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(6) まとめ

 私達は今まで19回に渡って『キリストの教会』という群れにまつわる組織の問題を見て参りました。「なぜこの群れが教団組織のようなものを持たないのか?」その背景を時間をかけて紹介してきましたが、その功罪が何であるのかを少しでも理解して頂けたらこのシリーズを始めた甲斐もあったというものです。今回はその背景をまとめると同時に、私達に課せられている課題が何なのかを考えてみます。

 まず私達は「『キリストの教会』は組織を持たない」という立場を考える時に、それが群れの発生と同時に自動的に生まれた立場ではなく、数限りない失敗と新しい試みの中から今ある立場が生まれたということを覚えておく必要があります。同時に群れの歴史は、アメリカと違う事情に生きる日本人がそれを鵜呑みにしてはいけないという事をも教えてくれました。

 復帰運動は聖書に返ろうという運動です。ですから、自ずと其々の聖書論、聖書理解が大きな要素を占めてきます。組織の問題も聖書的位置付けや聖書的権威が当然求められるわけですが、それは決して聖書に明確な命令も前例もないからという理由だけで組織所有に反対しているのではないという事も歴史が証明してくれています。そこには、倫理的、地域的、文化的、経済的、神学的、そして解釈的様々な問題が複雑に絡み合っているのです。

 20世紀以前の『キリストの教会』にはいわゆる中央集権的な意味での組織はありませんでしたが、その反面、組織ですら成し得ない群れ全体への影響力(指導者や雑誌など)がありました。彼らは中央集権的な意味での『組織』は嫌いましたが、諸教会を助け、支えるものとしての“組織”(全国大会や州大会などの交わりの場)を持ちました。同時に、度ある毎にそれを確認し、再検討出来る情況と人材が揃っていました。言い換えると、良くも悪くも自分の信念を後世に伝えていこうとする意気込みと情熱を持った人々がいたということです。

 組織の問題は、何をもって組織と呼ぶかという定義にも大きく左右されます。それは10人いたら10通り生まれるかもしれません。私自身は「組織」という言葉自体への恐れはまったくありませんが、経験や認識の違いでその二文字を毛嫌いする年配者が多いのも事実なのです。なぜそうなるのか? 繰り返しますが、それは組織というものをどのように位置付けるかによるのです。

 最後に、現状のままで私達『キリストの教会』が組織を持つことは可能なのかについて、私個人の見解を述べてみます。この群れの中に留まる限り、諸教会の信仰、運営、そして財産を管理するような組織体(教団組織)を持つことはまず不可能でしょう。しかし、別の形で組織が必要だというのが私の考えです。まず、主に遣わされた地にあって独立した組織体としての各個教会が確立されなければなりません。又、群れ全体に影響力を持つ非公式な組織体もあります。群れの神学校(大阪聖書学院)の働きはそのような側面がありますし、全国大会の交わりも大きな影響力を持つものなのです。毎年主催教会は変わりますが、しかしその都度委員会が作られるということは、そこに組織が運営されていることを証しています。又、そういう組織なくして、300名も集まる大会を運営することは不可能です。

 各個教会の自治権に立って、お互いの教会政治や運営に対して口を挟まないという『キリストの教会』の単立性は確かにすばらしい点があります。しかし、その良さも場合により、あるいは時代の風化という流れの中で悪い方向へ向かい弱点となり得るのだという認識が大切ではないでしょうか。今、私達はまさにそういう時代に直面し、そういう時代の真っ只中に生きているのです。群れに与えられている独自の自由は決して放縦ではないはずです。自分では自由のつもりでいても、外から見れば放縦になっている事もあるのです。その声を謙虚に聞けるのかどうかが明日の『キリストの教会』を左右するでしょう。

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