2014年12月21日  待降節第4主日  ルカ福音書1章67〜79
「ザカリアの預言」
  説教者:高野 公雄 師

  《父ザカリアは聖霊に満たされ、こう預言した。》

  父ザカリアは、メシア(救い主)イエスさまの先駆けとなった洗礼者ヨハネの父親です。ザカリアという名は、旧約聖書にゼカリヤ書という預言者の書がありますが、そのゼカリヤを新約聖書の言葉ギリシア語に音訳した名であって、ザカリアとゼカリヤは同じ名です。「ヤハウェは覚えている」を意味するこの名は人気があって、旧約聖書にはこの名の人が30人以上いるそうです。
  ザカリアとその妻エリサベトは高齢になるまで子がなく、もう子を持つことはあきらめていました。ザカリアが神殿で祭司のお勤めをしているとき、天使ガブリエルが現れて、子が与えられることと、その子をヨハネと名づけるべきことを告げます。ザカリアは驚くばかりで信じられません。すると天使ガブリエルは、「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」と言って、予告が実現するときまで口を利けなくさせます。
  月が満ちてエリサベトから子が生まれたとき、人々は何と名づけるかをヨハネに尋ねると、ザカリアは天使が告げたとおり、「その名はヨハネ」と答えます。その途端にヨハネの口が開けます。この一連の出来事で神のみ業、神の現臨に深く触れたザカリアは、聖霊に満たされて、その口から賛美の言葉がほとばしり出ます。

  《ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。昔から聖なる預言者たちの口を通して語られたとおりに。
それは、我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い。》

  ダビデはイスラエルを代表する王です。ユダヤ人はずっとダビデの子孫がメシア(救い主)として到来することを待ち望んでいました。しかし、神が実際に与えたメシアは、人々が待ち望むメシア像をはるかに超えており、人々の期待とは全く異なっていました。それはザカリアの預言の中でも暗示されています。
  ここで、「訪れた、解放した、起こした」と過去形が用いられていますが、これは将来の預言の確かさを表わす預言者の語り方です。「解放する」は直訳では「贖いをする」で、身代金を払って奴隷を身請けして解放すること。「救いの角」とは、動物の角が力の象徴として用いられて、救いをもたらす強い力、つまり救い主のことです。イエスさまによって実現した神の救いは旧約聖書の預言の成就として起こったものなのです。

  《主は我らの先祖を憐れみ、その聖なる契約を覚えていてくださる。これは我らの父アブラハムに立てられた誓い。こうして我らは、敵の手から救われ、恐れなく主に仕える、生涯、主の御前に清く正しく。》

  アブラハムは、神が選び立てたイスラエルの先祖であり、罪によって呪いに落ちた世界に信仰によって祝福をもたらした人物です。アブラハムとの間に立てられた「聖なる契約」とは、創世記22章、あのイサク奉献物語の帰結として書かれているのです。主の御使いはアブラハムにこう語りかけます。
  《わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである》(創世記22章16〜18)。
  神の命令に従い、独り子をさえ惜しまずに神に献げようとするアブラハムの信仰に対して、神は彼の子孫の増大と敵に対する勝利と、地上の諸国民に対する祝福を約束されました。つまり、神に祝福されるのは、アブラハム個人だけにとどまらず、彼の子孫たちでもあり、さらに地上の諸国民でもあるのです。それが信仰に至ったアブラハムと神との間に立てられた「聖なる契約」です。
  ダビデの家から起こされた「救いの角」は、「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」とあり、神がアブラハムとの聖なる契約を覚えていてくださるから「我らは敵の手から救われる」とあります。これは、具体的に目に見える敵である場合もありますが、彼らは、そういう武器をもって襲ってくる外敵とだけ戦っていたわけではありません。彼らにとって最も手強い敵は、外敵ではなく、むしろ自分の心を襲撃して来る敵、罪なのです。アブラハムもダビデも、生涯戦い続けなければならなかったのは、この敵です。神を疑わせたり、自分の力を過信させようとしたりして、絶えず神との愛と信頼の交わりを破壊し、彼らを神から引き離そうとする敵です。その罪との戦いこそ、彼らにとっては本質的なものでした。そして、神がその民を訪れ、また聖なる契約を覚えてくださる時、アブラハムもダビデも、その子孫も、敵の手から救われ、恐れなく神に仕える、礼拝することができるようになるのです。

  《幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。》

  ザカリアに与えられたこの幼子が、のちの洗礼者ヨハネです。彼は、預言者としてメシアの到来を告げ、また、「救い」が「罪の赦しによる」ものであることをはっきりと知らせることによって、来たるべき救い主イエスさまの道備えをするのです。
  この救いの出来事は、ただ「神の憐れみによる」のではなく、「神の憐みの心による」と言われます。この「心」という言葉は、犠牲獣の内臓を指しますが、「はらわたの底から」というような意味で、心の奥底を指すようになりました。「暗闇と死の陰に座している者たち」に対する神の心の奥底から発する憐れみ(恵み)が、この救いの出来事をもたらすのです。その憐れみによって、神はもはや天には留まっておられず、そこから地上に、その闇の中に訪れてくださるのです。
  「高い所からあけぼのの光が訪れて」来ます。「あけぼのの光」とは「日の出」のことですが、それが「高い所から」訪れます。この比喩は、神から来る光、世の闇を照らす光である救い主を指しています。その光、つまりイエスさまは「我らの歩みを平和の道に導く」お方です。この「平和」は戦争のない状態を言うのではなく、人と神との本来あるべき交わりにあることによる平安を言っているのです。
  敵を憎み、敵に対して武力で報復し、倍返しをすることを当然と思わせる力こそが、私たち人間にとって最も手強い敵です。私たち人間は、ずっとその敵の前に敗れ続けています。人間の殺し合いである戦争を、「正義のため」「平和のため」としていること自体、罪に敗北していることです。その戦争に勝ったところで、真の敵の手からの救いなどありません。戦争が終わっても絶えず仮想敵国は存在し、それはいつか現実の敵となるのです。これが、全世界で繰り返されている人間の歴史です。私たちが本当の敵が誰であるかを見誤っているのです。本当の敵は罪です。そして、その罪という敵に対して、私たちは無力です。
  神の「憐れみ」こそが決定的なものであることは明らかです。この「憐れみ」の故に、私たちは希望が持てるのです。私たちは、罪の力に絡め取られている限り、自分自身に何の希望も持てない存在です。罪の力に絡め取られるとは、「暗闇と死の陰に座している」ことしかできないことです。殺し合いをする戦争もまた「暗闇と死の陰に座している」人間の絶望的な業です。罪に絡め取られている人間の姿です。神が見ている現実は、そういう私たち人間の現実です。

  イエスさまは、「神の憐みの心」です。この方が高い所から訪れてくださる。しかし、それは同時に「あけぼのの光」が地平線から上って来るように訪れてくださることでもあります。陰府の中から復活された命の光として上って来られる。その光を見ることができるか否か、その光に心を向けることができるか否か、ただそこにだけ、私たちが罪の闇の中から救い出されるか否かが、懸かっているのです。
  イエスさまは、「罪の赦しによる救い」を与えるために、「高い所から我らを訪れて」くださる神です。栄光に包まれた天から、暗闇と死の陰に覆われているこの地上に、あけぼのの光として到来してくださる救い主です。それは、イエスさまにとっては、まさに自殺行為です。死の闇に呑み込まれることなのですから。闇の中に入らねば、死の中に入らねば、罪の奴隷となって死に瀕している私たちを救い出すことができません。その救いのために、イエスさまは天から地上に来てくださいました。人間が生まれる場所としては最も惨めな家畜小屋で生まれ、そして、人間が死ぬ場所としては最も惨めな十字架の上で最悪の罪人として殺されたのです。その死によってしか、新しい命は生まれません。それゆえ、神はついにご自身の独り子をさえ惜しまずに、私たちに与えてくださったのです。死の闇の中に輝く命の光として。

  私たちは今日も、高い所から訪ねてくださったイエスさまが真ん中に立ってくださる礼拝に招かれ、その礼拝を捧げています。その礼拝の中で、旧約聖書以来の神の言は必ず実現することを知らされ、神の憐れみの力を知らされています。だから、私たちは、今この時、目を上げてイエスさまを、その光を見つめましょう。そして、耳を澄ましてその声を聞き、豊かな祝福を受けましょう。
  今週、いよいよクリスマスの日を迎えます。栄光に輝く天から地の闇の中に到来してくださった救い主イエスさまを礼拝する日です。暗闇と死の陰の中に座しているひとりでも多くの人に、あけぼのの光の到来を伝えることができるように、そして私たち自身がその光を反映することができるように、心を合わせて祈りましょう。