2010年7月17日

イエス・キリストの「ゆるしの福音」に生きる者です。
そのゆるしがどんなに難しいものか、
生活の中で関わりを通し直面することがあります。
小さなことならゆるしも早いでしょうが、人格を傷つけられることがらには
困難な時さえあります。
しかし、主イエス様にゆるされたことの大きさを思うと感情が戦っていても
私はゆるすことを選択します。決断し選ぶのは私のすることだからです。
みこころにかなう信仰の決断は平安という実を結ばせて下さいます。
聖霊様のこのお働きに何度覆っていただいたことでしょうか。
感謝であり栄光は主のものです。
私がなすべきことをすれば、従う者に大きな報いが伴うこと、この体験は
神さまのみが与えて下さるものであります。
            若本 多美子


2010年7月10日

同じ女性として、聖書の中に出てくる方々を思いみます。
いざと言う時、ここぞと言う時、自分をさし出せるエステルに魅力を覚えます。
このところ母マリアに目を止め思いをはせます。
彼女もまた自分をさし出した方です。
共にいのちの危険を見ますし、それがあったからこそ
主の御計画が進んだであろうと感謝が満ちます。
エバの罪(正確にはアダムも)により、人類は呪われました。
しかし主は──女性の罪から始まったそれを──女性のマリアに
よって(明け渡しによって)イエスキリストが誕生し人類の贖いが
成就したことを思い、背後で働かれる神の愛をみました。
私もまたささげるなら何か動くはずだと信仰の期待があります。
            若本 多美子


2010年7月3日

「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われる」(ローマ10:9)

聖書は口で信仰のことばを告白することを語られ信じているのに
なかなか良い告白に結び付かないことが多い。
感情に訴えられるとなおさら守りにくかったりする。
神さまの造られられたこの体はもともと良い告白をするとその通りになると言う。
体の中にその機能がある。
ましてや、神のことばに従えば「出来る」者なのだ。
サタンはこれを知っており、私の口からことばをうばう。
聖書の音読一つを取ってみても多くの場合、
肯定的でない状況のもとが多い。
そこで私はいつもしていることがある。「決断」という信仰。
選ぶのは私にかかっている。
今日もこの決断のもとに信仰の声を上げる。
主イエスをほめたたえること、とりなし、救いの業が起こされること、
教会、私の目標など。
聖霊様は喜んで助けて下さる。
さて、日常生活における告白も、良いものに決断しなくてはと思う。
            若本 多美子


2010年6月26日

トータル(霊、魂、体)な信仰の生き方を求めています。
神の息を吹き込まれて生きる者になりましたが、
魂である、感情、知性、意思の救いの為にさし出す者であるように
信仰の努力をしていますが遅々たる歩みに自らを責める時さえあります。
創造主なる神さまは、喜びや感謝の心を持つことによって
私たちの体が応答し健康を生み出すように
造って下さっていることに目を止めさせて頂きました。
肯定的生き方とか積極的な生き方は聖書そのものであり、
土台である神のことばに基づいて、
「あなたがたにできないことはありません」(マタ18:21)
信仰を解き放ちたいものです。
頂いているものにスイッチを入れるのは私がすることであることを再認識です。
             若本 多美子


2010年6月19日

「死と生とは舌に支配される。
それを愛する者はその実を食べる」
                   箴言18:21
神の御支配の中に生きる以上、
神のことばに基づいた告白を言えば肯定的であり、
愛を基とするものであるはずです。
しかし何んと私の心を守り良い告白になっているかと言うと残念な自分を見ます。
同じ口から死と生のことばが溢れています、と
みことばはいましめて下さっています。
そんな中、賛美に戻ることに心を向けられます。
賛美は素晴らしい告白に満ちていますし
主の臨在をもたらして下さいます。
教えの風に吹きまわされることもありません。
自らの立ち位置を示され、
賛美のもたらす実に預かりたいと信仰の決断です。
             若本 多美子


2010年6月12日

母として、主イエスの母マリアのことを少し思いみました。
かつて、献身の意味をマリアを通し示され、
感謝に涙したものです。
再び心を向けられ聖書の記述に目を止めると
主の御降誕に関わること、説教中の主を訪ねること、
カナの婚礼、十字架のもとで主の最後を見とることに
マリアを見ることができます。人類を救う為に差し出したこと、
息子を失ったことの母の苦悩を思い・・・唯々、私の涙となりました。
一女性であったとしても、”明け渡す”者の手によって
福音の前進を見る時、この小さき者の中に灯を見い出します。
しかし何んと大きな犠牲の上に成り立つことか。

今は恵みの時、主から賜わるものは大きく、たとえそうでなくても
仕えていくなら神の栄光を拝することが出来ますから
今日も天を仰ぐのです。
             若本 多美子


2010年6月6日

すると彼は言った。「これはふたりの油そそがれた者で、
全知の主のかたわらに立つ者です」ゼカリヤ4:14

ハレルヤ!主の召しに応答し、この地に仕わされて25年を迎えました。
御名をほめたたえ、全ての栄光を主にお返しいたします。数多くの恵みを思い起こし
筆舌に耐えずにおりますが、共に歩んでおられます皆様方にも感謝を申し上げます。
尚、主の御支配の中で実を結ぶ群れであり、おひとりびとりでありますように祈ってやみません。

献身者であり、妻、母に合せ、世の仕事を持つ身はあまりに重責であり多くの無力感に
どれだけの涙があったろうと思っていましたら、喜び、感謝に変えることでしょうと細き声。
「自分」から「主」がお働きになることに明け渡す(委ねる)歩みへの始まりはこれからのようです。

「権勢によらず、能力によらず、わが霊によるなり」ゼカリヤ14:6
主が共にいますこと程大きな恵み、この愛を頂いて進めます。ハレルヤ!

そして心からイエス様をお祝い申し上げます。
             若本 多美子


2010年5月29日

「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り過そう・・・
あなたがたには滅びのわざわいは起こらない」
                            出エジプト12:13
イエスこそ過越しの子羊である、とパウロ。
水と御霊と血とは一致する、このおことばの中に
三位一体なる神を見い出しています。
さて、私は今週大きな試みに会いました。
子羊なるイエスの血を仰ぎ過越して頂くしかない者でした。
恐れが被いましたが守られました。
私はイエス様の血のもと名のもとにあり、
おことばは事実として生かして下さいました。
宣教の御使命が与えられています。何としてもこのお働きを前進させたい。
小さな者だからこそ、お捧げして参りたい。
今日も祈りはそこに行きつきました。
             若本 多美子


2010年5月30日

聖書の御言葉、今日はマタイ伝の25章を、午後からの聖書を読む会で学びました。
さて、羊飼いが羊とやぎを区別する話で、羊とやぎの違いについての話題の時、
ピンときたイエス様からの恵みは、「羊だけが羊を産むことができる」
という牧師先生からの一言でした。
今まで祈る時、「羊を用いてください」としきりにお願いしてきたのですが、
それはズレてたと気づきました。
羊だから羊を産む、というのは、羊として当然の生きざまというか、
深く納得させていただき、心にストンと落ち着いたのが分かりました。
もちろんそのように仕組んで下さっているのは神様なので、
創造主の命を繋げてくださる御愛に感謝A^^
ハレルヤーー(*>■<*)ノ!

            福島 千絵


2010年5月22日

カルバリの丘で流されたイエスの血を仰ぎます。
それは、頭の先から足の先まで、血、血、そのものであったことでしょう。
贖いの血潮は完璧に覆うものでなければなりませんでした。
「彼は血染めの衣をまといその名は神のことばと言われた」とあるからです。
主の十字架は今や私の中で奥義なるキリストに触れる尊い輝きなのです。
みことばは血で覆われイエスの名の力を放ちます。
後は、受け取る信仰、私の立場の問題です。
葛藤の中にも勝利者なるキリストを見上げます。
されども、私の戦いの多くは肉体の病にあります。
今週も負けられない戦いに「いのちとして贖うのは血である」「肉のいのちは血の中にある」
「主はわたしのいのちの力だ」と告白しつつ御名をたたえました。
主の真実は、私の味方でありました。
ハレルヤ!
            若本 多美子


2010年5月15日

「この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」
                                      コロサイ 1:27

この福音によって、いろんな喜びを体験させて頂きます。全てはみことばに従って
生きることの中にあります。ゆるしは一瞬にして何もなかったような平安の中に、
いやしもまた、いろいろ頂きました。
分けても奥義を啓示して頂ける幸いがあります。悟りを与えられる経験です。
時に知恵のことばによって祈っていることに気づき、
聖霊様のお働きによるもので、全てが神の栄光なのです。
私の口(告白)を通しいのちの力を解き放つ者であれ!と。
キリストはこの私を用いたいと御名の証印を賜っているのです。
何とすごいことか。栄光あれ主よ!
            若本 多美子


2010年5月8日

聖書を学んでいると
本当に何も知っていないものであったと気づかされます
しかし、そうであっても
真理の御言葉一つであっても
私を生かすのが神の言葉です
福音とは?が分かれば魂の帰る場所も分かるもの
感謝なことです
さて、聖書は信仰がなければ(働かせなければ)
神の喜ばれることはありませんとあります
感情を刺激された時
サタンはもっともここを通して支配してまいりますので
魂を守ることに努めなければと心しています
今日も揺さぶられました
しかし私は心に決めています
良い方を選ぶことを
神様!どのような解決で飾ってくださるのか楽しみですと
魂の叫びがあります
光の中にあるものの自覚が一段と私を守ることになりました
            若本多美子




2010年5月1日

「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛しなさい」(マタイ22:39)

神様の愛、ゆるし、力を頂き今日まで自分をゆるし、人をゆるし(まわりの人からもゆるされ)
沢山の恵みの経験をいたしました。ゆるすことは愛すること、
信仰によるこの経験は素晴らしいものです。
しかし、私には今一つ越えなければならないゆるしの領域があります。
どれだけ自分を責めたことでしょうか。
大切な存在を損ねたからです。
そんな私に主様は、重荷をおろしなさい、自分を愛してあげなさいと語って下さったのです。
少しづずつゆるしていきますと応答すると、私の魂は慰められ、
言いようのない込みあがるものがありました。
娘に対するこの経験は、確かに私を、少しばかりの弱さの分かる存在とさせていただきました。
「自分をゆるすようにあなたの隣り人をゆるしなさい」
と自らに語っています。

                 若本多美子

2010年4月24日

「聖なる父、あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って下さい。
それはわたしたちと同様に彼らが一つとなるためです」 ヨハネ17:11

イエス様の訣別の祈りは御名の中で一つとなることにありました。
道となって下さった故にキリストの中に生き、存在するものになった特権をもっと感謝し、
喜んで仕える者でありたいと思います。私の中に御住いを設けて下さった方の思いと一つとし、
信仰によって約束を受け取るためにも、御名の中にある者として日々立ち上がりたいと願っています。
それを妨げるものにエサを与えることのないよう心を守りたいものであります。
「主と一つになる」主の最後のメッセージだけにこれは重要と受け止めています。
                 若本多美子

2010年4月25日

私の兄弟の中で今日は二番目の姉について少しお話をさせていただきます
実家の近くの田舎に嫁いでやはり多くの苦しみを通りました
神様を信じていますがクリスチャンとして生きていません
しかし生き方は、誰に対しても愛そのもので
性格は良いものを持ち合わせており
人間的には私の誇りとするところです
この度兄の一人が試練に合い最も一番に犠牲を払いました

どうしてそこまでと思うほどその決断は憐れみであり愛なのです
天に宝を積む生き方にキリスト者である私は問われる思いをすることが多々あります
私は幼いなーというと、そんなことはないと本気で言ってくれるのです
そうだなあ、
イエス様もそれぞれに達しえたところに従って歩きなさいとおっしゃってくださる
謙遜にその御言葉を思いながらも
やっぱり愛においては踏み出すものになりたいと思います
                 若本多美子

2010年4月18日

体調不良をはじめ
日常生活の様々な事柄にしばし心を奪われていました。
主に雨を求める祈りです
大雨を人々に下さり
野の草が神様の栄光に満たされること
主の民が起こされる収穫の祈りのことです
この祈りに再び主は火を投じて下さいました
私の魂は燈心を消すことのないよう示され熱くされるのです
御心であることが分かります
主がお立てになさったキリストの教会です
御名にかけて守ってくださり
この僕のような小さな者に
その使命を託していただきなんと幸いかと
私の魂は溢れだします
差し出すものは小さいけど必ず勝利と信じます
「あなたの初めは小さくあっても
あなたの終わりははなはだ大きくなるであろう」
ハレルヤ!
                 若本多美子

2010年4月11日

主の御復活を共にお祝い申し上げます
今年ほどこの福音の素晴らしさをほめたたえたことはありません
聖書が明確になればなるほど
自分に与えられた立場を知るからです
それにしても戦いの大きさに弱さを覚えるものです
主の受難を覚え特別なお交わりの時としたかったにもかかわらず
病のために私の受難の時となってしまいました
めまいは約一週間にも及んだからです
気力は何の役にも立たず信仰による以外になかったのですが
それも勇者のごとくには行きません
主に血のおおいを祈るだけです
生かされていることを再認識いたしました
憐れみの中にいるものだとも知らされました
でも復活の命を私にも頂いている
「さあ、立てここから出ていこう」との主の御言葉の一節を思い起こしました
主の領域(光)にある者として天を仰ぎます
                 若本多美子


2010年4月4日

創世記22章は驚くべきことが記されています。主はアブラハムに
全焼のいけにえとして息子イサクをささげなさいとおっしゃる。
一番大切なもの、しかも、いのちを差し出せとの御命令。
さらりと読めない記事であります。
沢山のテーマを学びますが、今の私にとって神を礼拝することと、
礼拝者となることの意味を見ています。モーセも王座を捨て羊飼いになりました。
若い頃、中国のママ・クワァングの証しを聞きました。
迫害に遭い目の前で我が子を殺されたお証しでした。
自分の思いを置いて神に従うことを選んだ先人たちの”礼拝”を学んでいます。
捨て去ったなぁ、と。
今、私は、これ程の要求はされてないまでも、人生の様々の出来ごとの中から
ささげることを知らされました。あれもこれもと求めていましたが、
少々色あせて主を礼拝することに喜びを見い出します。
わたしのささげものは、主を拝することなんだと導かれています。
                  若本多美子


2010年3月20日

献身生涯を顧みています。
主に贖われた喜びに、わたしは何をもって
主にお仕えしたらよろしいのでしょうか、と
お尋ねし始めた頃を思い出します。
自分を知らず、今思えば、恥ずかしい限りですが、
それでも主はわたしを召して下さいました。
一度は幾分与えられた謙遜の故にお断りした後のことでありました。
働きはもとより、多くのものを脱ぎ捨てる作業はみことばに従うことを通し、
又、試練を通し、従順とへりくだりの訓練が続きました。
更に私の召しを感謝できず進めてばかりおりました。
ここへ来て少し謙遜にされた私の中で、
召しを賜っていることに感謝している自分があります。
良し悪しでもなく、向き不向きでもなく、主の御命令に答えていくだけです。
「権勢によらず、能力によらず、わが霊による」
感謝の証しは忠実であること、と思います。
ありがとうございます、主よ。
                 若本多美子


2010年3月21日

「わたしのあざの望むがままにわたしを引き渡さないでください
偽りのあかしをする者がわたしに逆らって起こり暴言を吐くからです」
                      詩篇27:11

正しくこのことばの通りに挑戦を受けました
私の義が傷つきましたからしばし魂の平安がなかったのです
しかし霊的な戦いでもあるわけですから信仰の祈りをいたしました
主が私の慰めであり
屈することのない力を与えてくださるのが分かりました
理解者もそばに置いて助けていただいたのも恵みです
悪魔はこの世の神ですから、目の前のものを持って誘惑してまいります
それこそ「退けサタン!」です
私は信じます
言える者の地で私は主の恵みを見ることを
それこそ主を待ち望み進みます
私の与えられている恵みを感謝する祈りへと変えられました
そこでまた「感謝します主よ」と感謝になりました
主を礼拝します
                 若本多美子



2010年3月6日

「あなたの宝のあるところに
あなたの心もあるからである」
マタイ6:21

私の心はどこにあるのでしょうか
私の宝にしているものは何なのでしょうか
目まぐるしく変わる私の心
時々の変化に私の宝も変わりながら
本当は自分自身を宝としていることに気づいているのです
さし出すものは何もないことを
主とのお交わりの中でいつも知らされては
また「自分」との中で行き来している
そんな自分を差し出す時
主はわたしに歌を与えられる
礼拝と言う名の捧げものだ
何かを求めるでもない
とりなしの祈りでもない
ワーシップ、礼拝に導いて下さる
これに勝るささげ物はないし
これに勝る祝福はない
私もここに小尾を立てましょうと言いたいほど
臨在に触れる喜びがあります
神を宝として生きたい
               
                 若本多美子


2010年2月27日

ホームの仕事に就いて12年、4月から13年目に入ります。
これ程続けるつもりもなかった年月、悩みながらもひたすらの年月で、
絶えず戦い続けていたと言って良いでしょう。
誰もそうなのでしょうと思いつつです。
多くのことを学び、沢山の弱さを覚えました。
神さまの御計画を知り、又、弱さを覚えました。
アダムとエバの罪によって、地は呪われ額に汗して働く身になりました。
十字架を通し全ての呪いから解かれている今、
この働きは祝福のものでなくてはならないと思います。
だからどれだけ自分は祝福された者としてその存在の意味の中にいるか、
もう一度考えています。
それこそ証しであり、主に喜ばれること、遣わされた意味でもあります。
とかく自分を責める私ですが、神さまに愛された私の存在、
あなた様に知られていることを喜びといたします。
                 若本 多美子



2010年2月20日

珍しくも先週はお証しを休みました。
時としてどこか立法的になっていた時もありました
から、そんな自分からの解放のようで
うれしくも受け止めています。
でもお証しがない訳でなく他のことに気を取られ
すっかり書きそびれたのが本当の理由です。
学びのレポートのこと、心の葛藤、仕事と山積み状態に
あったこと、聖日午後の御奉仕のことでいっぱいだった
自分がありました。
いつも神様は、私が乗り越えられそうにない時、
一つ一つやってごらんと問題を一緒にしないように導いて下さいます。
今回の帳尻を合わせて下さった主に感謝しています。
無力さを年々と感じていますけど神様の前に素直になるよう
自らをさし出します。
私の出来ることは僅かであることを承知しています。
また、人を躓かせたり失望させたりする者です。
でも、私が頑張って何かをではなく、私を通し主に働いて頂くこと
少しばかりさし出すことを
教えられています。
                 若本多美子



2010年2月7日

「誰でも立派でもない自分を
何か立派でもあるかのように思うなら
自分を欺いているのです。
おのおの自分の行いを良く調べてみなさい。
そうすれば、誇れると思ったことも
ただ自分だけの誇りで
他の人に対して誇れることではないでしょう
人にはおのおの
負うべき自分自身の重荷があるのです。」
                 ガラテヤ 6:3〜5

今、このみことばの前に膝をかがめます
立派でもないこの私を
キリストは命かけて贖って下さり
育てて下さっています
私の語る言葉がみことばに基づくなら
自分も育ち
また人をも生かすことに
少しずつ従ってまいりたく思います
主よ、みなさま、忍耐を感謝いたします
そしておゆるし下さい
                 若本多美子




2010年1月30日

右手の中指を見る度に
どうしてもお証ししなければと思いました
もう2カ月近くになるでしょうか
クローゼットに思いっきり挟んでしまったのです
今も爪にその時の挟んだ跡が残っているほどです
その時見る間に爪の下に血液がにじんでいるように見えました
咄嗟に痛い!ではなく
「主よ!あなた様に預かったこの身体を傷つけてしまいました
ごめんなさい!いやしを信じます」と
多分あまりにも完璧に痛みが取れたためでしょう
何事もなかったように忘れてしまいました
寝る時爪に挟んだ跡があるのに気づきました
変色のない爪に再び「ごめんなさい!」とお詫びと共に
感謝を主に申し上げました
当然ながら主は癒し主です
見事に私の叫びに答えて下さった主様でした
今ここにお証ししあなた様に栄光をお返しいたします
                 若本多美子



2010年1月23日

イエスの血潮を崇めます
イエスの血がイエスのいのちを表す以上
キリストの血で覆われる主との関係を告白したいものであります
毎日この血の守り、赦し、安全、贖い、和解、きよめ、勝利、
御前に近づくこと、神の臨在の中へ導かれる、
キリストの中に止まる、等、宣言したい
更にみことばとイエスの血は共に働くとは
なんと力強いことであろう
信仰の告白を守りたい
「子羊の血と証しの言葉のゆえに彼に打ち勝った」黙示録12:11
「だからあなたがたに害を加えるものは何一つありません」るか10:9
「神が私の味方である故に進むことができます」
♪力ある主エスの血、受けよう、今受けよう♪
と賛美しつつ
                  若本多美子



2010年 1月24日

リバイバルジャパン紙に
「暮らしに働かれる神様」と題うって
イトウユキエさんが書いておられる
肩の凝らない素直な信仰告白は面白いし
その体験は共通するところもある
私自信神様の前には素直に出ている方だと思うが
日常生活は多くのものに縛られると思う
そのギャップが問題なのだが
事実、真理はあなたがたに自由を与えるとあるのに
これは「いかん」と思うこの頃
そこで何から自由になりたいか考えてみる
世の労働から解放されたい
夜はゆっくり眠りたい
時間に追いかけられていること
すべて環境に伴う事です
でもこれ、私の率直な告白です
「主の祝福は人をとませ、
主はこれに何の悲しみをも加えられない」
とありあますから。
                 若本多美子



2010年 1月9日

私には年に二度ほどお訪ねしているおばあちゃんがいる
81歳になる方です
私は勝手にその方を「おかあさん」と呼んでいます
行くとお台所で話をする
年に二度なのに面白い関係と言えるかもしれない
「あなたがたに反対しない者はわたしに反対しない者である」
この御言葉に応答しかつてお世話になった。
その行為に私は大いに感謝し忘れない証しを立てている
行けば必ず私たちにして下さったことに対し
この家を祝福して下さいと祈っている
そして共に心をゆるし雑談し、しばしの時を過ごす
この私の姿勢(行為)をおかあさんは恐縮しつつも喜んでくださる
なんの利害関係もない
さてこの私の一面にこんなところがあるとは不思議です
今日も私は「おかあさん」をお訪ねしました
こんな形で世の人に仕えている「わたし」があるのは
キリストにして下さったお方を思っているからなのです
                 若本多美子



2010年 1月2日

新年を迎えました
主がこの年私を通して働かれるために差し出し続けるものでありたく思います
「肉のいのちは血の中にあるからである」 ピリピ17:11
私の身体の中の血が流れなくなる(心臓から血が送られなくなる)と
死の宣告をされます
御言葉が示すとおりです
しかしキリストの汚れなき尊い血潮が流れると
肉のいのちになるとはなんと希望に満ちた指針でしょうか
いやしを受け取る意味を知らされます
「証しするものが3つある。
聖霊と水と血である
そしてこの3つのものは一致する」 Tヨハネ5:7〜8
一致する意味を悟ることのできることに感謝します
今年私の信じる主イエスキリストの御名(権威)と
みことばと、みことばの保障である御血をたたえ
信じる者の証しを立てるものでありたい!と思い告白します
なぜなら「主は私のいのちの力です」詩27:1
                 若本多美子






2009年 12月26日
「野の花を、空の鳥を見なさい」と
とにかく忙しい私に自然を通し心の穏やかさにもを転ずべく示されます
確かに主婦としても外には仕事を持つ身
何より大切な牧師夫人としての務めは多忙を極め
主の守りと皆さまの寛容がなければ
とっくにつぶされていたでありましょう
ですから主とのお交わりの時が唯一の休息の時であり
慰めの時であることは言うまでもありません
皆さまに主のお働きを見ることや
御言葉の戸が開き主の指し示して下さる奥義に触れる時は喜びの時であります
ここへきて雑務の多さに少々たましいが悲鳴を上げておりました
そんな私に神様の愛が主人の心にプレゼント
そしてその愛が私にプレゼントカードと共に
ランの花のプレゼントをいただきました
感動でまた立ち上がることができました
天のお父様ありがとう
夫、邑公さんありがとう
聖徒の皆さまありがとう
栄光在主
                   若本多美子


12月19日

「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」ヨハネ1:4

主の御降誕を共におよろこび申しあげます。

もう41年も前のことになります。
初めて教会へ行ったのはクリスマスの夜のことでした。
それは質素な祝い方でほっとしたことが思い出されます。
しかしメッセージは大胆なものでした。

恵みを 知りつつも放蕩娘をしたり、失敗や罪の生活を通し、
多くゆるされた者は多く愛すると のことば通りで
何度もゆるされ運ばれました。

正に、主と共に歩んだのではなく、主が共に歩んで下さったに尽きます。
顧みて、愛とあわれみに尽きる歩みでございました。

今、無知は最大の損失と思うのです。
愛を受けましたから、愛して下さるお方を更に知りたいと
生きたいと思うように導かれています。

主もまた私たちに仕えるために来て下さったのですから
私も仕える者になりたいのです。

クリスマスは仕える喜びなのかも知れません。

          若本 多美子






12月12日

「イスラエルの神、主は
あなたがたを立てて倒さず、植えて抜かない」


祈っている時のこと、みことばを掲げて嘆願の祈り、
宣言の祈りで折に主に求めておりました。

突然、考えても思ってもいない上記みことばが
私の魂に語られたのです。

「あなたがたを立てて倒さず植えて抜かない」
久しくこのみことばさえ忘れていたので
どこの箇所か正しく覚えもありませんが、語ってくださったのです。

私の魂は主にあって喜びました。

私の祈り(叫び)にみことばを持って語ってくださる恵みは
大きな慰めでありました。

「わたしはあなたたちを離れずまた捨てない」と言われる
主の真実に触れました。

思えば永遠の御腕を持って支えてくださる
大いなるお方で、その名は真実なるお方です。

          若本 多美子



12月5日
「そこで目標のない走り方をせず空を打つ拳闘をしない」
とパウロは断言しておられる。
私にも自らを奮い立たせている目標があります。
パウロのような確固たるものではないからでしょうか。
今週のように職場の新たな変化に少し愚痴も出たり
生活の中の変化に時として弱さも出ます。
がしかし、必ず主のもとに帰る信仰の努力をします。
目標を持って御言葉の中に身を置くとき、
不思議なことに目が開かれ、
啓示的に教えられる体験をします。
今迄に気づかなかった御言葉の奥義を知らされたりします。
しかし今日は私の予期しないことがおこりました。
私の霊が応答しているのです。
それはそれは喜びであります。
そしてまた御言葉に望みを置くのです。
それは真理だからです。
                   若本多美子

11/28
「わたし」は、どういう者であるか、書いてみました。
書いてみるとわたしの立場というより内面的なこと、
情緒的なことの「わたし」が多くなりました。
わたしの向けている目がそこにあることがうなずけます。
キリスト者として当然かも知れません。
そして、キリストに在ってとつけると信仰が見えてきます。
わたしがどうであれ、
キリストがわたしに賜ったものの大きさに望みを抱きます。
実は、年を重ねると「イエス・キリストは、
昨日も今日もとこしえに変わることはない。」
のみことばの本来の意味と共に、
キリストに在って変わることのない生命を内に持っていることに
喜びを見いだします。
変わることがないとはすごいことだと知らされるのです。
外なる人は滅びても、
内なる人は日々新たなスタートをすることは希望です。
「主を待ち望む者は新しい力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。」
(イザヤ40:31)
みことばに励まされます。
                若本多美子



11月21日
「肉のいのちは血の中にあるからである」
「いのちとして贖いをするのは血である」
                 レビ17:11
今週は血潮に焦点を置くことを示されました
イエスの血に今一度光が当てられる経験です
これまでになくカルバリ山のイエス様を仰ぐ事になりました
なぜこれほどの血が流れ、また地を覆ったか
意味はもとより、その潔さ
父なる神の御愛と恵みの時を啓示的に示されたのでした
サタンが震えおののくイエスの血
もっと大胆に用いて行かなければなりません
「子羊の血と証しの言葉とによって彼らに打ち勝った」黙示録12:11
とあるように、血の宣言は重要と再確認です
主は同労者を求めておられます
ここに私がいますと差し出していくものでありたいです
こんな素晴らしい福音の中に入れられたのですから
ハレルヤ!
                若本多美子


11月14日
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ」
創世記1:28
改めて、キリストをとおし与えられた支配権を感謝しているとともに
この福音に生きる者に特権を与えられていることは
驚くべきことである
この地における宣教に於いて
霊的戦いにこのキリストの御名による支配権を持って
どれだけ祈ったことであろう
宣教師のノア夫人にお会いした
母国を離れこの日本のこの地の宣教に愛の犠牲を払って下さっている
尊いなぁが素直な気持ちとなって感謝を申し上げた
先生もまた遅々とした現実に信仰の目を上げつつも
この私に「宝物」とおしゃる
たましいの重みを思っての発言と思われる
この宝物が輝くためにも自分に与えられた御名によって
約束に預かる者となりたい
支配権は愛に基づくものであり
闇の力には屈服しない信仰の剣でもある
真の宝物と呼ばれる方(キリスト)に対する
応答でもある
              若本多美子



11月7日
「私たちは主を知ろう
主を知ることを切に追い求めよう」
                 ホセア6:13
私がこれまでになく
主を求め始めた時のことを良く覚えています
問題をかかえ
このおかたによる勝利を得たく天を仰ぐことになりました
これまでにない主との関係の中で
されに主を知る知識に乾き始めたのです
約束(契約)は大きな希望でした
そこで私のリバイバルは主を知ることにありました
「主は暁の光のように確かに現われ」と確かなものでした
「大雨のように私たちのところに来る」
雨を求める私にされました
サタンは水(御言葉)のないところを好むとみことばにあります
賜った権威あるキリストの御名と共に
暗闇の支配を解いていくものとされています
水が海を覆うように
主を知る知識がこの地に満ちるように祈ります
リバイバルは必ず来ます
聖霊様の助け
油注ぎを求めています
                   若本多美子


10月31日
「おおよそ、御言葉を聞くだけで行わない人は
丁度自分の生まれつきの顔を鏡に映して見る人のようである
彼は自分を映してみてそこから立ち去ると
その途端に自分の姿がどんなであったか忘れてしまう」
                                ヤコブ1:23,24
水曜日霊のうちに上記のみことばが語られました
御言葉に導かれる人こそ
真に霊的な人であることを知り乍ら
そこから立ち去るものであり
自分の姿を忘れるものだなあと
信仰に生きる修正をいただいたのです
その日、詩篇の学びの中
牧師先生の口からこのみ言葉が出ました
ああ、やっぱり主は語っておられると思いました
実はこれまでも多々私日語られている御言葉が
礼拝のメッセージのみことばであったり
紙上説教メッセージにあったりと
たびたびびっくりさせられていました
不思議なお取り扱いです
御言葉に映し出され
しっかり立って歩みなさいよと光を下さる
光はあらゆる善意と正義と真実に実を結ばせてくださる
この鏡はどうしても必要です
私の道となるからです
ですからあなた様の道から離れて
生きることがありませんように
              若本多美子


10月24日
「人はみな自分のことを求めるだけで
キリスト・イエスのことは求めていない」
                  ピリピ2:21
自分の祈りの生活と、主に仕えることに於いて
どうしてもバランスに欠くものであることを認めます
しかし自己中心的であってもr
子どものように主に信頼し訴えていると
不思議に御心を知らせる親ごころなる主にお出会いする
それは感謝でならないことです
私の心の態度を優先してみると
私が生きるために主が必要との傾向が強いですから
ここで主の計画がなるために
自分を差し出す歩みがしたいと思うわけです
上記のみことばには探られました
初めに神がありきはみな知るところなのです
では私は証しもとりなしの祈りも
御心である主の計画がなるためと決断し行いたいと思う
私は愛された者
祝福された者だからです
                    若本多美子


9月5日
娘が結婚しました
主のみての中で最善へと導かれることを切に祈ります
「命と死、および祝福とのろいをあなた方の前に置いた
あなた方は命を選ばなければならない」
自分が選ぶものを人は得ていく
だからみことばなのだが
すべて責任は私にある
自立とはそういうことだ
さて、幸せそうな娘を見て
私たちは幸せ感をどれだけ味わっているか、きたか、考えてみる
いつも何かを求めつづけ
これでいいという事はない
また、追いまくられる生活に
「幸せ」の意識が持てないできたようだ
これは問題
荷を下さなければならない
走らないでいたい
私に足らないのは自分を愛することだ
と気がついた
若本多美子
 
9月19日
いつも名前を挙げて祈っていると
その祈りは発展していきます
取りなしは愛の行為故からでしょうか
今日はその一人
娘についての祈りを変えられた証しです
どこか否定的な思いに支配され
信仰による故に肯定的な祈りではあるのですが
むなしさもありました
そこで私自信を差し出すことにしました
正直になって私をゆるしていただき
また許すことから始めました
やっぱり平安です
神様は必ず責任を取ってくださる
必ず道を開いてくださる希望です
小さな灯りも闇を照らします
その名の通り
光と香りの器であるように
差し出す祈りも確信を持って声となります
「この方にいのちがあった
このいのちは人の光であった
光は闇の中に輝いている
闇はこれに打ち勝たなかった」
ヨハネ 1:4〜5
若本多美子
 
9月26日
「きょうはあっても
明日は炉に投げ込まれる野の草さえ
神はこれほどまでに装ってくださるのだから
ましてあなたがたによくしてくださらないことがありましょうか」
マタイ6:30
次々と戦いが多く
内側を取り扱う事に時間を費やしていました
気がつけば神様の造られた世界を目の前にしながら
美しい星空も
野山の緑も
お花を愛でる心も
少し置き去りにした
バランスにかいだ中にいたことに気づかされました
楽しんだり喜んだりの余裕のないものだったのです
マタイ伝を拝読しながら
慰められ励まされている自分がありました
しばし涙する時となりました
祭壇横に置かれた白い花が美しく迫って
感謝と感動でまた涙
そうでした主よと
主からの愛のメッセージに荷を下ろせました
天にましますわれらの父よ
御名があがめられますように
私は今日も祈る対象である主の前に身をかがめます
私をかえりみてくださるお方よ
感謝します
若本多美子
 
10月3日
「もし喜んで行いまた聞くなら
あなたがたは国の良いものを食べる」
イザヤ1:19
感謝を持って喜んで行うようにと導かれています
知性の賛同をしたり
結果としての喜びの体験はこれまでも多くありました
しかし「喜んで」事をする訓練を自らに課せ
古い性質に「従う」信仰の努力と決断をさせています
御子の偉大なるご支配の中に入れられた恵みと思うからです
また内なる語りかけがあったからです
とはいえ、喜んですることが身に付いていませんから
時折気づかされては悔いあらためつつ
みことばに従っているといってよいでしょう
良いものを選び取る努力です
それは私が「良いものを食べる」とみことばが言う以上
どれだけの実を食べるのかと
楽しみであります
若本多美子
 
10月10日
「主は私のために命を捨てて下さった
それによって愛と言う事を知りました」
救いは主のものであり
またすべてのことも主に知恵をいただきながら
愛を流すものでありたいのですが
無力さに直面です
やはり十字架に戻されました
「私は愛されている」と
子の恵みを土台にすることの素晴らしさに
しばし涙の時となりました
「私は祝福されたものです」
と告白したていました
確かに光の中に招き入れられたものとしてその通りですが
「私は愛されたものです」
は何と慰めであり希望につながることでしょう
ですから救いに始まりこれまでの様々な主のして下さったことに
目をを向けて数えてみましたら
あまりに沢山で途中で
「ああ、そうです主よ!」とバンザイ
聖歌に「数えてみよ主の恵み」という賛美がありますが
案外私のようなものが
キリストの愛を再び思い起こした中での賛美かもしれません
そしてまさしく賛美にも戻されたのです
愛は賛美と一つの者なのでしょう
若本多美子
 
10月17日
「誇る者は主を誇れ」
Tコリント1:31
S55.3.5主にいただいたお言葉と
聖書の表表紙裏に書かれてあります
しかも大きな字でていねいに書かれている所を見ると
その時探られた御言葉に相違ありません
30年の年月がたって再びこの御言葉がわたしに語っておられます
少なくともあの時より多くのお取り扱いの中で謙遜にこれ
御心を知る知識も増しているように思います
しかし奥義であるキリストを知れば知るほど
更にこの光に入れられた大きな恵みに預かるからこそ
自分には(再び)誇るものは何もないことを知らされるばかり
さて裏表紙にもまたかつてのみことばが記されている
今なお変わらず私に語られている同様のみことばに驚き
真実な導きにさらに感謝に耐えません
「わたしから離れてはあなたがたはなにもできない」ヨハネ15:5
「わたしが思ったように必ずなり私が定めたように必ず立つ」イザヤ14:24
若本を伝道生涯に入る2年くらい前の記録のようです
みことばの真実に触れ
主を誇りとする幸がここにもありました
若本多美子


8月29日
「食い荒らすいなごの食い荒らした幾年もの損害を私は償う」
ヨエル2:25
日めくりカレンダーの今日のみことばです
思わず魂に感動がはしりました
しばし絶句です
キリストに在って勝利者にされたといいつつも
どれだけの敗北を味わい
十字架を虚しいものにしてきた事か
その心の叫びがあるからこそ
尚損害を償うといわれるとその愛に涙する
ピレモンの手紙には
パウロが獄中に生んだオネシモについてお願いしている
「彼がしばらくの間あなたから離されたのは
たぶんあなたが彼を永久に取り戻す為であったのでしょう」
と手紙を送っている
パウロの愛とその姿勢は
神の御摂理に向けられている
これにも私は勇気付けられた
みことばに感謝する
この地上生涯に於いて私を真に生かすため
祝福のオンパレードでもある
そして私たちの愛をもって
道、真理、いのちとなる
      若本多美子


8月22日
「はい、私は牧師夫人」と興味深い本を読み始めたところです
このような本が出るということは
いかに世の牧師夫人がその立場、姿勢、考えなどに
葛藤しているかにあるように思います
御多分にもれずこの私も
いささか強迫観念に陥る事のある一人です
念を押させていただきますと
皆様方の思いの押されてというよりも
一方的に私自らが重圧を感じていると
いってもよいかもしれません
しかし皆様方にとって理想を描いておられる事もあるでしょう
確かに牧師夫人像で言えば難しいといえるでしょう
この本の中に
「神様お一人が聴衆者」であるは
クリスチャン全体にもいえますが
牧師夫人にとっては
その意味が特別なものとなります
又慰めです
これまでの魂の訓練を通し
信仰はシンプルと少しその領域に移されました
だからアーメンであり
礼拝者そのものだと思います
誰も自由(真理)の中に置かされたからです
      若本多美子


8月16日
イエス様は私に
ご自身を啓示してくださる
そして私は自分を開示する
愛に応答して
お交わりという関係が生まれる
この正しい関係の中に自分はいるか
立場をどこにおいているか考えている
苦難については私にその立場を教えてくださり
謙遜と従順という愛に基づいて
最も身を低くされている時であると思う
恵みの時だ
「大切なものは愛によって働く信仰だけです」
というみことばを思いだし
思いめぐらしてみた
愛もまた働かせるものである以上
主であり祭司として選ばれている私(達)は
ひざまずいてとりなす
第一歩を真に捧げるものでありたい
もう一つのこの体を通し父なる神に栄光をお返ししたい
いやし主なるお方に賛美という信仰をお捧げしています
            若本多美子


8月8日
聖日聖餐の恵みは
私にとって特別な時でありますが
今回は特に信仰に立ちました
病気は神のものでない以上
なんとしてもこの私
御名とみことばで解放されたい!
栄光を主にお返ししたい思いで
聖餐を頂きました
その日下痢は止まりましたが
完治ではなく
尚信頼する祈りは
癒しのみことばの賛美に変わりました
何度も賛美を持って宣言したのです
詩149編には
「そののどには神を崇める歌があり
その手には両刃の剣がある」
とありますように
苦難の時こそ
又手をおけばイエスの御名がいやすことの意味を
悟らされたのです
いまみことばの完全さに
身をゆだねているところです
         若本多美子


8月1日
場がびく胃腸の不調
聖霊の宮であるこの身体を
病が主の祝福を奪っている事が残念でならない
当然みことば通りに信仰の宣言に立つも
長引く症状に恐れ
その告白も守り通せずもとのもくあみ・・・にしてしまったり
牧師先生の戦いも合わせ
とうとう「おとうさ〜ん」と泣いてしまいました
大きな祝福を目の前にしているからこそ
立ちふさがるこの敵に
なんとしても勝利の主であるイエス様によって
父なる神に栄光を帰さねばなりません
問題(痛い)は事実であるかもしれないが真理ではない
真理はみことばのみ
もう一度立ち上がります
私は自分が手を伸ばす事ばかり考えていましたら
主様のほうがはるかに私に手を差し伸べてくださっている事を知らされました
(つらいときは特に私が先立ちます)
もう一つのわたしの問題は賛美なのだと
霊の悟りを与えられた事は恵みでした
      若本多美子


7月25日
「私はこの地上に火を戸投じるために来た」
最初このみことばに触れたとき
正直主の愛を真に気付きませんでした
又、理解もしたくありませんでした
けれども問題であったり
自分自身の中に火を体験し
少しづつ精錬されて
本当のものが残る経験をしました
神が愛であるゆえの訓練は痛いものであり
苦しいものだったが
謙遜を学び主への信頼につながった
進級試験は思いがけない事に及んだ時は
上記のみことばの意味を真に悟らされることになりました
私達家族が本当のものを見出し一つとなって生きるために
マイナスは痛かったしこの火は熱く避けたいものでありましたが
この土くれの中に宝を見出す経験は
神の御手の中で知る事につきます
少し時間もかかるが
必ずマイナスをプラスに
つまり最善を備えてくださるお方が共にいることに
大きな希望を見ている
更に愛する事とは意味か少し見えてきました
感謝します、主よ
     若本多美子

7月18日
イスラエルのおとめよ
再び私はあなたを建てる
あなたは建てられる
エレミヤ31:4
体調を崩した後だけに
みことばは私を励ます
どこまでも「神は愛」なのだ
優等生にはなれないことを承知しつつも
いつもどこかで
出来なかった自分、出来ない自分に対し
罪責間に襲われる(自分があるが)
『神の義』をいただいているからこそ
再び建てられる喜びとなる
権威者である主
愛そのものであられる主
そのお方の語られるおことばに従う姿勢
これこそ世(わたし)に勝つ力なのだから
今日は
「あなたは再び鼓をもって身を飾り
出て行って喜び楽しむものと共に踊る」
続くみことばに慰められ
主に答えていただきたい私がある
          若本多美子



7月11日
自分の中ではいつも頑張ってしまう私を
いろいろな出来事を通し
委ねる事を教えられてきた事は恵みです
しかし、このたびの高熱は
せめて「証し」をかく事で主に栄光をお返ししたいと
頑張ってきた私が
留まらねばならない出来事でありました
今までもいろんな状況があり
それを超えてえ証しに続ける意味と
祝福をいただいてまいりましたが
今回は違いました
「そこでわたしの子よ
恵みによって強くなりなさい」
弱さの中で知る恵み
哀れみは慰めです
そしてへりくだりを学びました
委ねる事を教えられ生かされていることの感謝です
出来なかった(描けなかった自分をみずから裁くことはしません
今このように書いている自分を捧げる事に感謝を覚えます
又へりくだりはとりなすものへの道であることも教えられ
最善を備えられる主を讃えます
                若本多美子


6月27日
少しデリケートな事をお話します
今週は自分に問われる事がありました
自分を知るこの材料は痛いものでした
私が知的障害者にかかわる仕事の中で
数々の試練をいただいてまいりました
そんな経験を多く持つのですが
今回は全員集まっている中で
その一人に呼び捨てにされたのです
プライドガタガタです
しかし自分に問うてみました
彼が障害者であるからか
健常者からならどうなのか、と
やっぱり私は両者から正しい扱いを受けたい
受けられなかった事に傷ついたようです
私の義が勝ちました
イエス様も大きなはずかしめを受けました
しかし十字架という目標は
父なる神にしたがうことによって勝利となりました
私もまた仕える者なのです
「誰でも立派でもない自分を
何か立派でもあるかのように思うなら
自分を欺いているのです」 ガラテヤ6:3
誇れると思った事も自分だけのほ頃で
他の人に対して誇れる事はないでしょう
とみことばは続きます
アーメン、主よ
          若本多美子

6月20日
気がついてみると自分の思いが先行している
確かに一日の始め私は信仰の告白をもって
主にお従いすべく決断の祈りをしている
多くの恵みを頂き
又、そのあわれみを知らされた感謝に思うが
何か事が多くあると自分が先んじているということだ
サタンは思いをくらます(みことばを盗む)
そして私を裁いてくる
しかし感謝なことにみことばは
「そして私のうちにおられる方は
世にいるあのものよりも力あるお方なのだ
しかも聖霊様はわたしの祈りを
完璧なものにすべくとりなしてくださっている

私がしなくてはならない事の一つに
私達の戦いは血肉に対するものでなく
もろもろの支配と闇の夜の主権者
天上にいる悪の霊に対する戦いであると言われる以上
彼らの働きを縛る祈り(宣言)を
忘れてはならないと教えられている
         若本多美子

6月14日
今、主のみ前に進み 賛美の声あげる
今、主のみ前に進み 感謝の手あげる

いく度もゆるされ あわれみ豊かに注がれた
いく度も慰め 涙を笑いに変えられた
いく度も背負われ 御手に守られていかされた

こんな大きな愛にささえられた
こんなな深いゆるしを知ったから

愛します主よ 仕えます主よ 私は帰ります
愛します主よ 祈ります主よ 私は歌います

こんな大きな愛に支えられた
こんな深いゆるしを知ったから

ハレルヤ アーメン

今週主が私にくださいました賛美です
音楽のわからない私にです
全ての栄光を主にお返しします
        若本多美子



6月6日
後の雨のときに主に雨を求めよ
そうです
私はこのみことばの通りに雨を求めています
過日のペンテコステ日
みなさんと祈っている時の事です
どうしてもこの祈りの群れに聖霊の日を投じられ
リバイバルの火種が注がれる事を願いました
この私がいつもこの祈りをする度に魂が熱くされます
みこころだと確信されられる時でもあります
それは神に求めるそれから
神を求める祈りにほかなりません
自己中心的祈りから
神中心的祈りの移行を知らされます
ですから私は益々
御子の御支配に移される人たちが起こされる事を求めます
共に御国をつくものとなり
共に一つからだとなり
共に約束に預かる魂が起こされるよう
御名を呼ぶのです
この祈りは
この教会に恵みの雨となって注がれる事を信じます
               若本多美子

5月30日
霊的により高い場所を求めたい!と思いました
私が信じる神様は
この程度の現れのお方ではないことを知るからです
「ですから神にしたがいなさい
 そして悪魔に立ち向かいなさい
 そうすれば悪魔はあなたがたから逃げ去ります」
                           ヤコブ4:7
ところがどうでしょう
わたしの決断をすると戦いが起きました
霊的圧迫です
そして私からみことばを盗もうとしている事がわかりました
ですから私は主の血潮を投げかけ
おことばに基づいて敵に打ち勝つ必要がありました(黙示12:11)
神様の義はわたしを攻め立てることは出来ないことに感謝!
主がわたしのために代価を払ってくださいましたから
私も払うべき代価があると思います
そして霊の祈りを持って
私の祈りを完全なものにしていただくべく
主を見上げて
手も口も差し出すのです
イエスさまの御名を讃えます
               若美多美子


5月23日
ここ3年余りでしょうか
デボーションの中で示されたみことばや
思いの中に語られたことなど
出来る限り書き留めるようにしてきました
聖霊様にうながされた事も敏感な時をすぎると
その多くは忘れる傾向にあったからです
小さなかぼそき声に応答は重要と思ったのも真実です
今祖えっらに再び目を向けると恵みとなり
その導きに感謝をいたします
みことばに従って私を差し出した分
私の魂の領域を取り扱ってくださいました
この決断こそ
命を選ぶものの祝福のみである事が
今はよくわかります
そして今週は
新しい歌をもって命に生きる賛美に導かれました
これもまた書き留めて
デボーションの中で主に捧げています
もっと主のみこころを知りたいと思っています
なぜならば
私を愛してくださった主を
私も愛するからです
ああ、みことばが慕わしい
        若本多美子


5月16日
牧師先生の聖書愛読箇所はヨハネ8章です
そこに姦淫の場で捕らえられた女の記事をみます
裁かれようとする女にイエス様の愛が注がれます
又裁くものへの配慮に満ちた
「あなたがたのうちで罪のないものが最初に彼女に石を投げなさい」
という言葉の中に内なる本質に迫り指し示しています
私も同じ罪びととして言葉がありません
そして近頃
「それを聞くと年長者から初めて一人一人出て行き・・・」
といわれることばに心が止まるのです
私も年を重ねた分
それだけ罪を重ねた自分を見ます
キリストに赦しがなかったなら今の私はないことを
年長者である私はより「赦し」を頂いたものです
ですから感謝にもそこから立ち去らず
イエスの前に女と膝をかがめるのです
「私もあなたを罪に定めない」         
この大きな恵みに感謝します神の義を頂きました
私は赦された女であり年長者である故に
赦されたものだからこそ
赦すものになれるのです
ハレルヤ
            若本多美子


5月9日
みことばに触れればふれるほど
イエス様の愛と哀れみの深さ
十字架を通してわたしにしてくださった事の
大きさを知らされています
ジョエルのデボーションの中にも
豊かな食卓が用意されているにもかかわらず
チーズとクラッカーだけを食べているような私が
示されてありました
みことばの約束と現実に手にしているものとのギャップに
この福音をわずかしか受け取れていない自分を知らされます
この恵みの大きさに
自分は何をもって(何から)護衛工をあらわしたらいいと思いました
与えられている選択の自由があるからです
「私は今日、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする
あなたの前にいのちと死、祝福と呪いをおいた
あなたは命を選ばなければならない」
わたしは「健康」を選ぶべく
癒しを受け取ります
信仰の決断です
征服する為に御名とみことばを揚げます
確信を持って進む為に
聖霊様、助けてください
   若本多美子



5月2日
残念な事に今週も身体の不調に苦しみました
みことばに信頼して告白するも
サタンの攻撃に対し宣言するも
右から左にという結果を直ぐに受け取れずにいる自分
問題は私にあることを承知しながらも
私は弱さの悲鳴をあげていたのです
牧師先生の身体の不調にも
同様に痛んでしまいました
とうとう祭壇に寄り添い
それは子供のように
迷子の子供が母親を求めて泣き叫ぶように
しばらく甘えて泣きました
私はこのような天の父を持っていることは
大きな慰めです
いいとか悪いとかではなく
唯甘えました
突然教会の皆様一人一人の弱さ
足らなさ癒し、解放の事を思い巡らされました
そして
「十字架を無力なものにしてはならない」
という思いととりなしに導かれました
希望が与えられたのです
弱さに働く神の力もまた
確かなものです
私が弱い時こそ
主は強い
主よ来てください
マラナタ
戦いの勝利は今そこに
      若美多美子

4月24日
相変わらず身体の不調に苦しみ
失望が私を囲みました
「御言葉の通りにこの身になりますように」
とはいかず
その現状とのギャップが悔しく
そして自らの弱さを知るのみの毎日でした
しかし私にはなんとしても果たさなければならない事があります
そのみこころ(与えられたビジョン)を成し遂げる為
健康の祝福を要します
何より病は主からのものでないからです
この戦いに必ず勝利しなくてはなりません
権威ある御名と保障の御言葉によって
失望も恐れもさようならです
サタンは私の足の下に踏みつけられている以上
すでにわたしは勝利者なのです
御言葉の告白は霊のものであり
肉が何も感じなくとも
それは命の力なのです
      若本多美子


4月18日
「死は勝利に飲まれてしまった
死よおまえの勝利はどこにあるのか
死よおまえのとげはどこにあるのか」
             Tコリント15:55
疲れからか
あるいはサタンの攻撃なのか
かつてない身体の症状に慌てました
恐れが私を取り囲み
魂の底辺から
「わたしを攻め立てる武器はどれも役に立たない
なぜなら私は神の儀を持っている」
と告白しいやしを宣言し続けました
牧師先生も身体の戦いの中にあり
祈りを必要としていますから
信仰のことばに立つ決心と
血潮の賛美によって主に覆っていただくことにしました
主イエス・キリストに買い取られた者ですから
この体をして病んでいるのはおかしいです
しるしと不思議がついてくるはず
自ら奮立たせて雄叫びです
今日の始まりもつらかったのですが
今私はこの証しを書いています
魂も肉体も
イエス様の勝利によって死から守られており
前記の御言葉によって進んでいます
この宣言は続きます
          若本多美子



4月11日
「イースターエッグの朝に白百合をいけましょう」
イースターエッグと共に象徴的なことですが
今年は一輪でも会堂にいけたいなあと思っておりました
いつものお店で1本のカサブランカをレジに持っていきますと
これだけでは少し寂しいわねぇと
少し痛んだ花を取って
4本のつぼみのカサブランカを添えてくださいました
ただは嫌でしょうから100円たしてくださいと
気遣っておっしゃってくださいました
会堂と玄関から香が漂います
香油注ぎをしたマリアを思い出しました
愛は本質を見極めます
マリアのしたことは犠牲を伴いましたが
周りの人たちにも愛の香りを放ちました
イエス様の十字架の道は
苦難の中にもかおりに預かった人たちがいたはずです
小さな添え物の花の中にも
大きなかおりがありました
そしてわたしは十分幸せでした
       若本多美子


4月4日
直ぐにリップサービスをしてしまうのが私です
「わたし」出ることに違いないのですが
私なりの気遣いの面が多分です
とは言いながら長い間欠点と自分を責めておりました
最近では表裏一体で悪いばかりではないとも思いながら
愛と知恵のいるところと思っています
しかし驚かないでください
この私、それ以上に
人の言葉を聞いている(受け止めている)ところがあるのです
聞き流すことなく受け止めているのです
自分の枠組みの中で考え
吟味し、取り扱う事が多くあるのであります
時には本当に悩んだりします
そうなるともうサタンの策略に陥りますので
心と思いの一新を計り
信仰の領域においてみこころに添う歩みへと変えています
これでおわかりのように
私が主のみことばを聞く努力が無ければ
人の言葉につぶれそうになるほど
私は強くないということです
しかし感謝すべきかな
ことばはわたしの近くにあり
私のうちにあり
わたしの心にあるのです
ことばとは
キリスト・イエスにあることばによって
私は生きるものなのです
     若本多美子



3月28日
今週主様が私にしてくださった事
・頭痛の伴う肩こりをいやしてくださいました
・疲れて力が湧いてこない中にも
 御前で聖書を読み祈り、寝ました。
 優等生でなかったのに希望の霊が注がれました
・みことば「とげのあるむちをければ傷を負うだけである」
 と思い巡らしていたら、主への従順を示されました
・新しい学びの道が開かれました
 それにともない明確なみことばを持って
 目標を定めてくださいました
 これは一方的な不意の出来事です
・婦人の集い(バイブルシャワー)の賛美の時
 啓示が与えられました
 これは奥義です。ハレルヤ!
全ての栄光を主にお返しします
      若本多美子




3月21日
それぞれが「仕える」とか「従う」という信仰の行動を
少なからずお持ちの事と思います
魅力的な言葉ですが
実は忠実さを問われ困難を覚えます
そこに生きた者のみ知ることでしょう
仕える対象がどんなことか
あるいはどんなお方であり私に何をしてくださったか
焦点がずれると「わたし」が出てしまい
決して実に至る事が無い事を知らされます
自分を教えられる恵みに至る事もありますが
仕え続ける、従い続ける事の中に
恵みの大きさを体験したいものです
そして栄光と誉れを主にお返ししたいと思っています
その一つこのようにかき続ける「あかし」も
今では忠実に使えるという訓練を私自身の為にしています
多くの思いがきよめられました
ハレルヤ!
そしてこのわたしの証しを
忠実にアッパールームに入れてくださる
「仕える」器がいる事を誇りに思い
感謝します



   若本多美子


3月14日
最近自分の見た夢すら記憶に無い事がほとんどで
年のせいかなあと思う程でした
夢にのみ信仰を置いているわけではないのですが
ヨセフのように夢や幻を信仰によって実現する人もいます
そこに至る為にヨセフがそうであったように
多くの苦難の中を通り
整えられる必要があるようです
「主に栄光をお返しする」といえるには
自己中心的であったり
間違った考えや自己満足から
自由にされていく事にあると思います
そこで私の見た夢は私の信仰にかかわるものであります
少なくとも鮮明に私の記憶にとどまり
私自身を励ますものでした
しかも「励まされました」と
その方は言いました
    若本多美子


3月7日
神様に信頼しいつも御名とみことばを慕う為に
私に荒野が必要でした
これは神様の大きな愛のご計画です
立ち止まり悩み差し出すことから
委ねる事を学ぶ事は今でも同じですが
このことは主とのお交わりのうれしさの中に
入れられる経験でもありました
そしてみことばは「私自身」を知らせてくださり
「神ご自身」をさし示して下さっています
ですから礼拝も賛美もかつて私が
それと思った領域を越えるものであり
尚深いものであるはずです
このお方から聞き従う事が
どんなに栄光に富んだ道であるか
教えられている所です
不従順という罪あるものが
「決断」とい信仰によって
約束の地に見させていただくのです
ありのままを受け入れてくださった方は
「赦し」であり
もっとも私が私であることをも受けてもてくださいましたからこそ
今があります
ハレルヤ!
若本多美子



2月28日
ある意味霊的な貧困に陥っていたと気付く
なぜなら結ぶ実の少ない事により
それは事実だということだ
「生徒視とは舌に支配される
どちらかを愛して人はその実を食べる」 箴言18:21
わたしの動機が自己中心であるならば
当然その告白になり
神の御支配の中にいない事になる
信仰ではない
命の御支配の中に生きるには
主がそうであった様に「赦し」に尽きる
また「裁かない」
真の悔い改めに至れば可能な道
その実を食べる事を
霊的貧困からの解放と信じる
私に与えられた自由は
御子の御支配を受ける事にあり
光を愛する事だ
御言葉には力があるけれども
愛から離れた告白は
真の勝利にいたる道をさまたげる
主か苦難を賜って
自分がどこにいたかを教えてくださった
私が富むものとなる為に
             若本多美子


2月21日
アブラハムさん
モリヤの山で愛する一人息子を
犠牲として捧げたあなたの信仰は驚きです
行いの信仰を教えてくださいます

イエクさん
あなたのような従順と栄光を
主にお返しする歩みを私もしたいです

ヤコブさん
故郷を失ったあなたの寂しさがわかります
ラケルはあなたの慰めでしたね

ダビデさん
あなたの叫びがわかります
最もたくさんの苦しみに合われたからこそ
もっとも美しく歌う人になったのですね

マリアさん
選びに従順であったからこそ
主にご計画が成就しました
ありがとう!
御子をその身に宿す事も
イエスの十字架の死を見なければならなかった
大きな大きな痛み
母として同様の死の体験でしたね
差し出すものがこれほど大きかったあなたの生涯に
私もまた慰めを受けています
今日あなたを通し再び献身の意味を主から示してくださいました
ハレルヤ!
深く深くわたしの内側に語られたこと
わたしは生涯忘れられない事でしょう
        若本多美子

2月14日
娘を出産した後
10人のらい病人の一人がいやされて
イエス様のもとへ感謝しに戻った記事を
強烈に示された事を想いだしました
私にとって娘を与えられた事は
それは大きな感謝でありました
娘の顔を見ては
「主よありがとうございました」と
どれほど告白した事か
24年近く経った今日再びこの記事を前に
感謝の雄叫び挙げる私が居ます
今度は迎える主の喜びがどんなものか
わからされています
確かにわたしは小さなものですけど
キリストの福音の中に確実に養われています
差し出すものがたくさんあったからです
               若本多美子



2月7日
オバマ米大統領の就任式で祈りを捧げたのは
リック・ウォーレン牧師であった事を
リバイバルジャパン誌で知りました
従来のビリー・グラハム氏に代わってのことのようですが
国家九首の為のとりなしと祝福の祈りを捧げられる国であることに
敬意を表します
その内容に触れて感動いたしました
そのとりなしの中に
謙遜に私たちを導く知恵と
聖日に私達を導く勇気と
寛容に私達を導くあわれみを与えてくださいと
祈っておられる
指導者のためにこのようなとりなしは
主もまた喜びであるに違いない
そして私達のせいについても
お互いの違いについて
明確な目標
責任ある行動
謙遜に取り組む事
丁寧な態度を新たに生み出していけますようにと
信仰の行動についても祈っておられる
愛の祈り手がある以上天は動くと思った
わたしのとりなしの祈りにメスを入れられた
まさしく神の愛のかごを求めるものでありたい
愛はいろんなものを生み出していくと信じる
           若本多美子


1月31日
今日はいつもと違う姿勢をとってみました
神様と向き合う前に目をとじて
1分間どんな音が聞こえるだろうかと耳を傾けてみました
わたしの苦難の始まりの頃自分にかけたものの一つに
この傾聴にあるなと教えられたこをを思い出しました
自分の経験に基づいたり
いろんな傷や傷害を理解する知識にも乏しいにもかかわらず
こういうものと決め付けたり
お粗末な自分を見出した事は確かな事でした
しかし身に付いたものを変えるには大きな努力のいることです
キリストに焦点を置き
霊的知恵と理解力を求める必要は今も同じです
さて、聞こえてきたものは自動車の音、時計のときを刻む音
主人の足音、ストーブの音など
集中して聞こうとすると聞こえる音の世界です
その姿勢で主の十字架を仰ぎ
御声を求めていましたら
天より流れてくる恵みに預かりました
傾聴は私の心の態度
根源なるキリストの言葉に根をおろし
従順なる姿勢を問われました
   若本多美子


1月24日
週の初め神様はあることを通し
予言的にご計画の一部を語ってくださいました
わたしを最もよく知っておられるお方は
すでにみことばを通し語っておられたことは驚きです
時がくるまで詳細は伏せますが
油注ぎを求め更に「仕える」者でありとうございます
さて、この「仕える」とか「従順」はわたしの試練を通しての導きで
今はまだ小さな身ではありますが
結ばせてくださったものです
希望はイエス様であり御言葉でしたから
日毎に膝をかがめ道を求め命を求めるものでした
まさしく闇の中に光を見ていくとき
痛みから気がつけば礼拝者に
神の賛美に導かれていました
加えてリバイバルを求める器へと
祈りが変えられた事は感謝であります
最も祈られされた娘から
「お母さん体に気をつけてよ」とメールが来ました
嬉しいです主よ
戦いの中から多くを教えていただきました
若本多美子


1月17日 
昔から朝起きが苦手な私です
その私が宿直の多い仕事についているのですから
面白さがあります
当然弱さとの葛藤をしながら頑張っている
また頑張れている自分に
自責の念は当然なところです
早天の祈りは本当に出来ないのだろうかと
自らに問うてみました
理想的な祈りの姿勢にとらわれて
出来ないと諦めの境地で
的の思うつぼです
信仰の行動であれば主は喜んでくださるはずと
小さな一歩を踏み出そうと思うのです
いえ実は目覚の第一歩は主を誉め讃え
信仰の告白の祈りをしていますが
仕事の朝は一人体制の私の心の姿勢の問題です
この祝福の時を用いないのはもったいない事です
信仰の決断をして事の当たる事は
内なる喜びにつながります
「主は朝早くこれを助けられる」
励まされています
    若本多美子


1月10日
突然の体調不良に悩まされました
牧師先生は断食をして主のみ前にあるとき
わたしは病の為食べられず
皮肉な現実に閉口しつつも
その原因をいくばくか理解している
特に今週
霊的な戦いについて多くの時間を費やし
御言葉の奥義に触れた
そしてある姉妹に熱く語りもした
戦いの領域を明らかにするときがきたのだ
それを弱さの中にも実感した
この戦いは主の戦いであると
必ず勝利だと
おそらく今日
この証しは書けないと思った
これまでも様々な困難に直面したが
尚あかし続けてくる結果があった
しかし今日ほど書けないと思った事はない
諦めていたが弱くなっていたが
しかしやっぱり力は上からきた
ハレルヤ!
     若本多美子


1月3日
主に在って新しい年を迎えました
霊的にも神は私達を暗闇の圧制から救い出して
愛する御子の支配の中
光の中に映されているものとしての歩みを
明確に証しするものでありたいと思います
つまり二つのものの間にあって迷うものではなく
立場をはっきりさせる生き方です
それもみことばという知識に基づく決断です
ですからあらゆる物事の中に霊的な知恵と理解力を頂き
神の御心に関する真の知識に満たされなければ
的を得た歩みも
主をお喜ばせする事も出来ません
喜ばれる生き方を求めたい
と魂の叫びがあります
今年も主を知ることを求めます
与えられた御名を行使します
聖霊様の導きに従い仕えるものとなります
     若本多美子

12月27日
大いなるお方に賛美と感謝をおささげします
今年もあとわずかとなりました
主のあわれみと愛の中で導かれ
御言葉の真実を知りました
又私のものは何もなく
全て主からの借り物で生かされていることを
改めて思う事でした
しかしながら母として
最も求めてきた娘との再会はなりませんでしたが
全てが主の御手の中にあることを確信しております
そして多くの戦いは
相手ではなく自分の中にあることを見出し
愛する者ゆえに
その感情の整理に少し時間はかかりましたけれども
多くの主のみ教えをいただいたことは確かであり
感謝いたします
主と向き合い「謙遜」という魂の領域を探られ
続いて「愛とあわれみ」について問われています
出来る事はわずかですが
一つ一つ忠実に答えていくものでありたいとも思います
なぜならば
「わたしとわたしの家とは共に主に仕えます」
この年の告白であり
これからもです
栄光在主
   若本多美子