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ジェームズ・オケリーの場合、その1

 前回指摘しましたように、私達が属する日本の『キリストの教会』は、18世紀から19世紀に差し掛かろうとしていた時代に、アメリカで起こった運動から生まれました。その運動を“復帰・復興運動”(Restoration Movement)と私達は呼んでいます。その運動名から見ても分かるように、それは当時のアメリカ諸教会が抱えた時代的なものを背景に、より普遍的な何かに立ち返ろうとする試みです。それが聖書、特に新約聖書なのです。いつの間にか聖書そのものよりも権威あるもののように見えた様々な宗教文化や人為的権威を退け、ただ聖書だけに帰ろう、聖書だけをクリスチャンの信仰と実践の規範にしようと試みたのがこの運動です。そういう意味で、“復帰・復興運動”とは、19世紀初頭のアメリカにおける宗教改革と呼ぶ事も出来ます。

 興味深いのは、この運動が19世紀初頭という同じ時代に、新大陸アメリカという同じ場所で、それぞれ交流のなかった諸教派(メソジスト教会、バプテスト教会、長老教会)の中から同時発生的に始まったという点です。それは、教会が教団組織のようなものを持つべきかどうかという点でも、驚く程共通した理念・主張を持っています。今回は、その一人、メソジスト教会から現れたジェームズ・オケリー(James O'kelley/1735-1826)という人物にスポットを当ててみます。

 彼が信仰を持っていたメソジスト教会とは、どのような群れでしょうか。今日、日本にもメソジスト系列の教団・教派が20程存在しています(「キリスト教年鑑」の分類による)。聞き覚えのある名前を上げてみますと、ホーリネス教団、救世軍、基督兄弟団、日本イエス・キリスト教団、フリー・メソジスト教団などがあります。関西ですと、関西学院大学などもメソジスト系ミッションとして始められています。

 もともとメソジスト教会のルーツは英国の1720年代にさかのぼります。それは、当時英国国教会(今日の聖公会)の司祭をしていたジョン・ウェスレー(John Wesley)とその弟チャールズ(Charles)らによって始まった集会が母体となっていきます。“メソジスト”という名称は、もともとあだ名だったらしく、彼らの几帳面さ(“Methodical”)がそのようにもじられたようです。彼らは規則正しい聖書研究や祈りの習慣を持っていただけではなく、規則的に刑務所や貧しい人々の家庭で社会奉仕を試みていました。ただし、この“メソジスト”が正式名称になったのは、1784年アメリカにおいてでした。それまで彼らの活動は、あくまでも英国国教内における一つの啓発運動に過ぎなかったわけです。

 ちなみに、ウェスレーという名前を初めて聞く方もおられるでしょうが、案外知らないところで私達はこの兄弟のお世話になっています。特に弟チャールズ・ウェスレーは秀でた音楽家で、多くの讃美歌を残しています。私達がクリスマスによく歌う、讃美歌98番「あめにはさかえ」などは彼の代表作です。

 さて、ジェームズ・オケリーという人物についてですが、彼は生まれながらのアメリカ人ではありません。生い立ちは明らかではありませんが、おそらくアイルランドで生まれ、1760年代にアメリカに渡ってきたと思われます。その頃のアメリカは、ちょうど独立への気運が高まっている時代でした。ジェームズは独立戦争にノースカロライナ国民軍の一人として参戦。その頃、後にメソジスト教会となる群れの中で信仰を持つこととなります。そして、少なくとも1775年までには、説教の出来る信徒になっています。

 しかし、ここで一つの問題が浮かび上がってきました。オケリー達は説教することは出来ましたが、聖餐式やバプテスマ、結婚式や葬式などを行うことは許されていなかったのです。それが出来たのは、按手を受けて牧師に任命された者だけ、平たく言うと、牧師の資格を持った者だけでした。独立戦争は、アメリカに渡っていた英国国教会の多くの牧師達を本国へ引き上げさせました。その結果何が起こったかというと、一般信者だけが取り残されて、牧師がいない、牧師不足状態が続きました。牧師がいませんから、彼らは聖餐を取りたくても取れない、信仰に入り、主イエス・キリストを信じてバプテスマを受けたくとも、受けられない、という状況です。さらに大変なのは結婚式や葬式の場合です。牧師なしでは、それすら出来なかったわけです。

 独立戦争中の苦い経験は、新しくアメリカ人としてのプライドを持ち始めたクリスチャン達にとって、繰り返してはならない深刻な問題でした。そこで、独立戦争後、メソジスト系指導者達が1784年に結集し、「メソジスト監督教会」を組織し、独自の牧師達を生み出すべく、英国のジョン・ウェスレーから直接遣わされた3人の指導者によって按手を受けました。按手を受けて新しく牧師になった中の一人に、ジェームズ・オケリーがいたわけです。

 ここで注目して頂きたいのは、アメリカで生まれた新しい教団の名称、「メソジスト監督教会」です。「監督」という名が加えられている点からも分かるように、この群れは単純に一人の監督によって管理される教団であることを物語っていました。生まれたての組織ですから、権威を分散せずに一人に集中し、スムーズに事を運びたいという意図がそこには込められていたのでしょう。最初にメソジスト教会の監督に任命されたのが、フランシス・アズベリー(Francis Asbury/1745-1816)でした。アズベリーは自分に委ねられた権威をすぐに施行し、新しく按手を受けて牧師となった一人一人に任地を指示していきました。ところが、牧師達の間では、「仮に監督アズベリーの指示を望まない場合、どうしたらいいのか」 とか、「今まで慣れ親しんだ地の方がいい」といった疑問や疑念、要望といったものが生まれました。アズベリーはその申し出を受け入れると、誰もが自分勝手な、自分に都合のよい任地ばかりを選ぶことになり、貧しい地域への働きがおろそかになるということを理由に、牧師達の要求を却下したのです。オケリーはアズベリーの強行的態度を独裁の何物でもないと理解したようでした。

 年齢的なものもあったのでしょうか(オケリーの方がアズベリーより10歳年上)、オケリーとアズベリーのやり取りは、日に日に激しさを増しました。若い頃、ボクサーとしてならしていたこともあってか、オケリーという人は、どうもすぐに頭に血が登る激情型だったようです。最初はオケリー寄りだった他の牧師達も、オケリーのあまりもの激しさに、次第に彼との歩調を合わせられなくなり、アズベリー側に寝返ってしまったという経緯も残っています。まさか、某ヘビー級ボクサーのように、試合中対戦相手の耳を噛み千切るようなことはなかったでしょうが、性格的激しさはこの時も、それから後においても(このことについては次回触れます)、オケリーにとっては致命傷となりました。

 結果として、オケリーは賛同者と共に1793年、「メソジスト監督教会」を脱退し、独自の群れを形成していきました。その中で、オケリーはアズベリーとの確執から学んだ自らの体験をもとに、5つのポイントからなる以下の基本原則を掲げています:

  1. 主イエスのみが教会の頭である。
  2. 全ての派閥や分派名を捨てて、クリスチャンという名だけを名乗る。
  3. 聖書のみが我々の信条であり、信仰と実践の規範である。
  4. クリスチャンの性格、及び敬虔さが教会の交わりと会員制を決める唯一の検査である。
  5. 個人的判断の正当性、並びに良心の自由は全てのクリスチャンの特権であり、又、義務である。

 この原則を見る限り、オケリーは皆の権威を認め、皆が主にある兄弟姉妹である事を強調しています。それは、メソジスト教会内で彼自身が抱えた独裁主義への反動であり、教団組織的なものへの警戒心でした。彼が試みた事は、これらの基本原則を見る限り、少なくとも表向きは全てのクリスチャンの共通した権威、しかも唯一の権威である聖書を掲げようとする試みであった事が分かります。

 次に、この原則を掲げたオケリーが、その後実際にはどのような歩みをしたのかを見て、組織との兼ね合いからまとめてみたいと思います。


ジェームズ・オケリーの場合、その2

 オケリーは、自由、かつ良心的な教会運営・活動を求めた人物です。それは、イギリスから独立したアメリカという国の精神、イギリスによる貴族政治でなく自由と平等という精神ともうまく合致するものでした。ですから、そういう時代の波に乗って、オケリーの運動はバージニア州を中心に、メソジスト教会から約6千人もの信者を得たと言われています。ある意味で、まさに羊泥棒です。

 さて、オケリーの精神に賛同し、群れに加わった中にウィリアム・グィリー(William Guiry/1773−1840)という人物がいます。あらゆる点でオケリーの主張に同意しつつも、グイリーは一つの点でだけ、オケリーと意見を異にしていました。それはバプテスマについてでした。オケリーはメソジスト教会から離れた後も、以前と変わらず滴礼ないし注礼を行っていました。新約聖書の“洗礼”を現す言葉は全て“βαπτιζω[バプティゾー]”であり、それは「浸す」という意味ですから、初代教会の洗礼は浸礼だったわけです。グィリーはより聖書的でありたいという恐いほど純粋な願いから、聖書的バプテスマのあり方は浸礼以外に有り得ないという結論に至っていました。

 さらに、オケリー運動の第5基本原則によると、「個人的判断の正当性、ならびに良心の自由は全ての者の特権であり、義務であ」りましたから、グィリーは次第に自分の確信を他のメンバー達に分かち合い、賛同者達に浸礼を授けるようになっていきました。反面、オケリー自身は極端に浸礼を好みませんでした。ですから、二人の関係は徐々に険悪なものになっていったようです。そこで1810年に、主だった指導者達が集まり、この問題が話されることになりました。その中で、オケリーはグィリーに次のような発言をしてしまいます。「この群れを誰が支配するのか。君か、それとも私か。」それに対してグィリーは答えたそうです。「兄弟よ。それは私でもあなたでもありません。キリストがこの場を支配なさるのです。」かつて、オケリーはメソジスト教会初代総監督アズベリーの支配力に対して「キリストのみ」を訴えました。ところが、皮肉な事に、それから16年後、今やオケリー自身がアズベリーの立場にあったのです。昔、自分が主張した内容を今や自分ではなく若き指導者グィリーが持っています。人の考えとはそんなに簡単に変わってしまうものなのでしょうか。否、そこにはもっと深い感情的なもの、あるいは本音と建前的なものがあったのでしょう。ここには指導者たるべき者への一つの大きな警告が込められています。

 以上、オケリー運動の場合、教会と組織の関係は本音と建前という矛盾点がありました。しかし、同じようなものは、おそらく今日の教会にもあるのではないでしょうか。『キリストの教会』には、教団組織という権力で教会やクリスチャンを縛ることはなくとも、別の面で人々を支配し、自分の言い成りにしようとする思いが見え隠れしている場合すらあるのです。権力とは、現われ方こそ違えども、不気味な魔力を伴っています。クリスチャンが主と仰ぐお方は全能を賜っていたにも関わらず、十字架までへりくだって下さったのに、その方を主と仰ぐクリスチャン・教会が権力に魅力を感じるとは、誠に皮肉な話です。悲しいことですが、オケリーVSグィリーの問題は、組織がなくとも似たような問題が起こりうるということを見事に例証してしまいました。

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