2018.1.14
『 神の主権によって 』
(旧約聖書)創世記 13章1〜18節

 私たちは人生という旅の節目節目において様々な岐路に立たされ、何らかの選択をして歩まなければなりません。その選択が正しかったのかどうかでも悩みます。そこで問題となるのは“何を基準に選択をするか”です。私たちに未来のことはわかりません。そのためにある人は聖書のことばを引用したり、自分の思いを権威づけたり、それを選んだ時のメリットや条件を基準にします。しかし、“どうあるべきか”のヒントは、これまで教えられてきた真理や様々な経験の中にあるとも言えます。普段“聞く耳”を持たずに、いざという時だけ答えを求める愚かなことをしやすいものです。神はこの瞬間にも、将来のための備えを与えようとしておられるかもしれません。

 アブラム(後にアブラハム)は、「国を出て、親族と別れ、父の家を離れて」神の約束の地へ行けと召されました(12章)。聖書は、アブラムは“行き先を知らずに出て行った”と言います([新]ヘブル人への手紙11:8)。ここから、やがて“信仰の父”となるアブラムの、神による神への信頼(信仰)の訓練が始まったと言えます。
 アブラムの最初の失敗は、カナンの地が飢饉に見舞われた時に、約束の地を去ってエジプトに下ってしまったことでした(12:10〜)。さらに、妻サライは美しかったため、荒くれ者たちから保身するために妹だと言ってしまいます。その結果、エジプト王ファラオはサライを自分の妻にしようとし、はっきりと言わないアブラムこそ問題だったのですが、神はファラオの家に疫病をもたらし、愚行になるのを防いでくださいました。そればかりではなく、たくさんのお土産を持たされて、カナンの地に帰ることになります。
 アブラムは改めて、神がすべてをご支配されている主権者なるお方であることを思い知ったでしょう。早速の失敗は大切なレッスンでした。たくさんのお土産を見て、アブラムはどう思ったでしょうか。ここに興味深いことばが使われています。「豊かに持っていた」(2節)と、前章の(飢饉が)「激しかった」(12:10)は、同じヘブル語の〔カーベード〕です。そして、この〔カーベード〕は〔栄光〕とも訳されます。ヘブル人にとって〔栄光〕とは、輝くものというよりも〔内実のあるもの/重いもの〕を意味します。聖書は、この〔カーベード〕を共通させることで、「飢饉」も「お土産」も、神の〔栄光〕が現されていることを暗示していると言えます。・・・だからなのでしょうか。アブラムはカナンの地に戻ると、最初に祭壇を築いたところまで来て礼拝をささげました。この場所で礼拝をささげるのは、初心に返る意味でもあり、改めて、“ここが神の約束の地”であることを自覚するためでしょう。・・・カナンの地はアブラムに約束された地でしたが、“所有権を持っていることと、所有すること”は異なります。私たちもまた、神に与えられたものを、自分のものにしていかなければ、真の意味で“与えられた”とは言えないのです。
 しかしここで、多くの財産ゆえに土地問題が起きました。その解決として、アブラムは選択権を甥のロトにゆずります。この選択と判断には、これまでの経験が裏打ちされています。アブラムは“神の主権”を学んできました。神以外のものを失うことは何も恐れなくなっていました(22章)。・・・しかし、彼には約束の地を繁栄させる使命があるのではないでしょうか。ただしそれは、生産性や効率性によってではなく、“御国にふさわしい信仰者としての品性を訓練する地”であることに目的があるのです。同じことが、個人の信仰生活や教会にも言えるでしょう。
 世間的に言えば、ロトの方が成功者で、アブラムはハズレくじを引いた人です。しかし、目に映るものを基準としたロトが後にすべてを失い、利益を手放したかに見えたアブラムに神の祝福がありました(14−17節)。具体的な繁栄は、アブラムが真の意味で“神の与えようとしておられるものを所有し始めた”ことのしるしと言えます。真に“神を所有”していれば地上のものは手放すことができますが、そうでなければ、小手先の安易な安心を手放せないでしょう([新]コリント人への手紙第二6:10)。

 この一年を歩む中で、様々な選択が道の前にやって来た時、その大切なヒントは、あなたがこれまで神から受けてきた訓練や歩みの中にあるのかもしれません。  



凡例

(xx:yy)は、別の章からの引用を表します。xxは章、yyは節を表します。
(例) (24:1) は24章1節を表します。

[新]・[旧]はそれぞれ『新約聖書』・『旧約聖書』に所収であることを表します。
(例) ([旧]ヨブ記) とあれば、「ヨブ記」は『旧約聖書』にあることを表します。