あなたのあしたは大丈夫ですか

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人生で一番大きな買い物は家で、次ぎは生命保険だそうです。あなたも、自分の家を建てることをめざして、いま一生懸命がんばっているところかもしれません。あるいは、もうその目標を達成してしまったかもしれません。あるいは、また、その大目標を達成したのに、せっかく建てた家を失いかけているかもしれません。いや、ひょっとしたら、もう失ってしまったかもしれません。

人というものは、何歳になっても、子どもがおもちゃを欲しいと思うように、いろいろなものを持ちたいと願います。そして、それが家であれ、おもちゃであれ、流行の服装や髪型であれ、思うままに手に入らないとき、また、せっかく手に入れたものを失ってしまったとき、えも言われぬ不足感や絶望を感じますね。その気持ちがあるからこそ、「何くそ、いまに見ていろ」と言うエネルギーも出てくるわけですが、その逆もあるでしょう。「ゲーム機一つ、携帯一つ持たせてくれないような親のもとに生まれてきた自分は何て不幸なんだろう。」などと、親をうらんだり、「家の一つも買えないような自分は情けない。」、「せっかく買った家を人手に渡さなければならない羽目になるなんて、最低だ。」、「育ち盛りの子どもがいるというのに、リストラされて収入がなくなり、食べるものも満足に与えてやれないようでは、もう親の資格などない。」などと、自分を責め立てる。そんな気持ちが、まるでブラックホールのように、あなたのエネルギーをのみつくしてしまうこともあります。

こうした感情は、やがて、「だから、もう生きていてもしようがない」という結論に飛躍して、貴いいのちを奪ってしまう場合さえあるのです。でも、心のどこかに、本当にそうなのかい?何か間違っていないかい?と、その結論の正しさ確かめる声がささやいてくれさえすれば、私たちは、一番大切ないのちを守ることができます。人生という闇の中を荒波にもまれて進む船のような私たちを導く灯台の役割をしてくれるもの、それが『聖書』(以下、聖書)です。聖書とは何でしょう。

その前に、もう少し考えて見ましょう。

リストラでせっかく建てた家を人手に渡さなければいけないというのは、大変つらいことですね。でも、たとえ家ができ、それを持ち続けることができたとしても、それまで大切にしていた別のものを失うなら、それはもっとつらいことではないでしょうか。

例えば、ある夫婦がすてきな家を建てたとしましょう。そして、ローンの返済を早く終えるために共働きをしました。その結果、暮らすための家が、ただ寝るためだけの家となりました。それでも返済を早く終えましたが、この夫婦は、時間的すれ違いから心のすれ違いを生じ、悲しくも離婚、そして家は売りに出されました。それだけではありません。アパート住まいの時は、晩にはお母さんは家にいて夕食を作っていてくれましたが、家を建ててからは、両親の帰りは午後9時過ぎ。幼い兄弟は、テレビを見て空腹を紛らわしながら両親の帰りを待つ日々が始まりました。こんな風に、幼い子どもたちにとっては、親がマイホームを手に入れたがために、食べたいときに家族そろって夕食を食べる時間を奪われ、さらには、家族そろって仲良く暮らしていく人生まで奪われてしまうことになります。

聖書にこんな話が記されています。

「ある金持ちの畑が豊作であった。彼は、心の中でこう考えた。『あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』」と。また、「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。」と。」

先ほど例にあげたシナリオのように、自分がもっていたものを、ある日突然奪い取られるというのも恐ろしいことですが、この聖書の例話のように、自分の持っていたものがなくなるだけではなく、その所有者である自分自身がなくなってしまうというのは、それよりもはるかに恐ろしいシナリオです。しかし、持って生まれた私たちの思考回路は、そんなシナリオを思いつくことすら拒否してしまいます。素晴らしい目標に向って全力を尽くすことに心を奪われて、自分の行動の愚かさに気づかないとき、聖書は、そのことに気づかせてくれるのです。

ある一定期間、家族が一丸になって苦しみに耐え、念願のものを――例えば、マイホームを――力を合わせて手に入れようとすることはすばらしいことです。決して愚かなことではありません。しかし、マイホームというすばらしい目標のために、家族という、もっとすばらしくて、もっと大切なものを犠牲にしていないか。そのことに聖書は気づかせてくれます。

でも、人間の愚かさ、私たち自身の愚かさを示してくれる《鏡》なら、聖書だけではありません。他にも多くの書物が、あなたに警告を発する、人生の赤信号や黄色信号の役割を果たしてくれます。では、聖書の何が、人間の手になる他のいかなる書物とも異なって、特別なのでしょうか。

それは、この宇宙のすべてと地上のすべてを創造した神が、

o 自分の作った世界とその中の人間の始まりと終わり

o 人間の存在理由

o 人間の問題

o その解決方法

o そして、人間は、最終的に、どこへどのように向かうのか

といった疑問への答えを、聖書の中で示してくれているからです。

聖書は、あなたがいかに醜い存在であるかをあなた自身に気づかせる《鏡》で終わってはいません。聖書は、あなたに生きる理由とその最終目標を教え、また、あなたが、天地の万物を創造した神に愛されていることを教えてくれます。つまり、聖書とは、天地の万物を創造した神が、愛するあなたを自分の《子》として扱い、神の子として生きる目的を与えるために、あなたに書き送った「父からの手紙」なのです。私たちの心のどこかに潜んで、私たちのいのちが豊かに開花するのを妨げているすべての質問に答え、聖書の神が本当の神であり、人間の《父》であることに気づかせてくれます。

聖書は、父なる神から、子なる私たちへの慰めと励ましと支えで満ちています。そこから私たちは、生きる希望を得ます。苦しみの中を、頼りない自信や自己暗示によってではなく、あなたを生んだ父親からの本物の愛と信頼とに支えられて生きていく力を与えられます。それは、聖書に次のように書いてあるとおりです。

十字架のことば[聖書の神のことば]は、滅びに至る人々には愚かであっても、

救いを受ける私たちには、神の力です。(「コリント人への手紙 第一」1章18節)

本当でしょうか?もちろん、本当です。でも、それを信じるためには、自分で確かめてみる以外にはありません。神のことばである聖書は、人間の問題点を示し、同時に、人間に励ましや慰め、そして、力を与えます。神のことばに真剣に耳を傾ける者には、新しい人生、変革を与えます。でも、やはり、本当だろうかという思いがありますね。 本当かどうかをあなたが確かめるために、恵庭福音キリスト教会は、神によって恵庭の地に建てられました。そこには、いまここであなたが読んだことがすべて本当であることを証言する人々が集っています。教会の門をくぐり、全知全能の神の前に、あなたのすべての質問を、そして、願いをぶつけて、その神がどうお答えになるか、確かめてみてください。教会の敷居が高すぎるなら、ぜひ、このウェブサイトからメールで私たちの教会をお訪ねください。あなたが、自分に必要な答を見つけるまで、私たちはあなたとともに歩みたいと、心から願っています。

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