「あなたへの礼拝メッセージ」       

 キリストにならうやさしさ
 ヨハネ13:34、ピリピ1:1~8

 私たちの教会は将来ビジョンを「キリストのように」とかかげています。すばらしいビジョンに向かって信仰生活を歩んでいる私達がほんの少しでも、「キリストのように」なれば教会はどうなるでしょう。

 5年前、私達をこの教会に招聘されたある方が天国のような教会になるようにと望んでおられました。そうなる事をわたしはいつも祈っています。

 その為にも、キリストにならわないといけない事は山ほどあります。

今月はそのうちのいくつかを取り上げてみます。今朝はお互いをカバーし合う「やさしさ」についてキリストからならいましょう。(祈り)

第二回目の宣教旅行の時、ある夜、パウロの夢にマケドニヤ人が「私たちを助けて下さい。」と
言ったのでパウロとテモテ、シラスなどの一行は、異邦人福音宣教の最初の町ピリピに遣わされました。

 ユダヤ教では成年男子が10人以上いる町では、シナゴーグを持つ事ができるのですが、ピリピにはシナゴーグ・会堂(聖書の朗読とお祈りの場)がありません。パウロは、祈る為に川岸に行くと、そこに女達がいました。

 そこで、紫布の商人のルデヤが福音を信じ、その家族も神を信じて皆がバプテスマを受けました。また占いの霊にとりつかれている女から悪霊を追い出したら、ユダヤ人という事でパウロ達はむち打たれ、牢に囚われてしまいます。

 しかしパウロとシラスは、牢の中で神を賛美していると、大地震が起こり、囚人の鎖が切れてしまいました。自害しようとした看守に、

「主イエスさまを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と教え、看守とその家族がみな信仰を持ちました。

 これが、ピリピにおける初穂達です。このクリスチャン達にパウロはが手紙を書いたのがピリピ人への手紙です。今月はこのピリピの手紙を中心に考えます。 

 パウロは手紙に、「聖徒達だけでなく監督と執事達」とも書いています。
監督というのは、教会を監督する任務にある人です。

 執事は、教会の物質的な事柄に奉仕する任務にある人です。この監督と執事にも手紙を宛てているという事は、ピリピの教会が堅実に形成されていた事を表しています。

 パウロの他の手紙では、自分のことを「使徒であるパウロから」と言っていますが、ピリピではパウロがピリピの人々から使徒だと尊敬されていたので、兄弟愛をもって、親しみをすら感じながら書かれています。 

 このピリピ人の手紙は、教会について実際的な事柄、キリストにあって天のすべての霊的祝福に与るという真理を受け入れた者達が、喜び、感謝し、苦難をともにする、クリスチャン達の生き方について書いています。

 彼は手紙の至る所で「私は喜びます」と表明し人には「喜びなさい」と薦めます。それはキリスト者が互いにその喜びを分かち合う者だからです。 

 「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 イエスさまの御許に来た
 ツァラート(重い皮膚病)の人が人目をはばからず憐れんで下さいと叫んだ時、
 12年間も長血を患っていた女性が群衆の中でイエスさまの衣にさわった時、
 
 姦淫の現場で捕まって責められる孤立無援の女性に、
 そのほか聖書の中にはたくさんの人々に。

 むしろ、イエスさまに敵対している者にも「やさしい」ことばをかけておられます。

●どうしてイエスさまはいつも「やさしい」言葉をかけられるのでしょう。

 それは神の愛をお持ちですから。
 父なる神のみ旨を理解し、神の愛をよく知っておられるからです。

 「わたしがあなたがたを愛したように・・」
このことばには「イエスさまがあなたの為に具体的に何をして愛の証しをして下さったかよくよく覚えていますか」と問われています。

 それは「人がその友の為に命を捨てるという。
 これよりも大きな愛はない」という事。
 私達が互いに愛し合う限度については制限のないことを述べています。

 なぜなら無きに等しい、取るに足りない罪人であるあなたを救おうと、
 御子イエスはこの世に来られ、
 十字架でご自分の命を捨てるという「究極の愛」を示されたからです。

 この事実を受け入れたあなたは信仰生活にあってキリストのようになる事を望むべきです。

 勿論人によって違いがありますが、ある人は礼拝を大切に守り、ある人は献身し、謙虚に、謙遜に主に仕えるかもしれません。

 さて、教会でお互いに考えの合わない兄弟姉妹を受け入れることが難しい時があります。
そんな時あなたは主の前に出て、自分を探り反省し、自分が神に愛され、罪赦された者である事を覚え、互いに許し、尊敬できるように願い、祈って下さい。

 自分では何もできない、神の前に負い目のある自分。そして十字架で神がどれだけ愛して下さったかを静かに考えましょう。愛は自分の利益を求めません。愛は自分を与えようと働きます。

「神さま、あなたが私を愛されたように兄弟姉妹を愛します」と素直に言えますように。
神が変えて下さいます。

時にはそれがあなたにとって悔しい事、辛い事であるかもしれません。でもそれをさえ神は知っておられます。必ず大きな祝福に変えて下さると主を仰ぎましょう。

 あなたを愛し祝福される方から目を離さないように。
あなたに求められている事は、ただ神のみことばに素直に従う事だけ。

あなたの愛の尺度の基準はキリストの愛です。キリストの愛は現実であり力があります。
そして
すべてのクリスチャンは自分が愛をされる事を求めています。

ですから自分から、
考えの合わない兄弟姉妹のために何か出来ることはないだろうか」と考えるのも問題解決の一つの道かもしれません。聖書に「愛は、すべてを完全に結ぶ帯である。」と記されています。(略)