2014年12月14日  待降節第3主日  ヨハネ福音書1章19〜28
「洗礼者ヨハネの証し」
  説教者:高野 公雄 師

  3本目のバラ色のローソクが灯りました。きょうの第3主日は待降節のほぼ中間にあたり、この日からいよいよ後半に入ります。イエスさまはもうそこまで来ています。きょうの礼拝はその喜びをもって行われますので、伝統的に「喜びの主日」と呼ばれています。それでも、きょうの福音はまだイエスさまが表に出て来ません。ヨハネによるイエスさまについての証言を聞くのです。
  ヨハネ福音書では「洗礼者ヨハネ」という呼び方は一度も出てきません。洗礼者というタイトルを付けないことによって、彼が「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」をする人である以上に、ひたすらイエスさまを証しする人であることを示しています。

  《さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」》

  この福音書で「ユダヤ人」というのは、イエスさまとイエスさまを信じる者の共同体に敵対する勢力、とくにその指導階層を指します。彼らの本拠地はエルサレムの最高法院(議会)です。イエスさまが活動された当時のユダヤ教指導層は、民衆に大きな影響を及ぼしている活動家を警戒し、その教えに律法違反がないか、その運動が反ローマのメシア運動としてローマの支配層から嫌疑をかけられないか、神経質になっていたようです。イエスさまの場合も、エルサレムから律法学者が派遣されて、イエスさまの宣教を監視したことが、マタイ15章1その他に伝えられています。
  派遣された者は「祭司たちとレビ人たち」とあります。「祭司」は神殿の祭儀をとり行う者たちです。「レビ人」というのは、祭司が神殿の祭儀を行うさいに、その下働きをしたり、音楽を奏でたり、神殿を警護したりする人たちです。
  彼らはエルサレムから、ヨハネの活動していた場所「ヨルダン川の向こう側のベタニア」(28節)に派遣されたのです。この地名は10章40にも出て来ますが、どこを指すのか不明です。イエスさまが泊まられたエルサレム近くのベタニア(ヨハネ12章1)とは違います。
  ヨハネは、「あなたは誰か」と尋ねるこの監視団に対して、はっきりと「わたしはメシアではない」と言い表します。このヨハネの答えから逆に、彼らの「あなたは誰か」という質問は、「お前は自分をメシアとしているのか」という尋問であることが分かります。それに対してヨハネは、隠すことなく「わたしはメシアではない」と言い表します。この「言い表す」という動詞は法廷用語で、公式に証言するという意味で用いられています。
  彼らはさらに、「では、何なのか。あなたはエリヤなのか」と彼に尋ねます。エリヤは王国時代に活躍した大預言者であって、預言者を代表する預言者です。エリヤは火の車に乗って天に昇ったと伝えられていて(列王記下2章11)、終わりの日メシアが現れる前に天から下ってきて、メシアの出現を準備すると期待されていました(マラキ3章23〜24)。そのエリヤかという質問に、洗礼者ヨハネは、「いや違う」と答えます(21節前半)。
  エルサレムから派遣された審問官が、「では、あなたはあの預言者なのか」と尋ねると、彼は「そうではない」と答えます(21節後半)。「あの預言者」というのは、申命記18章15〜18で、モーセが「わたしのような預言者」が立てられることを預言したことに基づいて、終わりの日にイスラエルに出現すると待ち望まれていたモーセのような預言者を指します。
  そこで、彼らはさらに、「では、いったいだれなのか。わたしたちを送り出した人々に答えなければならない。あなたは自分を何だと言うのか」と追求します。それに対してヨハネは、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道を真っ直ぐにせよ』と荒れ野で叫ぶ声である」と答えます(22〜23節)。
  ヨハネの宣教をイザヤ40章3の預言で意義づけるのは、先週聞いたマルコ1章3と同じです。ヨハネは「ユダの荒れ野に現れて、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野密を食べていた」のですから、彼をイザヤの「荒れ野で叫ぶ声」預言の成就としたのは自然であり、これは初期のキリスト教の共通の伝承であったと見られます。

  《遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。》

  「遣わされた人たちはファリサイ派であった」(24節)という説明がありますが、19節には「ユダヤ人たちがエルサレムから祭司たちとレビ人たちをヨハネのもとへ遣わした」とありました。祭司たちは大体サドカイ派であり、レビ人もファリサイ派ではないので、ここは、「遣わされた人たちの中には、ファリサイ派もいた」という意味に理解しておきます。
  彼らは、「あなたがメシアでもなく、エリヤでもなく、またあの預言者でもないのなら、どうして洗礼を授けているのか」と、ヨハネをさらに問いつめます(25節)。ヨハネは、自分がメシアとかエリヤとか「あの預言者」というような終末的な救済者でないことをはっきりと表明しました。ではなぜ洗礼を授けているのか、と審問官は追求します。これは、エゼキエル36章24〜28やゼカリヤ13章1などの預言によって、終わりの日に清めの水を注いで民を清め、神の民を集めるのは、メシアまたはその先駆者というような終末的救済者の業であるとされていたからです。そのような者でないと自分で言うお前が、どうして洗礼を授けているのかという尋問です。
  ヨハネの洗礼について、この福音書には詳しいことは何も書かれていませんが、「罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼」であることは、マルコ1章によって知られています。それを思い起こすならば、ファリサイ派が激しく迫って来る動機も分かります。つまり、「罪の赦しを人間が授けて良いのか。罪の赦しは、罪を犯した人間が自らを清める努力によって得られるのではないか」とファリサイ派は言いたいのです。要は、彼らには恵みによって赦しに与るという信仰が全くなかったということです。
  「なぜ、洗礼を授けるのか」との問いに対してヨハネは答えます、「わたしは水で洗礼を授けているが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。わたしの後から来られる方で、わたしはその人の履物のひもを解く資格もない」(26〜27節)。ヨハネは、預言の解釈を争うことはしないで、自分が行っている洗礼の意味を端的に言い表します。すなわち、自分が水で洗礼を授けているのは、「わたしの後から来られる方で、わたしはその人の履物のひもを解く資格もない」方を指し示すためである、というのです。この表現は先週読んだマルコ1章7のヨハネの言葉と同じです。「履物のひもを解く」のは、奴隷の仕事でした。この言葉は転じて、弟子が師を敬う姿勢を言うようになりました。
  しかも、その方はすでに「あなたがたの中に、あなたがたの知らない方として立っている」と証言します。洗礼者ヨハネが指し示す「わたしの後から来られる方で、わたしはその人の履物のひもを解く資格もない方」とは、何百年も後に出現する方ではなくて、すでに「あなたがたの中に立っている」方、すなわち、あなたがたと同時代の人物だというのです。ただ、あなたたちはその方を理解せず、受け入れることもしないので、その方は「あなたがたの知らない方」としてとどまっているのです。
  イエスさまこそ、ヨハネが自分よりも限りなく優れた方であると証言し、その意義を証言した方であるのに、「ユダヤ人たち」は自分と同時代のイエスさまがそのような方であることを理解せず、受け入れることなく、ついに十字架につけてしまいました。イエスさまは最後まで「あなたがたの知らない方」であったのです。
  「わたしは水で洗礼を授けているが」という言い方は、「わたしの後に来ようとしている、わたしより限りなく優れた方」は、水でする以上の洗礼を授ける方であるということを示唆しています。そして、その意味はすぐ後で、「聖霊によって洗礼を授ける人」(33節)という表現で明示されます。しかし、そのことを語る前に、その方が「聖霊によって洗礼を授ける人」となるために通られる道、「世の罪を取り除く神の小羊」(29節)の道が証言されることになります。この二つの証言が、ヨハネの「来るべき方」についての証言であり、実にこの二つはキリスト証言の典型です。ヨハネは、この福音書ではイエスさまをキリストであると証言する者の代表、模範的証言者とされているのです。

  イエスさま御自身もこのヨハネの証しを重視しておられ、それは真理についての証言だと言っておられます。5章33〜34にこうあります。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく」。ヨハネの証言は人間による証しです。わたしにとってはそれは必要のないものであって、父なる神の証しこそが重要なのです。しかし、今、ヨハネの証しを取り上げるのは、あなたがたの救いのためだ、と言っておられます。ですから、わたしたちも、きょう聞いた真理についてのヨハネの証しは、わたしたち自身の救いに関することだと心得て、深く心に留めましよう。