2018.6.10
『 あなたにあるいのちを 』
(新約聖書)マルコの福音書 6章30〜44節


 主イエスは、「永遠のいのちを得るために何をしたら良いか」と問う人々に、「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです」と答えられました([新]ヨハネの福音書6:22−29)。結果は自分の努力によって得ると考える人たちにとっては理解ができないことばですが、信仰の訓練を受けた人には、「これこそが人間のできる最高のわざであり、神の恩寵なのだ」ということが手に取るようにわかる真理だと言えます。

 有名な「五千人の給食」ですが前後のエピソードも大切です。使徒たちが宣教活動から帰ってきたところから始まります(6:7−13)。途中にバプテスマのヨハネの死が記されていますが、マルコは「神の国」の前進とそれに対抗するものとの「光と闇のコントラスト」を表現しているようにも感じます。・・・その十二使徒たちが「残らず」報告したという表現に(30節)、悔い改めの実、病の癒し、悪霊の追放など、これまでにない経験をしたことの高揚感が滲み出ているかのようです。
 宣教活動から帰って来た彼らに食事や休息を与えるため、イエス様は「寂しいところ」へ向かわせようとしますが、群衆たちがそれを嗅ぎつけて先回りしてやって来てしまいました(33節)。そのような彼らに対して、イエス様は「羊飼いのいない羊の群れ」としてあわれまれます(34節)。彼らは、イエス様の話や行いを見聞きして、何がなんでも教えを聞きたい、癒やされたいと求めて来ました。その“飢え渇き”が彼らをこのへんぴなところまで向かわせる動機でした。イエス様はその思いに応えて、「多くのことを教え」られました。
 ところが、日が暮れてきたために、弟子たちもまた群衆のことを心配して、早く解散させるようにと提案します(36節)。しかし、イエス様は「あなたがたで食べ物をあげなさい」(37節)という驚くべき指示を出します。お金もさることながら、仮にお金があっても食べ物を買えるような場所ではありませんでした。弟子たちの途方に暮れたような返答に、イエス様はご自身が語られた意味について、奇跡を通して教えられます。・・・差し出された食料は「五つのパンと二匹の魚」だけでしたが、イエス様がそれを手に取られ、神をほめたたえてから配ると、不思議にも全員が満腹し、さらに十二のかごいっぱいに残ったという奇跡が起こりました(41−44節)。心も身体も飢えていた人々が満たされたことは素晴らしい神のわざに違いありませんが、この奇跡はそれだけが目的ではありませんでした。それは弟子たちの訓練でした。彼らはイエス様の数々の奇跡を目の当たりにし、自分たちも主の権威で不思議な働きに参与してきました。ところが、彼らはその経験をここで生かすことができませんでした。まさか、不思議なわざは自分たちの力だと勘違いしていたのではないでしょう。彼らはイエスの力を  体験してきたはずでした。しばしば私たちも、神の臨在を経験しても次の瞬間にそれを信仰として生かせないという貧しさを痛感します。しかし、自分の力の及ばないところこそ神への信仰の良き訓練の場となります。

 聖書時代のような奇跡は現代ではほとんどないかもしれませんが、それは重要なことではありません。聖書にある不思議な出来事や戦争の記録でさえも、それ自体ではなく、そこにある真理こそが目的だからです。本来は滅びて当然の私たちにも信仰が与えられたのは、生活が便利になるためでもなければ、奇跡体験をしたり、特別な能力を身に付けるためなどではありません。神の恵みによってキリストを信じる信仰といのちが与えられたのは、こんな私たちでも神によって用いられ、キリストを信じることの素晴らしさ、キリストのいのちに生きることの幸いを、多くに人々に、あなた自身の手で「分かち合う」ために他なりません。たとえそれが、どんなに貧しく欠けだらけであっても、あなたがイエス様にいただいたいのち、あなた自身を差し出すならば、人々の本当の必要を満たすことができるのです。「私にはできません」「こんな者は役に立たない」と言ってしまいがちな者から、「どうぞお使いください」とイエス様を信じるという最高のわざを行う者になりましょう。  



凡例

(xx:yy)は、別の章からの引用を表します。xxは章、yyは節を表します。
(例) (24:1) は24章1節を表します。

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(例) ([旧]ヨブ記) とあれば、「ヨブ記」は『旧約聖書』にあることを表します。