、養われ、神との良好な関係に生きる者となる、そのことが「敵を愛する」ことによって与えられる恵みだと言われます。
  しかし、「敵を愛する」ことは、救いを得るために私たちが成し遂げなければならない条件ではありません。実は、イエスさまが私たちの救いのために引き受けてくださったみ業でした。その救いのみ業にあずかることによって、私たちは神の子であるイエスさまと結び合わされ、私たちも神の子とされるのです。その神の子としての新しい生き方が、「敵を愛すること」なのです。

  《イエスはまた、たとえを話された。「盲人が盲人の道案内をすることができようか。二人とも穴に落ち込みはしないか。弟子は師にまさるものではない。しかし、だれでも、十分に修行を積めば、その師のようになれる。》
  イエスさまは新たに三つのたとえを話されます。これらのたとえで問題になっているのは、「見える」ということです。第一のたとえは、目の見えない人が見えない人の道案内をすることはできない、そんなことをすれば二人とも穴に落ち込む。人の道案内をするためには目が見えていなければならないと語っています。
  第二の、弟子は師にまさるものではないというたとえも同様です。人を教え導くためには、物事がよく見えていなければなりません。まだ修行の途上にある弟子は、見る目が十分に養われていないので、人を適切に教え導くことができません。「弟子は師にまさるものではない」とはそういう意味です。しかしその弟子も、修行を積んでよく見えるようになれば、人を教え導くことができるようになれると語られます。
  ところで、「修行を積む」と訳された言葉は、「完成する」という意味があります。しかも原文では受身形です。ある英訳聖書は、「完全な訓練を受けた者ならばその師のようになるだろう」と訳しています。つまり、弟子に修行をさせる師がいるのです。その方の指導をきちんと受けることによって、弟子も師のようになれると言うのです。そして、これら二つのたとえによってイエスさまが語ろうとしておられることをはっきりと示しているのが第三のたとえです。

  《あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。自分の目にある丸太を見ないで、兄弟に向かって、『さあ、あなたの目にあるおが屑を取らせてください』と、どうして言えるだろうか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる。》
  「兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、自分の目の中に丸太があることに気付かない」、イエスさまはそういう人のことを批判しておられます。「兄弟の目にあるおが屑は見える」とは、人の目の中にある小さなちりや埃に気づくこと、つまり人の小さな罪や欠点をあげつらい、ことさらにそれを指摘して、それを取ってやるという親切を装いつつ人を批判することのたとえです。しかし、実はその人自身の目には「丸太」があるのです。その意味は、その人の目はふさがれていて何も見えていないということです。
  私たちも、自分は目が見えていて、人のことを批判することができる、あの人を罪人として断罪することができる、と思っている時にこそ、よく気をつけなければなりません。「人を裁くな」とはすなわち、あなたの目の基準で隣人を測るなということです。自分の目の中にある「丸太」とは、自分にも罪があるにもかかわらず、相手の過ちを非難、攻撃すること、つまり、自分は正しいものとし、相手よりも上に立って物事を見る「高ぶり」のことであると言えるでしょう。そういうことでは、決して相手の目の中にある「おが屑」を取り除くことはできません。
  イエスさまは42節の最後で、「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができる」とおっしゃいます。私たちは、本当の意味で目が見えていない偽善者です。見えるつもりで人を裁き、批判し、それで自分が立派になったように錯覚してしまう者です。そのような偽善者である私たちは、先ず自分の目から丸太を取り除かなければなりません。
  ところが、私たちの目をふさいでいるこの丸太は、自分では取り除くことができません。それができるのは、イエスさまお一人です。イエスさまはそれを、私たちの目をふさいでいる罪をすべて背負って十字架にかかって死んでくださいました。神の子であるイエスさまが、ご自分の命を犠牲にして、この丸太を取り除いてくださったのです。このイエスさまの十字架の死による罪の赦しの恵みにあずかることによって、私たちの目は開かれます。本当の意味で見えるようになるのです。私たちは、その開かれた目を持ってはじめて、人を裁くことのなく、人を罪人だと決めず、自分に罪を犯す者をも赦すことができるのです。人の必要、苦しみを見て取り、自分のものを与えて助けていくことができるようになります。そのような、本当の意味で開かれ、見えるようになった目で隣人を見ることができるようになれば、私たちは兄弟の目にあるおが屑を取り除くことができるでしょう。
  イエスさまは、人の罪など一切問題にするな、どんなことでも赦せ、と言っておられるわけではありません。地上を生きる私たちの歩みには、やはり問題にしなければならない罪があり、正さなければならないことがあります。しかしそれを、イエスさまによる赦しの恵みによって生かされている者として、互いに戒め合い、互いに悔い改め合い、赦し合いながらしていくことを、イエスさまは求めておられるのです。そのために、私たちの目を繰り返しふさいでしまう丸太をイエスさまが取り除いてくださり、本当に見えるようにしてくださることを、つねに祈り求めていきたいものです。