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キリスト教キーワード(ま 〜 も)


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マラナ・タみこころ聖霊の実導きミッション恵みメシヤ黙示文学樅の木


《マラナ・タ》
 「われらの主よ、来たりませ」という意味のアラム語です(1コリント16:2)。初代教会以来、キリストが再び地上に来られるという再臨の信仰は、クリスチャンの困難をも克服してゆく確信ですが、この言葉はその力強い望みを表しています。最後の晩餐の別離の席で心騒がせる弟子たちに主イエスは次のように言われました。「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。… 行って、場所の用意ができたならば、また来て、あなたがたをわたしの所に迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」(ヨハネ14:1-3)。そして、聖書全巻がこの言葉で閉じられていることも、非常に印象的なことです(黙示録22:20-21)。

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《みこころ》

 御旨(みむね)、神の考え、ご計画のことです。「あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、… 何が神の御旨であるか … を、わきまえ知るべきである」(ロマ12:2)とあります。また、次のような警告も書かれています。「夢をみた預言者は夢を語るがよい。しかし、わたしの言葉を受けた者は誠実にわたしの言葉を語らなければならない」(エレミヤ23:28)。
 ではどのようにしてみこころを知ることができるのでしょうか。心身をつとめて清くし(1テサロニケ4:3)、祈りのうちに聖書を通して主に尋ね求める早朝のディボーションの大切さが、詩篇にこう書かれています:「わたしは朝早く起き出て呼ばわります。わたしはみ言葉によって望みをいだくのです」(詩篇119:147)。

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《聖霊の実(せいれいのみ) [fruit of the Spirit] 》

 クリスチャンの内側に、聖霊によって形成されていく品性的結実、祝福のことです。ガラテヤ5:22,23には次のように書かれています:「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」あなたはこの聖句を呼んで「そうだ!」と思いますか、それとも「こんなにたくさん?それなら私は失格だ…」と思いますか?ここに述べられていることは「み霊の実のリスト」ではありません。プリズムを思い起こして下さい。一本の光線がプリズムを通して何色にも別れて広がっていきます。聖霊を通して差し込んだ一つの光が、私たちを通していくつにも広がっていきます。その一本の光について聖書は「最も大いなるものは、愛である」と言っています(1コリ13:13)。大切なことは曇らせないこと。

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《導き [Lord's guidance] 》

 父・御子・聖霊の三一の神による指導、案内、教導のことです。「シオンにおり、エルサレムに住む民よ、あなたはもはや泣くことはない。主はあなたの呼ばわる声に応じて、必ずあなたに恵みを施される。主がそれを聞かれるとき、直ちに答えられる。たとい主はあなたがたに悩みのパンと苦しみの水を与えられても、あなたの師は再び隠れることはなく、あなたの目はあなたの師を見る。また、あなたが右に行き、あるいは左に行く時、その後ろで『これは道だ、これに歩め』と言う言葉を耳に聞く」(イザヤ30:19-21)。神の導きを確信するには、祈りの中に心のうなずきを持てること、聖書の言葉の裏付けがあること、兄姉クリスチャンの助言に照らし合わせつつ、環境の動きを注視し待ち望むことが大切です。

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《ミッション [mission]》

 「送る」というのが語源のことばですが、ここからさまざまな意味が派生してきました。使命、任務、使節(団)、代表(団)、さらに信仰の世界では伝道、宣教、宣教団体などです。復活の主イエスは弟子達に宣教を委任しました:「あなた方は行って、全ての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって彼らにバプテスマを施し」なさい(マタイ28:18-20)。この聖句は“大宣教命令”と呼ばれます弟子達は全世界に出かけていって、イエスが救い主であることを宣べ伝えました。そして、いまは私たちに宣教の使命が委ねられているのです(2テモテ4:2)。伝道の方策の一つとして教会教育が重要視され、それがさらに拡大されて、一般教育を含めて設立された学校がミッション・スクールです。

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《恵み [grace; χαριs(カリス)]》

 恩寵、恩恵とも訳されていますが、神が直接あるいは人を通して与えて下さる祝福、喜び、顧み、賜物のことです。旧約にあっても、アブラハムへの子孫繁栄の約束のように、神の恵みは随所に見られますが、新約聖書では特に、キリストの死と復活を通して私たちに示され与えられた、救いと永遠の命をさしています。いずれにも明らかなのは、神の恵みは私たちの力や業績に対するものではなく、神からの一方的な賜物です。このことを「絶対恩寵」と言います。あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。(エペソ2:8)

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《メシヤ [Messiah; マシアハ(H)]》

 イエス、キリスト、メシヤなどの名前はすべて、西暦の起源になった方を指しています。私たちも名前の他に社会での称号(〜係、〜長)を持ちますが、「イエス」は名前、あとの二つは称号です。「キリスト」は「油注がれた者」を意味するヘブル語「マシアハ」(メシア)に相当するギリシャ語「クリストス」の邦訳語です。
 古代イスラエルでは誰かを王位などに就けるときに、その頭に油を注ぐ習慣がありました(例:1サムエル9:16)。この意味ではイスラエル歴代の王たちや預言者たちは皆メシアだったのですが、権力の濫用に走りがちだった人間の王たちに失望した預言者たちは、未来の来るべきメシヤに希望を託し、多くの預言を残しました(例:ダニエル9:25)。そしてやがて来られたイエスは、「私がそれである」(ヨハネ4:25)と示されました。

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《黙示文学(もくしぶんがく) [apocalyptic literatures]》

 紀元前2世紀頃から紀元100年頃にかけて、ユダヤ教やキリスト教内に広まった宗教文学です。「黙示」というのは、“隠された真理の開示”という意味で、幻や異象などによって神意の秘密が示されたという主張に立って書かれているので、この名があります。聖書の正典に含まれている独立の文書としては、旧約のダニエル書や新約の黙示録があります。象徴的な表現や、実際には存在しない生物などのシンボルが多用されているので、どのように解釈するかについて、さまざまな見解があります。これはその多くが他国支配や、迫害の危機に際して書かれたために、婉曲表現を用いなければならなかったからです。大別すると2つの立場があり一つは神学的に全く無価値な荒唐無稽なものとする態度と、現代の歴史的事件と結びつけて、将来への見取り図とする態度とがあります。

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《樅の木(もみのき)》

 キリスト降誕の祝いにクリスマスツリーを飾る習慣は、今では世界中に普及しています。このツリーに用いられる木はおもに樅の木です。では、なぜ樅の木が用いられるようになったのか、その理由について西欧にはさまざまな伝説が残っています。そのひとつは、キリスト降誕の夜に、神は信仰・希望・愛(1コリント13:13)という三天使を送り、クリスマスツリーを立て、明かりをつけるように命じた時、天使たちは樅の木を選んだというのです。それはこの木のどの枝も大きい枝から直角にのびていて、十字架の形に似ていたからでした。このほかにも沢山の伝説がありますが、西欧では寒い冬に、他のすべての樹木が枯れても生き生きとしていて、永遠の生命を表すものとして考えられていたこともそのひとつの理由だろうとされています。

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