2014年4月6日 四旬節第5主日 ヨハネ福音書11章17〜27
「イエスは復活であり、命である」 説教者:高野 公雄 師
《さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。》
きょうの福音は、「ラザロの復活」という名で知られるヨハネ11章です。伝統的には11章全体を朗読するのですが、非常に長い個所ですので、きょうの朗読はその中心部分、イエスさまとマルタの対話だけにしぼりました。
ことの発端はこうです。マルタとマリアの兄弟ラザロが重い病いの床に伏しました。姉妹はイエスさまのもとに人をやって、ラザロが重体だと伝えます。このとき、イエスさまはエルサレムからの追っ手を逃れて、ヨルダン川の向こう側、つまり東岸に滞在していました。そこは《ヨハネが最初に洗礼を授けていた所》(10章40)、イエスさまがヨハネから洗礼を受けた場所であって、エリコの町から南東へ11KMにあるベタニア村(1章28)です。不思議なことに、ラザロが住んでいた村も同名のベタニアです。オリーブ山の南東の麓の村で、エルサレムから15スタディオン、3KM弱のところにありました。こちらのベタニアからヨルダン川の向こう側のベタニアまでは2日、急げば1日で着けました。
使者からラザロのことを聞くと、イエスさまは《この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がこれによって栄光を受けるのである》(11章4)と応じます。すでにラザロが死んだことをご存じなのでしょう。すぐに駆けつけることなく、二日たってから弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」と言って歩き出します。ラザロの病気を治すのではなく、死んだラザロを甦らせることで神の栄光を現そうとしているのです。それはまた、ご自身が十字架の死に向かう歩みでもありました。罪の支払う報酬が死ですから、ラザロを死から解放するためには、人の罪を贖うことが必要なのです。
イエスさまが着いたときには、ラザロは墓に葬られて既に4日も経っていました。死後4日を強調するのは、当時、3日経っても息を吹き返さなければ死が確定することになっていたからです。
《マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」》
ここに、マルタの信仰が表われています。ラザロが死んでしまったあとでも、これからイエスさまがなさろうとすることへの信頼を言い表わします。人は罪と死の圧倒的な力のもとで悩み苦しみます。だからこそ、マルタも私たちもイエスさまに支えていただきたいのです。
《イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」》
イエスさまは来たのは、病いを癒すためではなく、死者を甦らせるため、それによって神に栄光を帰すためでした。しかし、マルタはこの世が罪と死の支配下にあることは分かっていて、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と答えます。これが、当時の「復活」の理解です。復活とか永遠の命というのは、この世のことではなく、死後のこと、来世のことと考えているのです。
それに対して、イエスさまは「わたしは復活であり、命である」と宣言なさいます。ここに、ユダヤ教の「復活」信仰を超えるキリスト教の「復活」信仰が明らかに示されています。イエスさまが復活であり、命であるのですから、「ぶどうの木のたとえ」(15章)が言うように、イエスさまに繋がっている私たちは、イエスさまから命の水、命のパンをいただいて生き始めているのです。私たちは死すべき命を生きている今、すでに新しい命、復活の命にあずかっているのです。
私たちがまことの神を信じ、神さまのみ心を体現するイエスさまを信じ、神さまの愛に包まれていることを信じると、私たちは復活の命そのものであるイエスさまから古い自分を脱がされ、新しい命を着せられるのです。この新しい命のために、死の手前のこの世にありながら、すでに死を超えて神さまの世界に生きるのです。「死んでも生きる」とは、このことを言うのであって、体は死んでも魂は生き続けるという意味ではありません。死後の復活ということも、この新しい命があればこそ信じられるのです。
ですから、「終わりの日の復活の時に復活する」と信じることは、間違いではありませんが、それは真理の半分です。イエスさまを信じれば、今ここで、新しい命、復活の命をいただけるのです。「このことを信じるか」と問われて、マルタ「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と答えます。ヨハネ福音には、他の福音書にあるペトロの信仰告白「あなたこそ生ける神の子メシアです」という記事はなく、女弟子マルタが弟子たちを代表してこの信仰を告白します。
マルタの信仰告白に続いて、イエスさまは死後4日も経ったラザロを生き返らせてくださいました。この奇跡をヨハネは「しるし」と呼びます。「しるし」とは、肉の目で見、耳で聞こえるこの世の出来事を手掛かりとして、霊的、信仰的なことを伝えようとするものです。聖書はこの世の生き返りを通して、人を罪と死から解放する本当の復活、永遠の命があるということを、そしてイエスさまはそれを与えることがおできになる方であることを伝えようとしているのです。
死んだ人が生き返ることと永遠の命が与えられることは、次元の違うことですから、用語も別だと分かり易いのですが、聖書は前者を後者の「しるし」として用語をはっきりと使い分けていません。むしろ意図的に前者の用語を後者を表わす比喩またはメタファーとして使っています。眠りから覚めるも、死から生き返るも、文字通りの意味と同時に、永遠の命が与えられることを比喩的に表わす言葉としても使っています。また、日本語の「甦り」は、文字通りの意味なら「黄泉帰り」であって、死人がこの世へと生き返ることを意味する言葉ですが、そのまま永遠の命を与えられること、つまり復活の意味にも使われています。しかし、生き返ることは、救いではありません。救いは、永遠の命にあずかることです。
ヨハネはラザロの甦りの奇跡を題材にして、古い命の甦りではなく、新しい命の誕生について話しているのです。この世の命だけを見るならば、甦ったラザロはいずれまた死にます。しかし、イエスさまを信じ、新しい命に生まれた人は、《死んでも生きる》または《決して死なない》とイエスさまは言います。
11章は《ある病人がいた》と始まりましたが、その病人はラザロであると同時に、私たちでもあります。私たちもまた死に至る病にとりつかれているのです。私たちは神から離反した生き方をしているがために「罪を犯さざるをえない」という持病を患う病人です。必ず死ななければならない罪びとなのです。そういう私たちにイエスさまは「この病は死に至らず」と言ってくださいます。気休めを言っているのではありません。イエスさまはそう宣言なさるために、ご自分の命を懸けて、私たちの罪を贖い、父なる神に執り成し、罪と死の虜(とりこ)となっている私たちに救いと解放への道を切り開いてくださったのです。
ラザロを甦らせたことが契機となって、祭司長たちとファリサイ派の人々によって最高法院が招集されます。そして、大祭司カイアファは言います、《あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか》(49〜50)。その結果、《この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ》(53)のです。イエスさまは、イエスさま一人を殺すことによって、神殿も民も救われるというこの世的な判断によって殺されました。ラザロを死から呼びもどす奇跡が、イエスさまに死をもたらす、この皮肉な事実の中に、大切な真理が隠れて現れているのです。イエスさまは救い主として私たちに命を与えるために自らを犠牲になさいます。この真理について、ヨハネこう書いています。《神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである》(3章16)。
イエスさまはこの福音を礼拝の中で繰り返し語ってくださっています。「このことを信じるか」とのイエスさまの問いかけに対して、「はい、わたしは信じております」と答え続けていく中で、私たちはイエスさまの与える復活の命を生きていくのです。