2012年3月17日
夫(牧師)の退院から3ヶ月余りが経ちます。慣れない生活に体がまず悲鳴を上げ、
心も落ち着かず、誰も責めるわけでもないのに自分で背負い込む状態でした。
何をしていても自由ではなかったということです。でも何をするか、誰にどう応答
しなければならないかは、知っていました。
かって、仕事に出ていた時も当然不自由さがありました。これがなければと思える
ことの中にいましたから、今を感謝すること、喜ぶことができなければと、私の信仰の
決断の大切さに目を向けました。与えられた自由を信仰によって(みことば)選ぶのは
私のすることであるのは承知しつつも決断するのに環境からくる弱さを感じていたの
です。ひとたび落ち着いて神様とのお交わりの中に身を置くとベールを一枚一枚取り
去られ見えてくる世界があります。深い御心と示される恵みとあわれみです。



2012年3月10日
パウロ先生が「私は罪人の頭です。」とおっしゃったが、わたしも同様に良いもの
ではない。だからこそ、キリストの贖い、罪の赦しの福音は私を生かします。
神様が義人と見て下さるからです。これまで心を揺さぶられ、どうして乗り越えたら
良いのだろうかと、幾度も悲鳴をあげるできごとの中を通ったことだろうか。
その都度,私は大きな声を上げた。主に向かってである。真実なお方である主の
答えが必ずそこにあり、慰められました。憐れんで頂きました。
聖書を通して、そのみことばの事実を体験させられることばかり、
「死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。」(箴言・18:22)
いのちを頂く経験が今週もあった。だから私は生きられる。主の名を呼ぶ者は
みな救いを受ける。簡単なようでできないことを神様は時々知らすために
へりくだらせる。真実な私の叫びを聞きたいとおしゃられる。自分の力で歩まない
ために。みことばの戸が開かれると愚かな者を悟らせて下さる。この福音は
恵みだが、奥が深い。ハレルヤ。
                              若本多美子


3月3日
友達から庭に咲いたと椿の花を頂きました。神様の作品の中で花々は何んと
色彩に富んで美しいことだろうと常々思います。近年は驚くほど様々な種類の
美しい花を見せられます。どれも本当に美しいです。
私の好みは集まってこそ美しく見えるコスモスのような花なのですが、なぜか
椿の花は大好きなのです。子供の頃、冬の寒さが抜けきれない頃に、緑の葉の
中に鮮やかに咲く赤に魅せられて以来,儚く散りゆくその有様にも心を惹かれた
そんなこともあってかも知れません。聖書に「空の鳥を見なさい。野のユリを見なさい。」
と、みことばに触れる時、自然を通して語られる神様の御言葉に慰めとその大きな
愛に触れた経験を思い出しました。目の前のことに振り回されて、ゆったりと
神様の創られた世界に目を留めることの少なかったこの頃、椿の花を通し、儚く
咲くものの中にも、目を留めていて下さるお方の語りかけを聞くことができました。
神様にあって無駄な事は何もない.大輪の花になれない私、寄り添ってこそ生きられる
自分であることを知っています。神様これからもよろしくお願いします。ついでに
夫も。                              若本多美子


2012年2月1 1日
「主の恵みは大きく、そのあわれみはとこしえに尽きることはありません。」
私の証しが途切れもう1 0ヶ月にも及びました。その間、証しは山のように
ありましたが、書きしたためるには私には少し限界がありました。しかし、
人生最大の恵みの時であったことを声を大きく上げ神様にお礼を申し上げ
たいのです。
夫(牧師)の入院が5月に始まり、それは命に直面することでした。1 2月まで
それぞれに弱さの中を通りました。断食の祈りに始まった信仰と神様の知恵が
与えられた医療チーム、様々な方々のサポートを頂き、医師をして「奇跡」と
言わしめる復帰を遂げました。ハレルヤ。
牧師入院中の教会を預かることになり、私の体も心も絶えず限界との戦いが
ありました。記録の苦手な私は、その大事なことを覚えておらず、ただ主の
あわれみによって支えられたことだけを事実として主を讃えております。
その間、私は福祉の仕事の退職と「おばあちゃん」なる恵みも頂きました。
生きる中でのできごとは「これがなければ」と思うことがありますが、最も
神様の愛を知る時であり、へりくだり、恵みに感謝し、憐れみによって生かされる
者であったと、素晴らしい時であったと言えます。
神様、周りの皆様、本当にありがとうございました。
                                若本多美子



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2011年4月30日
主の十字架によって私たちに賜った二つのことを考えてみたいと思います
一つは全人類の罪の代価はすでに払われていることです
神様との関係が回復されました
それゆえに私たちは御国の民として祝福されるべきだと思います
しかし、もう一つ戦わなければならないことがあることです
神様の支配権を持ち敵に勝利しなくてはならないことです
二つの面に於てしっかりと目標を設定し御名によって進むことを求められます
どう見てもこの世はサタンの支配の中で滅びに向かっています
光の中に招き入れて下さいましたキリストの御名によって
子の暗闇の支配者、天井に要る悪の霊に勝利をおさめなくてはなりません
「その偉大な御名(力)を通し、働いて下さるとは何んという使命でしょう
終わりの時代に用いられる器でありたい者です。
                             若本多美子


2011年4月23日
主の御復活を共にお祝い申し上げます
罪と罪過との中で死んでいた私が
主の憐れみによって愛して下さったその大きな愛のゆえに
キリストと共に生きる者にされました
ハレルヤ!
命を生きる存在であることのゆえに
やはり神を褒めたたえる礼拝者の道こそ
真の姿と思っています
賛美することもどこか行為となっていなかったかと
しばし留まります
主が私を用いて命を流し出す器として用いられたいのです
どうしても捧げる器を持って下さる主を覚えます
奥義としての管理者は従順、仕える者である以上
私の信仰は答えることにある
賛美で仕え、御ことばで仕え、祈りで仕えること
ことばだけが踊らない為に心を捧げます
                              若本多美子


2011年4月16日

  「さあ、主に立ち返ろう。
   主は私たちを引き裂いたが
   またいやし、
   私たちを打ったが
   また包んで下さるからだ・・・・
   私たちは主を知ろう
   主を知ることを切に追い求めよう
   主は曙の光のように
   確かに現われ
   大雨のように
   私たちのところに来
   後の雨のように地を潤される」
                   ホセア6:1〜3
主はこの国が震われることを許されました
倒れる為でなく堅く立つために
全ての高慢を打ち砕かれる必要がありました
そこに大きな犠牲と痛みがありました
この事実を前に私たちの真のとりなしを問われます
世界の国が今この日本に向けられ祈りが積まれています
神様と沢山の人たちの愛されています
後の雨のように地を潤される
リバイバルに向かって主の愛の御計画を知らされます
今こそ主を追い求める時です
雨のためにいなずまを造ってくださる主よ
この国が生きるために風を送ってください
私も祈りの手を挙げます
                                 若本多美子



2011年4月9日
「自分を愛(赦す)するようにあなたの隣り人を愛(赦し)しなさい」
赦しの福音によって生きる者にされた時
その愛に答える私の赦しが数多く祭壇にささげられてきました
その度に主の解放、自由を体験し、この福音の素晴らしさを体験してまいりました
ただ一つのことを別にしてのことです
私のその一つこそ大きな痛みであり
自分を赦してはいけないような強迫観念に似たものでした
どうしても「自分を愛するように」のみことばより
「愛しなさい」が先行したものになっておりました
順序が違うことを知っていてもです
いつものように娘のことでとりなしていた時のことです
十字架の前において「主よこれが私の娘に対する愛です」
と宣言した時のことです
娘を捧げることが出来たのです
聖霊様は「もういいよ、自分を赦してあげなさい」と
優しく語って下さいました
キリストの十字架は確かに私たちを
聖なる、傷なく、迫められるところのない者とされた(コロサイ1:22)ことを
確認するとともにお取り扱いを頂く時となったのです
ハレルヤ!
                                          若本多美子


2011年4月2日
少しの心の中を通りました
魂の救いの達成のためにどうしても通らなければならないことは確かです
霊なる神のことばに従い感情を超えた御支配の中(光の中)に生きる幸いです
「悪魔に機会を与えないようにしなさい」エエペソ4:27
「悪い言葉を一切口から出してはいけません
 ただ必要な時、人の徳を養うのに役立つ言葉を話し
 聞く人に恵みを与えなさい」エペソ4:29
子の御ことばは大きな課題であり私に語っています
「さらに神がキリストにあってあなたがたを赦して下さったように
互いに愛し合いなさい」エペソ4:32
もう私の口に一言もなく
目標であり主の愛も感じます
憐れみに満ちた主の前にしばし祈りの時となりました
従うことの根拠を明確に十字架を通して描き出して下さっていることを思う時
遅々としていても信仰をそこに置きます
真の自由をお与えくださるお方に何としてもお従いしたい
                                 若本多美子


2011年3月26日
この度東日本対震災では多くの悲しみが日本を襲いました
今、頭を垂れ神様の前に祈ります
このことで「私たちの出来ること(から)をしましょう」
と訴えている言葉を聞きます
この国は痛みました
けど、生きるために励ましや支援を通して
失いかけていた心の一部を取り戻しているかのように思います
それは希望の光にも見えます
しかし、わたしたちクリスチャンは真の光をもたらす方
イエス・キリストにある者として
何か差し出し、出来ることにして頂くのでしょうか
一肢体としての役割を御ことばによって私の出来ることとして決断し行動したいものです
従わざるを得ない状況にないように見えるかもしれません
しかし、真実は進んでいなければならない状況だtおもっと知るべきだと思うのです
「わつぃを強くしてくださる方によって、何でもできる」
個人として、教会として、ひいてはこの国のために
今あるところから立ち上がりたい!ものです
祈りと愛によって
                               若本多美子



2 0 1 1年3月1 9日
「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださるであろう。」
                                         (ヤコブ・4 : 8)
どれだけ多くの時間、沢山のことを主を小間使いのように扱って来たことだろう。人格(神格)を
お持ちなのだから、私だったらとっくの昔に腹を立てていたでしょう。にもかかわらず大きな愛で
赦し、忍耐して下さいました。
結局「私」中心でしたから、神御自身であるみことばの祝福は実り少ないものにしてしまいました。
「私」をささげられなかったことと「無知」であったこともあります。しかし、神御自身であるみことばを
知る時、少しずつささげることを学び、試練を通して、へりくだることを教えられました。それゆえ、
従うこと(従順)によって、神のために要塞をも破壊するほどの力を与えられていることも知りました。
「神は高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みを賜う。」(ヤコブ・4 : 6)
まだまだその道の途上でありますが、礼拝者になる意味を知らされています。
主に知られていることは、何と自由なことか。ハレルヤ.                   若本



2 0 1 1年3月1 2日
小さい頃から私の手はいろいろなものを握って来ました。自立という名の下に頑張ってきた
ことは、私を認めて欲しいという心の表れであり、それは習慣化して私を作り上げました。
キリストに出会って甘えることを知り、少しずつ荷を下ろすことを知りましたが、相変わらず
私は律法主義的であったと思います。サウルのように決定的な剣の時もあったと思います。
人を傷つけ、自分も傷ついてしまう。神の憐れみは、ダビデのように琴が与えられたことです。
それも自己顕示に始まりはしましたが、琴は私を癒し,だんだんと礼拝者へと導かれたように
思います。何んと幸いな者でありましょうか。神様は私に近づいて下さいましたが、今は、
私が御前に進み出る者にされています。愛とあわれみを知ったからです。
「この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と
化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。」(使徒行伝・15: 16)
真の礼拝者として琴を奏でたいと思います。主に捧げるために



2 0 1 1年3月1 3日
3 8年間もベテスダの池に臥せっていた病人について考えさせられます。(ヨハネ5章)
彼の主観は「誰も自分を池に入れてくれる人がいない。」でした。その結果、傷ついていたことも
合わせて、聖書はあえて「病人」と呼んでいることに目がとまります。3 8年に及びました。
しかし、祭りの日彼に客観的に声を掛けられるイエス様に私の考えの中にいた病人は
聞くことができず、答えられない事実を見ます。「聞く者は生きる」病人は止まる必要が
あったのです。私もまた笑えないのです。神様から見て、私は何年の病人か分かりません。
みことばを聞く者であり、応答するものであるなら、彼のように立ち上がることができるでしょう。
聞き方に注意し、死人でさえ生かすことのおできになる神の業が、この身に6 0年の私に
起こされるべく「聞く者」であり「応答する者」であるようにキリスト者として自立を計りたいものです。
                                                 若本

3月5日
38年間もベテスダの池に伏せっていた病人について考えさせられます(ヨハネ5書)
彼の主観「誰も自分を池に入れてくれる人がいない」でした
その結果、傷ついていたことも合わせ
聖書はあえて病人と呼んでいることに目がとまります。
38年に及びました。
しかし、祭りの日、彼に客観的に声を掛けるイエス様に
「わたしの考えの中にいた病人は聞くことができず答えられないことをみます。
「聞く者が生きる」
病人は止まる必要がありました。
私もまた笑えないのです
神様から見て私は何年の病人か分かりません
御ことばを聞くものであり、応答する者であるなら
彼の様に立ち上がることが出来るでしょう。
聞き方に注意し、死人でさえ生かすことのお出来になる神の御業が
この身60年の私に起こされるべく
「聞く者」であり、「応答する者」であるように
キリスト者としての自立を計りたい者です
                        若本多美子

2011年2月26日
「従順」とか「仕える」とか言いながら、言葉だけが踊っているような私の歩みです。
果たして主の評価はもっとあわれむべきものかもと思っています。当然、私はこんな者です。と
言える程、確信の持てるものを自分の中に見い出せません。むしろ神様愛に対してもっと
感謝に溢れるべきで、涙と恥ずかしさに首を垂れるべきです。
放蕩息子の父は「待つこと」でその愛を示して下さいました。だから私はみことばに対し
応答することで愛に答えて行く者でありたい。今更そんなことを言っているようではと思いますが
私のうちに御霊としてお住まいになって下さる主は何んとへりくだりのお方であろうかと
思うからです。主の真のお姿に触れる時、私の高慢も自己中心もへりくだりの主の前に膝を
屈めるからです。その時「従順」に「仕える」ことの意味が見えてきました。
ヤコブ・4 : 6                                      若本



2 0 1 1年2月1 9日
過日、呉を訪れた帰り、大雪に見舞われました。自然の力の前に何人もの人を乗せて
動く電車も立ち往生しました。いつ復旧するか解らない電車の中で私の心も立ち往生、
終いには少々苛立ちを覚えました。後に控える仕事に間に合うかという心配がそうさせた
のです。そして間に合ったものの続けての宿直等々、今度は疲れによる体調不良です。
ああ何んと私は弱い者よ。環境に守られて自分の実在すら錯覚している者でした。
しばし真の私の現実に向き合うことの大切さを示して頂きました。頭なるキリスト抜きの
私の事実は、手足が自分の良いと思うことに勝手に動いていたに過ぎないのです。
キリストに戸をたたかせ、耳のある者は聞きなさい。裸であることを知りなさい。
見ることのできる目薬を買いなさい。とお子サバはやはり光を当てて下さいます。
光の中にある者の歩みを、信仰をもってしっかり進まなければと、もう一度確認です。
                                          若本



2 0 1 1年2月5日
「応答する」ことについて、しばし考えてみました。みことばに応答する。メッセージに
応答する。挨拶に応答する。どれも相手を認めなければ出来ないことです。誰もが
知っている答えのはずですが、時として信仰の応答に至らず、また返事のないことで
人間関係を損なってしまいます。私にとって疎外は最も傷つくことです。つまり応答の
ないことです。挨拶は最初の関係と思っています。応答は愛の一歩と考えます。
神様は、私のように傷つかれないでしょうが、応答を喜ばれるのは確かです。
みことばに従うことも、朝に夕に祈ることも、アーメンと応答することも、応答は、つまり
私からの愛の証しですから。黙るばかりだと、十字架をむなしくしてしまいます。
「あなたの口を大きく開けよ。」(詩篇・8 1 : 2 0)です。          若本



2 0 1 1年1月2 9日
聖書は学べば学ぶほど、奥が深く、私はそのいくばくかも知っていないことを知らされます。
しかし、十字架による救いを知ると、聖書が読めますし、みことばに従って生き、成長する
ことができます。それはまるで子供から大人への道を進むのに似ています。
私の学んだカウンセリングも、サイドワークである障害者においても共通した自立の道を
示すものです。神様は私の御父様ですから真理の言葉で私を育て、直して下さいます。
必要なのは、私が聞くことであり、従うことであり、それによって成長させて下さいます。
どれだけ任せて頂けるか、私の信仰の姿勢が問われます。私への祝福であり、
また、使命を与えられる。二つの道を車の両輪のようにうごきたいものです。
自分がどんな者であるか、光を当てられれば当てられるほど、この贖いの代価が大きく、
感謝でならないからこそ、思うのです。                    若本



2 0 1 1年1 月2 2日
サウルが召し出されるサムエル記を読んでいます。王となったサウルが、祭司サムエルを
待てず燔祭をささげてしまいました。務めを間違えた主の命令に反する行為でした。
サウル、後のパウロも自ら良いと思う召しに忠実にクリスチャンを迫害しました。しかし、
後に彼は主に従いました。その結果「選ばれた」主の器になりました。
みことばは「選ばれる者は少ない。」と語ります。召しに預かり、選びを頂くキリスト者に
です。今、宣教のために、みことばに動かされて仕える者、従う者でありたいと思います。
忠実さを求められます。私自身も、この教会も、選ばれるために召しをどう考えるかが
問われています。                                若本



2 0 1 1年1月1 5日
「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。
どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。
わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」(イザヤ・48:11)
はっとしました。栄光を主にお帰ししますと言いながら、いつしか知識の言葉になり
真のへりくだりに欠けていました。あなた様がせよと言われることをなし、止めよと
おっしゃれば従うことのできる姿勢からは、ずれていましたと、悔い改めです。
線路を走らなければ目的地には着きません。主の栄光がイスラエルを去ったと
言われないために、もう一度お仕えする方に全ての栄光をお帰しする信仰の歩み、
姿勢を持って進みますと、天とのパイプを明らかにしました。聖霊様どうぞ導いて下さい。
                                            若本



2 0 1 1年1月8日
「終わりの日に、主の家の山は、山々の頂きに堅く立ち,丘々よりもそびえ立ち、
すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの
神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を
歩もう。それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。』

(                                 (イザヤ・2 : 2 、3、ミカ・4 : 1 - 3)
元旦の朝、突然主から語られた御言葉です。この地に雨(主の訪れ)を求める私への慰めに
満ちたものであり、主の現実です。
「主はあなたが(教会が)地に蒔く種に雨を与え、地の産物なる穀物を下さる。」
それはあびただしく、かつ豊かであると、光の側にある幸いを見せて下さる神様に
望みを置きます。「それは失望に終わることはない。」と語られますから。アーメン。
感謝いたします。                                     若本



2 0 1 1年1月1日
明けましておめでとうございます。
偉大なる神の御計画U、私たち異邦人の救いがあります。この時代に与えられた
役割を考える時、どうしても漠然とした歩みではなく、明確なビジョンのもとに祈りと
行動を期待されます。救いは主のものですが、器として差し出す者か要ることも確か
です。そこでこの私も、教会としての役割、家庭および私自身について探っています。
全てを聖霊様の助け導きのもとに身を置き、使って頂くべく従順と仕えるスピリットを
要求されているのです。
地の呪いは打ち破られました。十字架の悔いを打ち、目しい、耳しいが開かれ、思いを
眩まされた魂の霧が晴れる時が来たと、信仰の目を向けます。人の救いを見たいのです。
そのために使って頂きたいのです。                      若本



2 0 1 0年1 2月2 5日
主の2 0 1 0年も間もなく終えようとしています。主の御摂理の下、全てのものは従い、
その営みを続けています。主の造られた世界は美しいものです。そして、この私も
主の御計画の中で存在し、その使命を託されています。御名と御言葉は、
その私への保証です。全ての御栄光を主にお帰しいたします。
さて、教会の皆さま一人一人のことも顧みています。それぞれに戦いがありました。
しかし、主に在って一つ所、教会において肢体として生きられる事実こそ、戸ゅ祝福
された魂であると確信し、喜んでいます。共に喜びと感謝の声を挙げたいものです。
そして「後の雨の時、主に雨を求めよ。」とあります。雨を求める祈りの手を挙げ続け、
来る年に必ず実を結ぶことをトン度増す。与えられた信仰こそ、世に勝つもの
だからです。ハレルヤ。                           若本



2 0 1 0年1 2月1 8日
主の御降誕を共にお祝いします。
父なる神様が御計画され、子なるイエス様が実現のために来て下さいました。
救いの完成のためです。仕えることと従順に生きることを問われます。
神様の愛について常に感謝のうちにどう答えていくか考えていました。
様々な愛の形を示されます。どういう人を愛の人と言うのだろうか。人の量りで
言うならば、表す方も受け取る方も様々で、通じない愛の形さえあることを思います。
そんな中、主に語って頂きました。「わたしのことばに応答し、生きる者が愛の人」
なのだと、信仰に生きることだと、ただ聞くだけの者にならないでみことばを生きる
ことが、愛の人でもあると答えを頂いたのです。愛の定義でからまっていた糸が
ほぐれました。楽になりました。律法でない自由を得ました。クリスマスの意味を
今一つ深く知らされハレルヤ。です。クリスマスおめでとうございます。
                                       若本



2010,年1 2月8日
奥義としての管理者は仕えることであり、従順であると聖書は言います。
神のことばが真理であり道であり、いのちでであると言いながらも、やはり体験する人は
従順であることに帰っていくと本当に思います。自らを点検してみる目安であると
言えましょう。私も弱さを通りつつも少なからず、ここに戻ることができることを感謝します。
「信仰を問われることです。さて、誰もこの12月は多忙を極める月です。人に理解して
もらうより、主に忠実なしもべと呼ばれる歩みをするなら、平安を保つこともできるでしょう。
一つ一つこなしていくなら、愚痴ることもなく、主のご介入を頂きました。と栄光を主に
お帰しすることが出来ると信じます。恵みが注がれていますから。    若本



2 0 1 0年1 2月4日
「おとめイスラエルよ。あなたは再び建て直される。」
今週は急に体調不良で目眩がひどく、立っておられないほどの弱さを通りました。
「主は私のいのちの砦」(詩篇・2 7)
と告白しながらも、それは小さな灯のようで
辛さとの戦いの二日間でした。しかし、ハレルヤ。主は私を回復して下さいました。
弱さとの二日間を思いながら、支えられた恵みに感謝している時、語られた御言葉は、
あなたを再び建てると一方的に語られたのです。このように私は幾度も建て直されて
今を得ています。さの都度主は私のために戦っていて下さるのです。御手の中にある
身の幸いです。魂一杯の賛美を主におささげします。          若本



2 0 1 1年1 1月2 7日
私には様々な出来事の中で持っている、また心掛けていることがあります。それは良い
出来ごとでない時に必要な姿勢です。
「正直であること」誰に、もちろん神様にです。そのためには、まず自分と他の人に
正直になることです。分からないこと、失敗したこと、出来なかったことには、勇気が
いります。告白は魂に幸いをもたらすことを何度となく体験し、喜びになりました。感謝に
変わりました。「みことばには、たましいを救う力がある。」(ヤコブ・1 : 2 1)私の
知性がみことばに養われ、意思が信仰の決断をして感情を従わせる。バランスを保つ
ことに大きな信仰の努力がいりますが、何度もやり直しをさせて下さる十字架の愛によって
「恐れおののいて自分の救いを達成させてください。」(ピリピ・2 : 1 2)
とパウロが
言うようにです。明確な目標を示されていますから御心に添うべく差し出してまいります。
ですから、聖霊様導いて下さい。助けて下さい。              若本


2 0 1 0年1 1月2 0日
「たとえそうでなくても」(ダニエル・3 : 18)祈っている時、突然の主の語りかけでした。
少し心を騒がすことがあり、心を守るために戦いの中にいました。自分の問題だけなら
治めることもできたのですが、弱さの露出です。しかし、帰るべき十字架があることは
大きな慰めであり、出発です。そんな主の御愛を思いながら、放蕩息子に思いをはせ、
祈っていた時の御言葉でした。悔い改める者に、真実に報いて下さる主に魂一杯賛美を
おささげいたします。
私のその日が来るまで、信仰の戦いがあることでしょう。弱さを思い泣くことも恵みに
変わることですが、むしろ取るべき地がおおくあると今は思っています。  若本



2 0 1 0年1 1月1 3日
天野先生のメッセージを聞きました。主に渇きをもって祈ることの勧めに、本当に
アーメンでした。特にあきらめにいこと、飽きないことと語られ、用いられる人の信仰の
努力からチャレンジを頂きました。聖書の中に悪い裁判官であっても、あきらめず
訴え続けるなら聞いてもらえる。とあります。まして神は、日夜や叫び求める選民の
ために正しいさばきをなさらず、さのまま放置されることはないと書いてあります。
もう一度、何をあきらめないのか自らに問いました。「雨を求めることです。」と
答えます。「後の雨の時U、主に雨を求めよ。」(ゼカリヤ・1 : 1)とあります。後の雨の時
雨は必ず降りますから、これはあきらめずにすみます。が求め続けなければなりません。
明確な目標はまだあります。イエス様がサタンから取り戻して下さった祝福をもって
父なる神に栄光をお返しします。                        若本



2010年11月6日
「神よ。私を探り、良たしの心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを
知ってください。私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、
とこしえの道に導いてください。」(詩篇・139:23~24)
様々な出来事を通して私の感情が大きく動くことがあります。痛む出来事について
特に私は主に探っていただき、まず主に赦しを求めますし、私も相手を赦すことに
務めます。拒絶は良い結果をもたらしません。重要なのは。神の義を頂く前に愚痴らない
ことが私の課題ですが、「正直になる。」ことでこれまで多くの実を結ばせて頂いたことは
感謝です。主に信頼する信仰が私の正直の基本です。逆に正直でないことを見るのは
辛いことで、自らを飾っている姿はかつての私だなあとおもわされます。いろんなものを
置いていくと、ますます神様が分かります。愛が分かります。ささげものがりっぱて゜なくとも
主は大いに喜び、共にいてくださる。そんな領域に入りました。
                                        多美子



2010年10月30日
各々、その達し得たところに従って歩むべきである。
みことばは恵みのみことばです。必ずしも一斉にスタートラインに立った訳では
なく、与えられた信仰の量りも違います。今週は、個々の得た恵みの場所では
なく、教会として達し得た恵みの場所を思いみてみました。
神様と私との関係が教会という一つ所の栄光の現われと思う時、頭としての
キリストにいかに謙遜に、しかも従順に従って行くかにあると思います。
皆が一つ所に集まり、一致して祈るところに聖霊の力が注がれました。
目標のない走り方をせず、空を打つ拳闘はしないというパウロの言葉に励まされて
います。今、私は、教会は真に何を目当てに進んでいるのか考えてみました。
明確な目標は、信仰に結び付き、信仰は神様の御言葉による勝利に至らせると
知っているからです。


2010,年10月30日
クリスチャンであった母が生前よく感謝して言っていた言葉を
思い起こします。「自分の子供から二人も献身者が起こされるなんて
何んとすごすことか、こんな私からこんな家から」と。母は神様がなされる
ことに驚いていました。私もそう思います。先に救われた姉の献身生活を
見て、私はその苦労は避けたいと思っていました。しかし、神様を見る時、
その御言葉により、私も召し出されました。ハレルヤ。その後、周りの
献身者を見る時、やはり兄弟や親子が献身者になっているのを見て、
世襲ではない信仰の世界なのにと、何か不思議な気がしていました。
一人の人が悔い改めて救われる時、その家庭に祝福が流れ込みます。
霊的な呪いが打ち砕かれ、家系に祝福が流される結果だと確信します。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます・」
(使徒・16:31)
霊的な闇が打ち破られて、ますます祝福を流す器でありたいと、力ある決断をして、
イエス様の御名を掲げます。

2010年10月16日

「光はやみの中に輝いている」ヨハネ1:5

「闇はこれに打ち勝たなかった」とみことばは続いている。
光とか闇と言われると実に分かりやすい。
子供のころ、田舎の夜は真っ暗で
手探りの意味を実感させられたものです。
光は希望であり、安心、安全そのものと環境を通し学びました。

今、霊的世界に於いて、神はキリストを通し光へ移して下さいました。
闇の支配の中にないことを知りつつも、
みことばを通し信仰に生きていないことはないか、
多くの祝福を受け取れていない現実はないかともっと知るべきで、
信仰を働かせる決断が要ることに目を向けるべきではないか、
と自問をします。

その意識を持つならば私の告白は御名をたたえるものであり、
勝利の宣言、解放、いやし、祝福に満ちたものになるはずです。

私の口のことばによって信仰を計られ、また、
主に栄光をお返し出来るなら、
そのように口を開きます。

            若本 多美子


2010年10月9日

神の愛の偉大さをより深く知らされている今があります
                       エペソ3:17〜18
しかし時々、わたしの魂の救いの達成(ヤコブ1:21)に
務めなければならないことがあります。
それは、父との関係によって育てられた私の思い、感情です。
そこで私の学びの中で教えられたように、
あたかも父がそこに座っているように話してみました。
「今、私に声をかけてくれるとしたら、お父さん何んと言ってくれる?」と。
しかし父は「頑張ってきたね」とも「苦労かけたね、苦労したね」とも
何も言ってくれないのです。
誉めも叱りもしない父。無言こそ父不在の私の心であることが分かりました。
しばし唯一してくれたことを想い出しながら、父なる神の助けを待ちました。
突然、私を愛しているけれども
どう現われたら良いのか分からない父の姿を示され、
次々に父が私を思う気持ちを教えられ、
私は子供のように泣きじゃくりました。
大きな慰めの時であり、父なる神さまとの肩の張らないお交わりに入れられました。
そして、急がなくて良いのだよ、わたしは共にいる、と。

関係の修復は神の愛をより深く知る力であることに、又、気付かされたのです。

            若本 多美子


2010年10月2日

「神を礼拝する者は霊とまこととをもって礼拝しなさい」

石原義人師が天に帰られたと知りました。
セルチャーチの勧めの集会でお会いしたことがあります。
カウンセリングに於ても重荷のある方でした。
まだお若く57才であったようです。

この先生が最後を前に祈っていた時、
主は「あなたの心がほしい」と語られたようです。

私はこの言葉の前に思わず泣いてしまいました。
確かに私なりに主の愛に答えたい思いから
あれもこれもといつしか、
捧げものを何かすることにありました。
かつて私が苦しんだ時、
それら全てを置いて主とのお交わりの中に、
そして礼拝者としてささげる者へと導かれました。
主が何を求めているか知らされたものです。(からです)

主を愛する心、ひざまずいてただじっと自分をささげるところから
聖霊様の語りかけを聞くことができます。
そして再び立ち上がるのです。

            若本 多美子


2010年9月25日

今週の深夜、近年にない体験をしました。
大きな雷と稲光は雨と共にしばし続きました。
それは驚くべく自然の力でした。

宿直だった私は、いつ利用者が恐れて何らかの行動を
起こすだろうかと予測しつつ、対応を考えながらも、
天地を揺り動かすこの出来事にむしろ、
神に対する畏敬の念にかられておりました。
正しく聖歌にある、
「いかずちが 鳴り渡るとも 真の御神を思う
わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を」
と賛美に代わっておりました。

主権者なる神の御支配に服し、
私(たち)が無力であることを知らされる出来事は恵みです。
与えられている御名がいかに絶大な力であるか、
改めて思わされたものです。
全ての主権者である神をほめたたえます。

            若本 多美子


2010年9月18日

「すべてのことに感謝しなさい」
              Tテサロニケ5:18
このところいろいろな出来事が山積しました。
どれも主にある者として最善を信じています。
そんな中にあって「感謝」を思いめぐらせてみました。
変わらないみことばが側にあることの安堵。
いのちはわたしに心の豊かさを示され、
人の悪口にこんなに感謝したこともなく、
主にただ甘えて平安が与えられ、
私は何と幸いな者だろう、と振り返ったこと
感謝します主よ。
ただ私がなおあなたの道を全う出来ますように、
今まで同様にあわれんで下さいますように、
あなたへの賛美がわたしの口からいつもささげられますように、
感謝の口を開きます。
            若本 多美子


2010年9月11日

「富と誉れは主から出る。万有をつかさどるのは主である」
                       歴代史上 29:12
主を拝すること、賛美することが一番神に栄光をお返しすること
ということに勝ることはありません。
しかし賜わったおことばに信頼して告白しているのも
信仰からくる願い、祈りなのです。
そして気付かせて頂いたことは、
全ての保障であるお方が共にいるのですから、
私の心も体も、もっともっと豊かに過ごすこと、
それこそ主に栄光をお返しすることだ、との事実。

この事実を、神の現実に置くことに務めております。
肉に訴えられる時は、小さな信仰の努力からだと
みことばに信頼しています。

人は時々に何らかの戦いの中に置かされますが、
この時こそ、信仰を最も試みられる時であり、
実は恵みの場であるんだと知らされます。
ハレルヤ。
           若本 多美子


2010年9月4日

人は同じものをみても見方、見え方が違う。
当然、様々な出来事に於いてはますます複雑で
全ての人に受け入れて頂くことは皆無のようだ。
しかし、分かっていても人に期待し、一喜一憂もする。
そして悩みは尽きることがないのが常のようだ。
なんと人の測る世界は不確かなことよと思う。

キリスト者の基準はみことばにあり、立つべき場所が
定まっている。
迷ったり悩んだりするのは焦点がずれている証し。
考えてみれば「どう思われているか」ではなく、
私は「どう応答するか」にあると思う。
私はここに焦点をあてることで証しを立てたい。
だからやはり信仰の決断、応答になるわけだ。
感情を赦しに変える為に魂を従わせる。
困難に思える時も決断は「私のすること」で、
それを聖霊様は助けて下さる。
物事が起きた時こそ、その人(クリスチャン)の証しを
問われると思う。
           若本 多美子


2010年8月28日

これだけ暑い毎日が続くと集中力に欠ける自分をみます。
戦いがあります。
みことばを読むことも、祈ることも、
この暑さを乗り越えなくてはなりません。
ここに信仰の決断が要ります。
私はしばし賛美し、血潮をたたえ、御名をたたえます。
そう、信仰の声を挙げるのです。
聖霊様は私の信仰の決断(行動)を喜び助けてくださる
経験を度々させて頂いています。ハレルヤ!

私の願いはもちろんありますが、このところ
偉大なる神様の救いの御計画が進むことに
焦点をおきます。それだけにどれだけ聞き従えるか
問われるところです。

私の事情でなく、主のみこころに生きたい!
私の信仰の雄叫びです。
            若本 多美子


2010年8月21日

「今、わたしは、あなたが神を恐れることがよく分かった。
あなたは自分の子、自分のひとり子さえ
惜しまないでわたしにささげた」 創22:12

こんな大きな試みに会わなければ祝福を得られないのだろうかと
思ったことが思い出されます。
しかし、今は違います。身をもってそれの何たるかを学ばされて
自分を差し出すこと、ささげることを教えられ続けています。
信頼は礼拝と変えられています。
そして礼拝をお受けになられるお方は
教会の頭として崇むべきお方です。

奉仕も礼拝者としての意識のもとに仕えなければ
間違ったものに発展することを教えられています。
決してあなどられるべきお方でないことを
もっと魂は知るべきと身を引き締めて、
今、御愛に報いる礼拝者でありたいと思います。

            若本 多美子


2010年8月14日

「主よあなたはわたしを究め
わたしを知っておられます」
                詩139:1
思わずこの御言葉の前で泣いてしまいました。
神様の御愛から逃れることのできない幸いは
最も私を良く知りつつ愛して下さるお方のゆえです。
数多くのみことばに導かれ養われて参りましたが、
単純に受け入れて下さる神の愛に尽きます。

そして神様の大きな御計画のもと
宣教の果たす役割へと心が向きます。
私のように知って受け入れて下さるお方がいることを
多くの民が知りますように。

単なる飾りではなく、事実、この世界を造られたお方、
私を造られたお方からくる真実は自由と喜びだからです。ハレルヤ!
            若本 多美子


2010年8月7日

若い頃CS(こども礼拝)を受け持っていました。
今ほど知識はありませんでしたが、
主に御奉仕することは喜びでしたし熱心でした。
聖書のどこから語って良いか分からない牧師の為に
「成長」と言う月刊誌を用いておりました。
にもかかわらず、度々行き詰まり、
語ることに向いていないのではないかと悩んだり・・・
でも良く祈ったことを思い起こします。
そういえばと、その頃子供たちに話した言葉を思い出したのです。
「人は目を向けるもの、聞く者のようになっていきますよ」と。
音楽家は音に耳がいき、絵を書く人は見る世界を大切にする。
今、知恵と啓示を賜り、更に聖書を理解し、
主を知る者でありたいと願う私。
なぜなら、恵みの雨が降ることに魂の叫びがあるからです。
私の魂の向くものになる信仰の目は、
それを可能にすると信じるからです。
回想と共に告白です。
            若本 多美子


2010年7月31日

「主と交われば、一つ霊となるのです」
                   Tコリント6:17
霊なる神のことばによって生きるなら、主と一つ霊となると言うのです。
従うことが祝福につながることを知っていますが、
中々悟れない者です。
魂を従わせることは、しばしば困難に陥れられます。
意思の力もいりますが、感情は最も困難を覚えます。
信仰によってと言うように、難しいゆるしは決断だと知るからです。
先日ある精神科医が、訪れる患者の多くに、
ゆるさない為、怒りに支配されている自分に気づかないでいる人が多い
と話されていました。
キリストにゆるされている故に私もこの決断でゆるします。
怒りに捕えられることなし主と一つ霊の中に歩みたいからです。
聖霊様の助け、力はいつも私に注がれています。ハレルヤ!
            若本 多美子


2010年7月24日

当教会の献堂9周年記念感謝集会を
恵みのうちに持つことが出来ました。ハレルヤ!
集われた方々は確かに自分が選びとった行動でしょうが、
背後で働かれる主の御手を思います。
更に魂の応答を拝したいものであります。
霊的な壁がイエスの名によって打ち砕かれますよう
祈りは続きます。

聖徒のおひとりびとりは、自分が持った、
あるいは働いた信仰によって、
結果なる幸いを頂いて喜びに変わっておられることでしょう。
私もまた、不信のおおいが取り除かれ、思いをくらます闇の支配を
キリストの名によって打ち破られることを切に祈りました。
偉大なる主の御計画が前進するために
選ばれた教会であり、一人びとりでありたいと。
忠実、従順という献げものを求められていることは確かです。
            若本 多美子

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