2014年12月28日 降誕後主日 ヨハネ福音書2章1〜11
「カナでの婚礼」 説教者:高野 公雄 師
《三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた》。
フィリポとナタナエルの二人を弟子としたイエスさまは、それから三日目のある日に婚礼の席に招かれました。カナはナタナエルの出身地であって、ナザレの北13キロあたりの町です。
イスラエルでは婚礼は重視され、婚礼には、地域の名士としてラビ(律法の教師)も招待されました。弟子も招かれていることからすると、イエスさまはラビとして招かれたのでしょう。なお、婚礼には夫婦二人で出席するのが原則ですから、ここで父親が言及されていないのは、この時にはヨセフは亡くなっていたことを示唆していることになります。
当時の婚礼はさまざまな形態で行なわれましたが、一般的には、花婿が友人親類などに伴われて花嫁の家に行き、花嫁は両親の祝福を受けて、花婿に渡されます。そして、二人は花婿の家に行き、そこで祝宴が開かれるのです。この祝宴は翌日再開され、長いときには一週間も続いたといわれます。花婿と花嫁に身近な人たちは、その間終始居合わせました。
《ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った》。
婚礼当日の夜の宴会は特に重要でした。裕福な家では、その町全体を招待することもあったようですから、比較的貧しい家でも、できる限りの人たちを招いたと思われます。このように、大勢の人たちが入れ替わり訪れるので、多量のぶどう酒が必要であり、しかもその量は、訪れる人の数に左右されますから、途中でぶどう酒が足りなくなることもあったようです。これらの宴会を含めて、婚礼全体を取り仕切る人が必要でした。のちに登場する《世話役》がその人です。
母マリアがこの窮状を感じ取って、イエスさまに執り成します。《ぶどう酒がなくなりました》。ところがイエスさまの答は、びっくりするようなものでした。《婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません》。イエスさまは親子のような肉によるつながりの中での、命令や要求に従うという形でご自身を現すことはしませんでした。イエスさまはそうした私たちの願いや望みを実現してくださる神としてご自身を現すことをいったんは拒否されます。人間が思うような形で神はご自身を現されるのではない、神がよしとされる時と所に従って、神はご自身が神であることを現されるのです。それゆえに、私たちは信仰の歩みにおいて、人間的には理解できないような苦しみや悩みに直面することがありますけれども、そこで私たちが祈るとき、イエスさまと向き合い、その言葉に聴き、その深みにある思いを知らされていくのです。祈りは「神との対話」だと言われます。
イエスさまは、父なる神から与えられた時が来るまで、自分からは動こうとはされません。それがたとえ母からの依頼でも、人からの指示で行動されることはありません。しかし、母は召し使いたちに、《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》と言います。福音書には、助けてくださいという切なる願いに対して、イエスさまが拒否の態度を示されても、なおイエスさまへの信頼を貫いて、その信仰をほめられたという物語があります。たとえば、僕を癒してもらった百人隊長(マタイ8章5〜13)と娘を癒してもらったカナンの女(マタイ15章21〜28)などです。ヨハネ福音書では、同じ信仰の姿が母の態度で語られていることになります。
《この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください》。初期のキリスト教徒は、この言葉を合い言葉にしていました。なにか困ったことがあるときには、まず「イエスさまのところへ行って、イエスさまの言うとおりにしなさい」と。これは、私たち、イエスさまを信じる者のモットーです。
《そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」》。
イエスさまは他の誰からの要求によるのでもなく、ご自身の自由と権威に基づいて召し使いたちに命じられます、《水がめに水をいっぱい入れなさい》、《さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい》。この水がめは二ないし三メトレテス、すなわち100リットル前後が入る大きな瓶(かめ)です。それが六つですからかなりの量になりますが、この瓶から汲み出された水が極上のぶどう酒に変わったというのです。宴会場では、何事もなく祝宴が続いていったことでしょう。けれども、その背後では、驚くべき神の御手が働いていて、その営みが支えられ、守られていたのです。
私たちの日々のささやかな営み、何気なく、当たり前のように思っているかもしれない歩みの中にも、父なる神の深い配慮と支えと守りがあるのです。そしてそこに満ち溢れている恵みは、私たちがお返しすることのできない、圧倒的な恵みなのです。もちろん、私たちがその恵みに応えていくということはあります。けれどもそれは、私たち人間の世界で普通考えるような、贈り物に対して、同様なお返しをするという程度の話ではありません。もしそうであったら、ユダヤ人たちが清めに用いていた瓶の水だけで用は足りていたのです。清めの水を用いて自らを清くしようとする営みが破れるところ、人間が自分の力でもって清く生きようとする努力が打ち砕かれるところ、そこにこそ「主の栄光」が現れ出るのです。
《イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた》。
ヨハネ福音書は、イエスさまが水をぶどう酒に変えた出来事を「しるし」と意義づけ、イエスさまが《その栄光を現された》出来事としています。イエスさまが行なわれる奇跡は、目に見えないイエスさまの本質を指し示す「しるし」だと言うのです。つまり、ヨハネは、この奇跡に象徴性を与えて、それが「霊的な出来事」であることを示そうとしています。ですから、この奇跡は単なる霊能の業ではなく、イエスさまが神から遣わされたメシアであることを「開示する物語」へと変わるのです。
イエスさまは神と共にいます永遠のロゴスが受肉した方であり、父から世に遣わされた方、神の子、他に同質の者はない神の独り子であるというのが、この福音書が主張するイエスさまの本質です。そのイエスさまの神的本質は「栄光」と呼ばれます。目に見えないその栄光、私たちと同じ人間の姿の中に隠されているイエスさまの神的本質を現す出来事が「しるし」なのです。
清めの水がぶどう酒に変えられたのは、旧約の時代が終わり、新しい救いの時代が始まったことを表します。後になって出された「良いぶどう酒」とは新約時代の救いを表していたのです。
ぶどう酒は、イザヤが預言したように、終わりの日に実現する聖霊による神との交わりの喜びを象徴しています。《万軍の主はこの山で祝宴を開き、すべての民に良い肉と古い酒を供される。それは脂肪に富む良い肉とえり抜きの酒。》(25章6)。イエスさまは婚宴の席で水をぶどう酒に変えることによって、結婚を祝福されるだけでなく、神の救いの御業、終末時の喜びの婚宴が実現していることを指し示しているのです。
結びとして、《それで、弟子たちはイエスを信じた》とあります。彼らは、イエスさまの「栄光」を見て、イエスさまの不思議な愛の全人格的な赦しを信じたのです。イエスさまを信じて、その罪の赦しを受け入れ、イエスさまの御霊に与る者とされたのです。
「清めに用いる水がめ」そのままでは、私たちを救い出す力はありません。この水がめは「極上のぶどう酒」、すなわちイエスさまの血潮をその内に満たさなくてはなりませんでした。このカナで行なわれた最初のしるしは、イエスさまの十字架の出来事をすでに指し示しているのです。
このことを知らされるとき、私たちは聖餐の恵みを改めて覚えます。とこしえの命に与かる喜びの宴に、イエスさまこそが招き手となって、私たちを呼んでくださっているのです。イエスさまがその血潮によって打ち立ててくださった新しい契約に、私たちが目を開くよう求めておられます。まことの祝いの食卓を整え、私たちを招いておられるのはイエスさまご自身です。御国の祝宴を、教会は聖餐において味わい始めているのです。
私たちが信仰の目を開かれ、イエスさまの招きを知り、信仰を告白してその招きに応える者とされることを、イエスさまは今日も熱心に待っておられます。来たるべき新しい年が、いつも新しく主の恵みの言葉を聴き、神の臨在の輝きを仰ぐ日々となるよう、私たちを招いてくださっているのです。